★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

東京新繁盛記はまだ続く

2014-03-30 23:18:04 | 文学
服部誠一の『東京新繁盛記』を斜め読みしていると、日本での「議論」が結構ある種弁証法的でありながら、議論の消失という形をとっておわる印象を受ける。――明治初期からこんな調子なのである。それにしても、漢学の衰退は痛い。初編学校で、言い合いをする国学生、洋学生、漢学生のうち、勉強会するわと帰って行ったのは漢学生だけで、あとは門限だとか当直だとか、言っている。既に国学生と洋学生が制度の中で勉強しているに過ぎない事態を思わせる。といっても、事態はそれほど単純ではなかろうが……。現在の道徳論議をみていると、政府の一部が、西洋世界に於けるキリスト教が持っていると決めつけている強力な道徳律にかわるものを日本で編み出そうとして、失敗しているのがわかる。日本か西洋かという二者択一の意識から出てきた神道なんて、お伽噺じみていてそんな強力になりませんよ。で、バンザイーとかキヲツケーとかマワレミギーで縛ることになる。とすると、やっぱりわれわれを密かに倫理上縛ってきたものは漢学であり儒教ですよ、という感じがしてくる。(このときの「われわれ」は多分限定的ななにものかであろうが)日本は中国の一部なのか、ということになるだろうが、その側面は否定しきれるものではない。そこら辺の複雑さを無視すると、日本には倫理がないように見えるから、「やっぱり日本人は」という感じで自分以外の日本人を否定することになるが、このおおざっぱさは洋学生にありがちであり、現在もやたら外国に行って開放感に浸っている人々にも散見される。それは、「日本をとりもどす」とか言ってしまっている人々と、倫理観の滅茶苦茶さや、日本に対する研究心のなさにおいて大差ない。周りを見渡してみればよい。人にひどいことして平気なのは、外国かぶれとナショナリストではないか。しかし、日本にだって、それ以外の人々がまだたくさん居るはずである。

「ジャパニーズオンリー」問題から愚か者を批判することは簡単だが、研究しなければいけないことはたくさんあるようだ。


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