★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

藤塚神社を訪ねる(香川の神社33)

2017-09-09 15:57:29 | 神社仏閣

藤塚町を走っているとビルに挟まれて藤塚神社がありました。




「傳ふる所によれば生駒氏時代の創立にして徳善寺の南隣藤塚と稱する所に奉齋せられしを、明治三年頃現地に遷座せりと云ふ。藤塚町の名はこれによって起これり。」
ちなみに徳善寺は高松空襲で焼けた。藤塚町の由来については、他にもいろいろ伝説じみたものがあるらしい。生駒氏がそこらを悪さしてあるいていた山伏をたたききったその塚を藤塚といったとか、佐藤志摩介の墓(藤塚)が徳善寺にあったからだとか。

佐藤志摩介というのは、栗林公園を作った人として知られているが、一説によると、平家物語巻十一で有名な義経の家来、佐藤継信の子孫だということだ。平家の偵察に讃岐に来てたときにそこらの美少女と出来ちゃったのが志摩介の先祖だそうだ。あやしい……。この子孫が伏石や栗林あたりを仕切っていたそうだ。とりあえず、そのDNAを落っことしていった人の最後をどうぞ。平教経はすごい弓の使い手で、次々と源氏の兵を射貫いていくのだが、その矢が義経に当たりそうになったので、咄嗟に継信が身代わりに割って入る。

判官は佐藤三郎兵衛を陣のうしろへかき入れさせ、馬よりおり、手をとらへて、「三郎兵衛、いかがおぼゆる」とのたまへば、息のしたに申しけるは、「いまはかうと存じ候ふ」。「思ひ置く事はなきか」とのたまへば、「なに事をか思ひ置き候ふべき。君の御世にわたらせ給はんを見参らせで、死に候はん事こそ口惜しう覚え候へ。さ候はでは、弓矢とる者の、敵の矢にあたッてしなん事、もとより期する処で候ふなり。就中に『源平の御合戦に、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信といひける者、讃岐国八島のいそにて、主の御命にかはり奉ッて討たれにけり』と、末代の物語に申されむ事こそ、弓矢とる身には今生の面目、冥途の思出にて候へ」と申しもあへず、ただよわりによわりにければ、判官涙をはらはらとながし、「此辺にたッとき僧やある」とて、たづねいだし、「手負のただいまおちいるに、一日経かいてとぶらへ」とて、黒き馬のふとうたくましいに、きぶくりんの鞍おいて、かの僧にたびにけり。判官五位尉になられし時、五位になして、大夫黒とよばれし馬なり。一の谷の鵯越をもこの馬にてぞ落されたりける。弟の四郎兵衛をはじめとして、これを見る兵者ども、みな涙をながし、「此君の御ために命をうしなはん事、まッたく露塵程も惜しからず」とぞ申しける。


というわけである。讃岐の美少女の恨みを思い知れ。そういえば、弟の「狐忠信」(『義経千本桜』)もなかなかのやつである。都を追われた義経にかわって都に潜伏。しかし、そこから恋人(注:人妻)に手紙を出すという、煩悩に勝てなかった男だったため、みつかって自害。昔から、不倫はイケナイことだったようである。このような何か人間味があるくせにいざとなると主君のために死ぬという、自民党や民進党の政治家みたいな兄弟の妻達は、なげく母親達のために、鎧をきてコスプレまでしてやったという。国定教科書で有名な次の部分である。

継信・忠信は源義経の家来なり。平家の盛なりし頃、義経は奥州に下りて身を藤原秀衡に寄せしが、兄頼朝の兵を挙ぐる由聞きて、急ぎて鎌倉へ馳せ参じぬ。継信兄弟も従ひ行きしに、其の後義経京都へ攻上り、平家を追落して武成著しかりしかども、頼朝と不和になりて、再び奥州さして落延びたり。然るに継信は屋島の合戦に能登守教経の矢にあたりて斃れ、忠信も京都にて討たれしかば、同じく従ひ出でたりし亀井、片岡等の人々は無事にて帰国せしに、継信兄弟は形見ばかり帰りぬ。母は悲しみに堪えず、せめて二人の中の一人にても帰りたらばと、悲嘆の涙止む時なし。兄弟の妻は母の心根を察しやがて夫の甲冑を取出し、勇ましげにいでたちて、母の前にひざまづき「兄弟唯今凱陣致し候ひぬ。」と言ひしかば、母も二人の嫁の志を喜びて、涙をさめてほゝ笑みたりとぞ。
継信の、主と頼みし義経に忠なりしは、屋島の戦に教経の矢面に立ちて、主の命に代りしにても知るべし。義経は痛手を負へる継信をいたはりて「一しょにとてこそ契りしに、先立つることの悲しさよ。思ひ置く事あらば言へかし。」と言へば、継信苦しげなる息の下に、「敵の矢にあたりて主君の命に代るは弓矢取る身の習、更に恨あるべからず。唯、思ふ所は、故郷に遺し置きし老母の身の上なり。弟なる忠信をば行末かけて召使い給へ。」とばかり言ひて、やがて息絶えたり。今はの一言に、母への孝心、弟への友愛、之を聞ける兵も皆鎧の袖を絞りぬ。弟の忠信が吉野の山に踏止りて多勢の敵と戦ひ、義経を落してやりし武勇義烈は、兄にも劣らずといふべし。妻なる二人の婦人が、深き悲しみを押包みて母を慰めんとせし健気さ、雄々しさ、打揃ひての忠孝、世にもめでたき例ならずや。時の人の其の姿を木像に刻みて此の堂を建てしも、故あるかな。こゝに詣でし俳人の句に、
   軍めく二人の嫁や花あやめ
   卯の花やをどし毛ゆゝし女武者
明治八年、此の小堂は火災に罹り、像も共に焼失せたりとぞ。


……最後の一行が、涙も引っ込む衝撃である。

それはともかく、佐藤志摩介であるが、香西氏の家臣で、そのあとは仙石氏に仕えていたがそのあとは生駒氏に仕えている。この裏切り者めがっ。「天皇陛下万歳っていうかギブミーチョコレート」のパターンである。

狭い場所に押し込められているこの神社を見ていたら、讃岐というのが「狭緯(さぬき)」から来ているという説を思い出しました。


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