★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

さへ生まれ給ひぬ

2019-01-30 23:20:58 | 文学


先の世にも御契りや深かりけむ、世になく清らなる玉の男御子さへ生まれ給ひぬ。


情けないことに、以前わたくしは、「玉の男御子さへ」の「さへ」を読み落としていた。恐ろしく光り輝くものが生まれたということに気をとられ、――あまりに常軌を逸し、先の世、現世を越えて愛し合うふたりがこの世のレベルを遙かに超えた光り輝く御子さえ生んでしまったという――事態がよく分かっていなかった。主体は、光源氏ではなく、愛し合うふたりであった。駆けつけた帝がみると確かにすごい容姿の若宮だっ。と続いて書かれている。とはいへ、源氏物語のいやらしさは、これにつづく恐ろしい記述にある。

一の皇子は右大臣の女御の御腹にて、寄せ重く、疑ひなき儲けの君と、世にもてかしづき聞ゆれど、この御にほひには並び給ふべくもあらざりければ、 おほかたのやむごとなき御思ひにて、この君をば、私物に思ほしかしづき給ふこと限りなし。


帝の視点に立って生まれた弟君すばらしいと述べたあとのこの突き放し。つい帝もこの記述につられてふたりの若宮を比べてみれば、やっぱりさっき生まれた光り輝く人にはかなわない。「おほかたのやむごとなき御思ひにて」という記述がつらい。確かに、「あーかわいいねーかわいいねー」と眼が半分死んでる親にかわいがられた子ともは大変だ。対して、光り物は隠して自分のものとして慈しむ。

もう明らかに、天皇は人間宣言してますなあ、ただの親ばかです、というか、産んだ人を愛しすぎて生まれた子も超絶な玉。帝も自分でも恐ろしくなってきたのではあるまいか。――と思うのは、わたくしが近代文学に溺れているからであろう。

自然は自然に特有な結果を、彼等二人の前に突き付けた。彼等は自己の満足と光輝を棄てて、その前に頭を下げなければならなかった。(「それから」)

まあ確かに、「自然」が何かをしでかしていると考えた場合、漱石をはじめとして、みな「自然」に対して諦めが悪かったことは確かである。源氏物語の男たちは果たして……


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