★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

自由のための雑感

2022-09-19 23:06:49 | 思想


SDGsはTODOリストみたいなものであろうか。そうではなく、いますぐすべてを関連づけてやるべきことなのであるが、そんな風に出来る政府と人民はいない。むしろ、そこには、例えば、社会保障政策をそういわずに「寄り添い政策」とか換言して平気な感性がある。これを看過してはならないのは、「寄り添い政策」なんて口走る人間はいつも何もしないからだし、社会保障の具体を看過するからである。持続化可能という言葉以外のノイズの除去はこれから行われるであろう。大概、持続するためには、無駄を省くことが重要だと受験勉強以来、我々は条件反射するように出来ているからである。すなわち、SDGsは、持続のための弱い者いじめに帰着する。

昨日、NHKの「中流危機を越えて」という番組みてたら、つい生産力理論みたいな言葉が頭の中によぎったやつは俺だけじゃあるまい。危機のための内部留保を、給料が上がらない理由として全体として合理化してしまうのは、いわゆる「一国の生産力の伸展を目標として社会構造の合理的改造を主張した」それとどこがちがうのであろう。現在の場合、生産力の進展ではなく、生産力の見かけの維持(持続)、みたいなものが目標だから、より欺瞞的な感じがする。生産力理論の問題はいろいろあったが、それが一応、国民からの批判的契機を否定出来ないシステムの構築みたいなものであったにもかかわらず、その批判的契機を所与のモノとして考えていたところが駄目だった気がする。システムのための批判は自由を失うのである。循環的だが、そうやって批判そのものが失われるのが、近代的人間の通常運転であった。大河内一男が思想統制は1937から太平洋戦争開始までの間が一番やばかったみたいなこと言っていたと思う。もしかしたら、彼らが自身の理論の現実との関係に悩んだことそのものが、思想統制みたいに感じられたこともあったかもしれない。自分の思想の自らによる「統制」が不能になってきたという。。。

プラグマティズムが一部で流行っているというか研究されているのは知っている。けれども、それは西田幾多郎みたいなアナキズムが好きな論者が多くなってくるのをわたくしは期待していたが、やはりあまりそうはならないきがするのである。例えば、20十年前ぐらいにでた、苅谷剛彦氏の『知的複眼思考法』も根本的にはプラグマティックであった。今回はじめて少し読んだけど、この本が書かれた頃わたくしも似たような教育方法をとっていたような気がして、これはこれで懐かしい気がした。いま多くの大学教員の悩みは、一方的な講義がしたいなあ、みたいなものに対するノスタルジーじゃなくて、知的複眼みたいなある種の葛藤を与える方法が不能になったからであった。しかし、思うに、学生の思考に対立物を与えるという、その精神自体がなにか自由を失ってはいないであろうか。

吉本隆明は「新興宗教ついて」で、教祖が女性であることについて考察してたとおもう。わたしも例の暗殺事件について、女の元首相だったら彼は撃ったのか、宗教にのめり込んだのが母親でなく父親だったらどうだったかと最初に考えたのは確かである。わたしはつい、そのエッセイで吉本が農と性のことを中心に語っていたことを忘れていた。しかし吉本も、その観点を自分の仕事でいかしきれたとは言えないようだ。思考の生産性はかように自分ではコントロール出来ず、むしろ自由をもとめてずれていってしまう。

花★清輝なんかは、その自由を、見かけの「精神的自由」ではなく紋切り型かも知れない「自明の理」に身を浸しその精神的経験に正直になることによる、――自然な弁証法に求めていたようだ。しかしこれもわりと理念的な想定なので、花田は文章上案外作為的に思考を混乱させようとしすぎたかもしれない。これにくらべると、たとえば、ヤンガージェネレーション・つかこうへいの『飛龍伝』なんか堂々と不自由さから出発する。主人公の神林美智子は高松の金持ちの妾の子の設定で、安保闘争で活躍することになるわけだが、この高松ってのがイメージとしてジャンプを感じさせるということなっている。これが高知とか福岡とか木曽だと意味が違ってしまうわけだ。そして、その主人公が機動隊員の男と付き合うところまであからさまに不自由な作為である。しかし、案外これは面白いぞというのが、戦後のエンターティメントだった。紋切り型に身を浸す不自由さに面白さを求めた段階である。しかしそれは、その経験に正直になることではなかった。

大江健三郎の「セブンティーン」や三島由紀夫の「鏡子の家」なんかは、その正直さに挑んだ作品だったと思うが、結局、占領下の日本という現実を打ち破るためには、やる気と気合いだみたいなところに落ち着いた可能性があると思うのである。例えば、本当は、先生というのは、先生なんかやっちゃいけねえわワシはという感じの人がやってちょうどよい世の中であるべきで、天性がないやる気満々の人はやってはいけない。そういう人たちが動員されてしまうのは政治家と同様、世の中に、普通に生きてて普通じゃない、狂ったやる気で乗り切るようなシステムの暴力性(これは子どもや親の行動を含む)がある証拠なのである。こんな状態で、システムに対する批判がありうるであろうか。だいたい社会はシステムではないし、生権力はあるのかもしれないが、そこまで人間は不自由になりきってはいないのではないだろうか。


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