★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

呪詛しけり

2018-05-15 23:24:30 | 文学


お大師様と言えば、わが四国をいろいろな意味で支配しているアイコン宗教的大物であるが、『今昔物語集』には、彼が現代のネット民を凌ぐ恐ろしい人間であったことが書かれている。すなわち、「弘法大師、修円僧都に挑みたる語」(巻40-40)である。

この二人はライバルであったが、修円が天皇の前で祈っただけでおいしく栗を茹でたというので、お大師さまは「えー、でも私のいるときにもう一回やらせてみましょうよ」と、恐れ多くも天皇に命令。天皇も、お大師さまの恐ろしさを知っているから「うん、そうする」と言って、修円をもう一度呼びつけてやらせてみた。すると全然茹で上がらない。不審に思って後ろを振りかえると、柱の陰からお大師様が恐ろしい念を送っている。修円さんは激怒。「おのれ、俺の法力を邪魔しおったな」

どうみても、悪いのはお大師の方ですが、それからというもの二人の仲は険悪に。「互いに死ね死ねと呪詛しけり」。しかし、この二人は、いわば、漱石と鷗外、明治天皇と昭和天皇、吉本隆明と埴谷雄高、松田聖子と河合奈保子、小泉純一郎と安倍晋三、のような二大巨悪とも言うべき存在であって、簡単にくたばりません。

もう、こうなったらあとはどちらが汚いかで勝負が決まります。汚いと言えば、栗を邪魔したお大師。「空海はどうやら死んだらしいぞ」と市場に噂を流し、修円の「死ね死ね祈祷」をやめさせたのです。そこで、お大師は一気に修円に向かって「死ね死ね祈祷」を全力で放射。一気に片がついたのです。

しかし、まあ修円って、妙に強力だったよなあ、不思議だなあ、とお大師が彼の霊を呼んでみると(←呼ぶなよ)、「大きな檀の上に軍荼利明王、足踏み開きて立ち給へり」。なんと悪魔を退治する憤怒のあのお方だったのであった。まさに、今回のお大師の所業は悪魔そのもの。しかし……なぜ、お大師様は負けないのか。

「これを思ふに、菩薩とも謂われる大師が、かゝる事を行ひ給ふは、後々の人の悪行を止どめんが為也となん語り伝へたるとや。」

つまり、答えは、お大師様は菩薩レベルであって、後世の愚衆が妙なことをしないように、お大師様がこれだけ強いぞということを示すためであった。先生は正義のために体罰OKみたいな理屈ですが――、道理で、お大師様が崇徳院を押しのけて四国で英雄になっているわけです。坂本龍馬も確かにあまりたいしたことをやってないせいか、教科書から外れるそうです。もうお大師様の「死ね死ね祈祷」は止まりません。2ちゃんねらーはその化身かもしれません。