★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

悟空の琵琶骨を穿て

2024-05-11 23:53:44 | 文学


李天王哪吒太子は、照妖鏡を擎て空中に立ち絵へば、もろもろの天将、華果山の四方を十重二十重にとりかこみ、眞君と悟空は眞中にありて相戦ひ、いつ果べきとも見えざりけり。観音菩薩これを見て、携へ給ふ水瓶を悟空が頭に投的んとし給ふ時に、太上老君おしとどめ給ひ、「水瓶原來磁器なれば、渠が鐵棒に打あてたらんには、忽ち微塵に砕くべし。我一個の圏子を持てり。是を金鋼琢ともまた金鋼套とも名づけて、不思議なる寶貝なり。これをもつて此猴を打つべし」とて下界に向ひて抛下し給へば、あやまたす悟空が頭の正中に僕的と中れば、さしもの悟空、足をもためず眞うつむけに倒れたり。其時眞君の細犬飛来りて、腿を啣へて引たふせば、四大尉二將軍と共にをり重なって、遂に悟空を高手小手にいましめ、琵琶骨を穿ちふたゝび變化することを得ざらしめ、師をまとめ上天へと帰陣し給ふ。


ついに脳天に食らってしまった悟空であるが、悟空は脳で考えている輩に非ず。どちらかというと琵琶骨(肩甲骨)で変化する物体であった。というわけで、そこを穿って縛り上げて天に連行した。

思うに、校内暴力の時代、教員はべつに子どもの頭をつねにはたいていたわけではない。むしろ、頭を狙っていたのは、ドリフなのである。言うこと聞かない猿たちの急所がどこにあるのか、昔の人は知っていた。今は忘れたので、脳みそのなか(心)を狙うか頭を狙ってしまう。最悪である。

そういえば、「3年B組金八先生」の脚本家、小山内美江子氏がなくなったそうであるが、――「ウルトラQ」の「あけてくれ!」の脚本家だったのを、はじめて知った。脚本家としてすごく膂力があったのは誰にでもわかることであったが、「あけてくれ!」の脚本家だと知って見方を変える人は多いはずである。「あけてくれ!」がサラリーマンの命を賭けた日常からの逃避行動が描かれているように、金八も学校からの逃走だったにちがいない。実際、このドラマで、皮肉なことに、戦後、築き上げられてきた学校の教師の文化的な多様性が毀損され、いよいよ子どもが学校(先生)から精神的に遁走したからである。事情は一様ではないだろうが、――様々なありようを持っていた「良い?先生」にたいし、金八の大ヒットが、何も分かっていない当時の子どもをして、目の前の教師を「金八みたい(みたいではない)」というふうにイメージを変更させてしまった――この現象は多く見られたようにおもう。もう絶望的な感じだった。

「金八先生」を遠くから見ると「金々先生栄花夢」にみえてくる――はずがない。むしろ、金八先生は、売り出す側の意識には、戦後の牧歌的学園小説「きんぴら先生青春記」のイメージが存在していたのかもしれない。坂口安吾が中間俗悪小説を書いていた頃であって、わたくしの記憶では、「きんぴら先生」も女子学生に興味があったりとかなり「堕落」していたような気がする。現在、先生がものすごく精神的にきつい労働になってしまったのはいろんな理由があるが、きんぴら先生とは全くちがう金八を作らせてしまった情勢にその一端がある。あれは自らを支えるもの(親的なもの)を失った多くの国民によって自らの似姿としての擬似親として、ナルシスティックに欲望されたものだ。結果、教員志望の学生には理想が金八みたいな者がけっこういて、GTOやごくせんのときはどうだったかはしらないが、こういう虚構に支えられた先生のイメージが文科省のせりふをそのまま復唱するような感じに徐々に移行する地獄から別の地獄みたいな現象が生じたのである。で、志望者も減少してしまった。自分を犠牲にして生徒をケアの家庭に介入する「良い先生」のイメージは、昔ながらの職域奉公ではなく、金八的フィクションのせいである。最近の学校の管理職はもうそのフィクションを浴びた世代である。

フィクションは、現実を現実らしく見せてしまうやっかいなものだ。当たり前だが、現在の判断というものは、つねに、虚構に似てしまっている過去の解釈にほかならぬ。特に重要な政治的なものにたいしてはそうならざるを得ない。どうみても虚構についての勉強が国家の責任において必要であって、それを軽視する国家はもう死ぬつもりとみるほかはない。


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