★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

則光・超脱

2018-05-26 23:20:23 | 文学


「けやけき奴かな。さてはえ罷らじ」と言ひて走りかかりて疾く来たりければ、「この度は我はあやまたれなむとする。仏神助け給へ」と、太刀を鉾のやうに取りなして、走り早まりたる者ににはかに立ち向かひければ、腹を合はせて走り当たりぬ。彼も太刀を持ちて切らむとしけれども、余り近くて衣だに切られで、鉾のやうに持ちたる太刀なれば、受けられて中より通りにけるを、太刀の柄を返しければ仰け様に倒れにけるを、太刀を引き抜きて切りければ、彼が太刀を抜きたりける方のかひなを、肩より打ち落としてけり。


これは、今昔物語集で橘則光が強盗を斬り殺した話の一節である。則光と言えば、清少納言の旦那(後に離婚したけど)である。上の場面だけみると、神仏に頼ってやけくそにしてたら勝ってしまったみたいな感じであるが、理にかなった剣術らしいのである。知らんけど。このあと、則光は、彼が殺した死体を前にしてある人物が、これは俺がやっつけたのだ、と自慢しているのをみて、「よかったー、殺生の罪はやつのものだ」とか思ってホッとしたらしい。まったく仏を自由に使う勝手なやつではある。

むかしから、なんで武士の時代があったのか、そもそも疑問であったが、この殺生の罪の内面化と何らかの関係があったのではないかと最近妄想してみたのである。本当はもっと唯物論的な理由があったのであろうが、つねにそれだけでは理由は分からないものだというのが、わたくしの実感だ。

われわれには、死への願望だけでなく、罪人になることへの願望みたいなものがある。なぜなら、罰を下す法や教えというのは――中学生の頃を思い出してみれば良いが、倒しがいのある(悪の)権化なのである。そういえば、吉本隆明が昔、岡田有希子が死んだときに、本来的な自分になるための超脱行為だったのかもしれないみたいなことを講演で言っていた。それが消極的ではあるが「かっこよさ」だと。ロマンティックな見方と言えばそれまでだが、確かに倫理に対して超脱するような――われわれにはそういうところがある。現代の若者論でよくでてくる「居場所を探す若者」みたいなものも、ただ彼らがアイデンティティの安定を求めているのだと思ってはならないのである。大学で若者と接していても思うことであるが、――人間が保守的になろうと急進的になろうと、その超脱のエネルギーの消尽の問題はついて回る。わたくしは、セクハラをしたがる大人と、それを摘発する大人は、そういう意味で似ているし、QBをつぶせと言ってしまう大人とも似ているような気がする。彼らも、本来の自分の居場所を間違えていると自覚があるのではなかろうか。

ガキかよ、と思わないではないが、――こういう問題は、昔の左翼の一部が考えたように、理知で押さえ込める問題ではなかった。

本当のわたくしの関心は、もっともっと地味で――思春期なんかなかったようにみえる、保守的な人たちのことであるけれども……。