福岡万葉散歩

街の様子や木々や草花を眺め乍ら、先人の俳句や和歌を織り込んで、今の季節を楽しみたい。たまには万葉散歩も楽しみたい。

2009.4.14(火) 霧の湯布院

2011-09-30 | 旅行記

今日の街角風景は、霧の湯布院盆地と霧雨に煙る別府湾と高崎山の遠望である。

霧の湯布院盆地

別府湾SAから霧雨に煙る別府湾と高崎山(628m)を遠望す

    万葉集に武市連黒人(たけちのむらじくろひと)の作として次の歌がある。     

        四極山(しはつやま) 打ち越え見れば 笠縫(かさぬい)の

            島こぎかくる 棚無(たなな)し小舟(おぶね)   万葉集巻三・272

    全意 : 四極山(高崎山)を越えて見渡すと笠縫島に漕ぎ隠れてゆく舟板もない小舟よ

                                           (佐々木均太郎氏訳)

    「四極山(しはつやま)」、「笠縫島(かさぬいじま)」の所在について、現在の学説では

    所在未詳が一般的という。

    江戸前期の国学者・契沖は参河(みかわ)説(愛知県幡豆(はつ)郡吉良町)をとって

    いる。また摂津説(大阪市住吉区)もあり、この説は賀茂真淵が発展させ、それを継い

    で本居宣長が「玉勝間」(1759年)で、摂津住吉に比定したという。

    現在では、四極山(しはつやま)は高崎山であるという説が強まっていると佐々木均太郎氏

    は述べている。    


2009.4.13(月) 湯布院に遊ぶ

2011-09-30 | 旅行記

今日の街角風景は、大分県由布市湯布院の温泉に浸かり、休養したことである。

湯布院ICの出入口のすぐ傍にある「道の駅湯布院」から見た由布岳(1584m)

        よしえやし 恋ひじとすれど 木綿間山(ゆふまやま)

             越えにし君が 思ほゆらくに      万葉集巻十二・3191 読人不詳

        由布岳(1584m)は万葉集では、木綿山(ゆふやま)、木綿間山(ゆふまやま)、

        遊布麻夜萬(ゆふまやま)と表記されている。

        木綿(ゆふ)は、楮(たく)(コウゾ)の木のことで、皮をはぎ繊維にして衣や紙の

        原料になったという。

        豊後風土記によると、「柚富(ゆふ)の郷(さと)・・・楮(たく)(コウゾ)の樹多(さは)

        に生(お)ひたり、常に楮(たく)(コウゾ)の皮を取りて、木綿(ゆふ)を造る。よりて

        柚富(ゆふ)の郷(さと)といふ」             

湯布院保養所から見た由布岳(1584m)

保養所にて

保養所にて


2009.4.6(月) 薬院でタイ料理を食す

2011-09-30 | まち歩き

今日の街角風景は、福岡市の薬院でタイ料理を食したことである。

福岡市中央区薬院のタイ料理レストラン「プラウチャイ」の料理

会食の仲間とここ博多駅筑紫口で待合せ

渡辺通り1丁目交差点   正面の茶色のビルは間もなく建替えられる電気ビル旧舘

西鉄薬院駅

薬院新川

薬院大通りを少し直進して右折するとタイ料理レストラン「プラウチャイ」に至る

タイ料理レストラン「プラウチャイ」     ボンラパス薬院店の2階にある

タイ料理レストラン「プラウチャイ」

プラウチャイにて

プラウチャイにて


2009.3.30(月) チューリップの花

2011-09-30 | 日記・エッセイ・コラム

今日の街角風景は、チューリップの花と筑紫南ヶ丘病院である。

チューリップ         チューリップ(ユリ科)春の季語

チューリップ 喜びだけを 持っている    細見綾子

筑紫南ヶ丘病院     義母が早春から入院している

曾孫が見舞いに来た


2009.3.24(火) 太宰府・都府楼址に遊ぶ

2011-09-30 | まち歩き

今日の街角風景は、福岡県太宰府市観世音寺4丁目の大宰府政庁址である都府楼址に

   遊んだ時のものである。

 

   「天皇(すめろぎ)の遠(とお)の朝廷(みかど)」と詠われた大宰府が、筑前国御笠郡に設置

   されたのは、斉明天皇・天智天皇母子二代にわたる百済再興に係る軍事の失敗によるもの

   であったろう。

   663年、日本が百済を救援して唐・新羅軍と朝鮮半島西岸で戦った白村江(はくすきのえ)

   の戦いの敗戦直後、現在地(太宰府市観世音寺4丁目)に造営されたとするのが一般的

   だという。

 

   当時の敗戦によって、対馬・壱岐の二島と筑紫路とに防人を配し、烽火(とぶひ)を設け、

   水城(みずき)の大堤を造り、都府楼の背後の大野山(四王寺山)などに二城を築くなど

   国防を強化した。

 

   当初、軍政府的な色彩が強かった大宰府も、国家の外交儀礼の府、九州の総督の府

   としての性格を強くしていった。

 

   現在地に建つ大宰府政庁(都府楼)は飛鳥、奈良、平安時代の約400年間にわたって

   存在したと云われている。数度の火災や天慶4年(941年)の藤原純友の乱による大宰

   府焼き払いにも係らず、その都度、大宰府は再建されていたという。そして考古学的には

   11世紀後半代には現在の大宰府政庁跡(都府楼跡)の建物は廃絶したと考えられている

   という。

 

   では、現在の大宰府政庁跡(都府楼跡)の建物が廃絶したあとの政庁はどこへ移った

   のであろうか。そこのところは未だ分かっていない。

 

   大宰府の終焉は、鎌倉時代の蒙古襲来(1274年文永の役、1281年弘安の役)の後に

   鎌倉から室町、戦国時代へと変わる社会の変遷のなかで、事実上の終焉に向っていった

   のであろう。

 

大宰府政庁前広場と考えられるところから都府楼(大宰府政庁)址を見る

 

大宰府政庁中心部と考えられるところから都府楼(大宰府政庁)址を見る

 

都府楼(大宰府政庁)址の中心部の正殿址から南南西の方を望む

 

    左側の碑の後方が天拝山(257メートル)  菅原道真が天に向って無実を訴えた

     という山である。

 

 

都府楼(大宰府政庁)正殿址から北の方を見る

 

 

都府楼(大宰府政庁)址の中心部の正殿址から南の方を望む

 

    大宰府政庁は、回廊の東端から西端までが112メートル、南北の築地間の距離が

    211メートルという広大な区画であったという。

 

                  都府楼址       安西 均

 

                むかし

                ここに大宰府正庁があった

                身じろぎもせず眠っている

                このさびしげな礎石のうえに

                「遠(とお)の朝廷(みかど)」がそびえていた

 

                旅びとよ

                見えざる朱(あけ)の円柱にもたれて

                しばしを憩いたまえ

                見えざる甍(いらか)を濡らす青磁の雨も

                やがて霽(は)れるであろう

                まぼろしの朱雀(すざく)大路のかなたから

                淡い水たまりを踏みながら

                天の牛車(ぎっしゃ)も帰ってくるだろう

                心しずかに砂の忍び音(ね)をききたまえ

                千年の梅が香を襟に挿して

                ふたたび旅をつづけたまえ 

 

都府楼(大宰府政庁)址の中心部の正殿址から北の方を望む

桜の木の向こう側に大伴旅人の亡妻挽歌の万葉歌碑が建つ

 

都府楼(大宰府政庁)址の中心部の正殿址から北の四王寺山の麓にある万葉歌碑

大伴旅人の亡妻挽歌の万葉歌碑

 

 

都府楼(大宰府政庁)址の中心部の正殿址から北の四王寺山の麓にある万葉歌碑

 

    万葉集巻五ー793にある大伴旅人のうたである。

 

     大宰帥大伴卿の、凶問(きょうもん)に報(こた)ふる歌一首

 

     余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理

 

              世の中は 空(むな)しきものと 知る時し 

 

                 いよよますます 悲しかりけり      大伴旅人

 

                    神龜五年(728年)六月二十三日

 

     大意 : 世の中は空しいものだとつくづく知る時に、いよいよますます悲哀の感を

           新たにする。

 

     この歌は神龜五年(728年)六月二十三日の日付のある旅人の「凶問に報(こた)

     ふる歌」である。このころ旅人の周辺では大宰府に同伴した妻・大伴郎女(おおとも

     のいらつめ)の死だけでなく、かなり不幸なできごとがあったようにいわれている。

     

     大宰帥大伴旅人卿の亡妻挽歌であろうか。

 

都府楼(大宰府政庁)址の中心部の正殿址から北西の方にある

坂本八幡宮近くの駐車場

 

都府楼正殿址から北西の方にある坂本八幡宮近くの駐車場に近い万葉歌碑

背後の森は蔵司(くらつかさ)地区

 

都府楼正殿址から北西の方にある坂本八幡宮近くの駐車場に近い万葉歌碑

 

    天平2年(730年)正月13日、大宰府の帥・大伴旅人(当時66歳)は自邸において

    府官および管下諸国の国史から沙弥の満誓までを招き、盛大な梅花の宴を催した。

    この時の梅花の歌三十二首が万葉集に載せられている。そのトップを飾る歌が、この

    万葉歌碑に刻まれた歌である。

 

        正月(むつき)立ち 春の來(きた)らば 斯(か)くしこそ 

 

             梅を招(を)きつつ 樂(たの)しき終へめ      大弐紀卿

 

                                         (万葉集巻五ー815)

 

        大意 : 正月になって、春が来たらば、このように、梅の花を招き寄せて

              楽しいことの極みを尽そう。

          

        大弐紀卿 : 当時、大宰大弐であった紀氏の人。名は未詳。


2009.3.23(月) 太宰府・観世音寺に遊ぶ

2011-09-30 | まち歩き

今日の街角風景は、福岡県太宰府市の筑紫・観世音寺に遊んだことである。

    観世音寺(かんぜおんじ)は福岡県太宰府市の都府楼址から東に600メートルほど

    いったところにある天智天皇(在位西暦662~672年)の勅願寺であるという。

    観世音寺は百済救援の為に西下し、朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわの

    みや)(現福岡県朝倉市)で亡くなった母君斉明天皇(在位西暦655~662年)の菩提を

    弔う為に、子の天智天皇(在位西暦662~672年)が発願した寺であるという。

    天智天皇(在位西暦662~672年)が発願し建立をはじめたが、造営はなかなか進まず

    ようやく746年(天平18年)完成したという。

    観世音寺は大宰府政庁の東に隣接し、方三町の寺域に七堂伽藍を有し、「府の大寺」と

    呼ばれた特別の寺であったという。また、外国の使節が訪れた時などに、伎楽を演じて

    もてなす等の役目は観世音寺が担ったらしい。    

樟の参道の向こうに観世音寺講堂がある

観世音寺講堂    福岡県指定重要文化財

    創建時の講堂は1143年(康治2年)6月の大火で消失したともいわれ、現在のものは

    1688年(元禄元年)福岡藩主黒田光之のもと、福岡簀子(すのこ)町天王寺屋浦了夢

    の寄進造立とか。

観世音寺の梵鐘  国宝

   菅原道真の「不出門」(門を出でず)の一節にこの鐘がでてくる。901年ごろの作であろう

       都府楼纔看瓦色   都府楼は纔(わず)かに瓦の色を看る

       観音寺只鐘声聞   観音寺は只(ただ)鐘の声を聞く

   歌人長塚節(1879~1915)は大正3年11月23日観世音寺を訪れている

             手を当てて 鐘はたふとき 冷たさに 

                 爪(つま)叩き聴く 其のかそけきを

    観世音寺の鐘は、京都妙心寺の鐘と兄弟と云われ、その古さに於ても亦優秀さに於ても

    正に日本一と称せられて、太宰府市の隣町である福岡県糟屋郡多々良で鋳造された

    銅鐘であるとのこと。      

万葉歌碑の建つ観世音寺庭園    昔の池泉の跡だろうか

観世音寺庭園にある万葉歌碑

          しらぬひ 筑紫(つくし)の綿(わた)は 身(み)につけて

              いまだは着(き)ねど 暖(あたた)かに見ゆ   沙弥満誓

                     万葉集巻三ー336

   1982年(昭和57年)福岡市博多区の比恵遺跡と福岡県甘木市の栗山遺跡から出土

   した絹は、紀元前1世紀頃の日本製の絹と考定されているという。平城宮跡から都に

   綿を貢進した木簡が20数枚出土しているというが、その綿の産地は肥前、肥後、豊前、

   豊後、筑前など、すべて大宰府管内の国々という。万葉時代の綿は綿の実で作る木綿

   ではなく、まゆで作る真綿(まわた)だったという。

   作者・沙弥満誓(しゃみまんせい)は723年(養老7年)、都から筑紫の観世音寺に派遣

   された僧であるという。

   沙弥満誓は、絹と真綿の国・筑紫に来て、上質の真綿に驚き、上記の賛美の歌を詠んだ

   と思われる。

観世音寺講堂の裏手、北側の礎石群   僧堂の跡であろうか

観世音寺講堂の裏手、北側の礎石群から見た日吉(ひえ)神社

   日吉(ひえ)神社は観世音寺の鎮守であり、地元ではヒヨシ神社と呼ばれているそうだ。

   比叡山の日吉(ひえ)大社を分霊したもので平安時代末には置かれていたらしいという。

   江戸時代の地誌によると、豊臣秀吉が九州下向の折、この日吉社に陣をはったが、時の

   観世音寺の別当は世情に疎く、秀吉の威光を憚ることなく車に乗ったまま面前に出て

   秀吉の怒りをかい、寺領を没収されたと伝える。   

観世音寺参道

観世音寺参道から戒壇院の森を見る

観世音寺の西南角に設けられた戒壇院

   戒壇院は現在博多聖福寺の末寺で臨済宗の禅寺である。もともとは「日本三戒壇」の

   一つ、西の戒壇として天平宝宇5年(761年)、観世音寺の西南角に設けられた観世音

   寺の付属施設であった。ここで戒を受けエリートコースに乗った僧尼は諸国の国分寺など

   に赴任したという。観世音寺は戒壇院を持つことによって西海道諸国の僧尼と寺院を管轄

   し、名実共に「府の大寺」となったという。


2009.3.23(月) 博多・綱場町界隈

2011-09-30 | まち歩き

   今日の街角風景は、博多織元・博多人形の店がある博多の綱場町界隈である。

昭和通りの博多五町交差点の綱場町から西の方に天神方面を望む

中央の緑青色のドームの赤煉瓦の建物は重要文化財の旧日本生命九州支店である

昭和通りは戦後の都市計画により50メートル幅の大道路となった

昭和通りの博多五町交差点の綱場町から東の方に蔵本方面を望む

写真の左側が奈良屋町(ならやまち)、右側が綱場町(つなばまち)

昭和通りの博多五町交差点の綱場町から北の方に博多港ポートタワーを見る

写真の左側が古門戸町(こもんどまち)、右側が奈良屋町(ならやまち)

昭和通りの博多五町交差点の綱場町から南の方に土居通りが続く

写真の左側が綱場町(つなばまち)、右側が下川端町(しもかわばたまち)

博多織元・博多人形の店

博多人形


2009.3.21(土) 可也山(筑紫富士)遠望

2011-09-30 | まち歩き

  今日の街角風景は、福岡市の西の方に位置する福岡県糸島郡志摩町の可也山(かやさん、

   標高365m)の遠望である。筑紫富士とも小富士とも呼ばれている。

前原市三雲から見た福岡県糸島郡志摩町の可也山(かやさん、標高365m)

    万葉集巻十五ー3674に可也山を詠ったものがある。

    引津(ひきつ)の亭(とまり)に船泊(ふねは)てて作る歌七首 として、この中の一首

        草枕 旅を苦しみ 戀ひ居れば 可也(かや)の山邊に さ男鹿鳴くも

                             大判官  (壬生宇太麿 みぶのうたまろ)

    歌意: 難儀な旅をつづけながら妻を恋しく思っていると、可也山のふもとで鹿が鳴くよ

             

                                  万葉風土記(3)猪股静彌文による

    この歌は遣新羅使一行の中の大判官・壬生宇太麿(みぶのうたまろ)の一首で、天平

    八年(736年)陰暦八月の頃である。

    天平八年(736年)二月、聖武天皇は従五位下、安倍継麿(あべのつぐまろ)を新羅

    派遣の大使に任命。遣新羅使に任命された一行は、六月、難波の津を出発し、瀬戸

    内海を西進し、大分県中津市の分間(わくま)の浦を経て周防灘を北上し、関門海峡

    を乗り切って響灘に出、今の福岡市の平和台球場のところにあった鴻臚館(こうろかん)

    に至り、糸島半島の唐泊(からどまり)、引津(ひきつ)を出航して、壱岐、対馬を経て

    新羅に向ったという。

    朝鮮半島では、663年に百済が滅亡、668年に高句麗が滅亡し、新羅が朝鮮半島の

    統一国家となったという。しかし統一戦争中は新羅を支援してきた唐は新羅を支配しよう

    とするも、735年、新羅は大同江以南の地を唐に割譲させ、名実共に統一国家として

    朝鮮半島に君臨したという。

    掲げた遣新羅使の可也山の歌は、新羅が名実共に国家統一を果たした735年の翌年

    のことなのだ。

    

    遣新羅使の使人達の詠んだ歌145首が万葉集巻十五に編集されている。

前原市三雲から見た福岡県糸島郡志摩町の可也山(かやさん、標高365m)

前原市三雲から西の方に見た雷山(らいざん 標高955m)

土筆(つくし)       スギナ(シダ植物トクサ科)春の季語

土筆煮て 飯くふ夜の 台所      正岡子規

前原市波多江から南の方に見た雷山(らいざん 標高955m)


2009.3.4(水) 博多綱場町で博多人形を求める

2011-09-30 | まち歩き

今日の街角風景は、福岡市博多区綱場町の博多織元・博多人形の店で博多人形などを

   求めたことである。

博多人形

    左側の福岡市博多区綱場町(つなばまち)の博多織元・博多人形の店の前から南の方

    に、土居通りを見る。はるか先の右側に櫛田神社があるはずだ。写真の右側は下川端

    町で博多座も近い。

    綱場町(つなばまち)は戦後の町名改正にも残った町名である。古くは博多六町筋のひ

    とつで、1709年(宝永6年)完成の貝原益軒の筑前国続風土記には・・・綱場町とし、

    石堂流に属し家数33軒・・・とある。大正、昭和初期にかけては三笠屋、丸五呉服店

    などの衣類の店舗が多かったという。昭和20年6月19日の空襲で全町消失したという。

博多織元・博多人形の店

福岡市博多区綱場町(つなばまち)の博多織元・博多人形の店


2009.1.25(日) 雪の臘梅(ろうばい)

2011-09-30 | 日記・エッセイ・コラム

      今日の街角風景は、雪をかぶる臘梅(ろうばい)の花である。

      福岡は昨日、今日と待に待った雪が降ったのだ。

      福岡を取り囲む背振山系や三郡山系の山々は雪をかぶることが

      多いが、福岡市街地には今年初めての雪であった。

臘梅(ろうばい)       ロウバイ(ロウバイ科)冬の季語

臘梅や 雪うち透す 枝のたけ      芥川龍之介

臘梅(ろうばい)       ロウバイ(ロウバイ科)冬の季語

風往き来 して臘梅の つやを消す      長谷川双魚

サザンカと柚子の実


2009.1.5(月) 博多座でミュージカル「ミス・サイゴン」を観る

2011-09-30 | まち歩き

今日の街角風景は、今日初日を迎えたミュージカル「ミス・サイゴン」を博多座で観たこと

    である。ミュージカル「ミス・サイゴン」は3月15日までのロングラン公演となっている。

    「ミス・サイゴン」は1989年9月にロンドンのウエストエンドのドルリレーン劇場で初演され

    たという。ニューヨークのブロードウェイではロングラン公演歴代10位となっているという。

    なお、ブロードウェイでのロングラン公演歴代1位は「オペラ座の怪人」とか。

    

    ミュージカル「ミス・サイゴン」はアラン・ブーブリル&クロード=ミッシェル・シェーンベルク作

    作詞家のアラン・ブーブリルが、ベトナム人少女が元アメリカ軍兵士の父親の待つアメリカへ

    出発しようとしている写真を入手し、そこからアイデアを受けて創作されたという。

    プッチーニ作イタリア・オペラ「蝶々夫人」などのストーリーがベースにあると云われている。

ミュージカル「ミス・サイゴン」の初日を迎えた博多座

博多座     福岡市博多区下川端町

博多座玄関

博多座

     1階前方部の座席をはずしてオーケストラピットが設置されていた。2階前列中央部

     の席から舞台とオーケストラピットを俯瞰する絶好の位置からの観劇となった。

ミュージカル「ミス・サイゴン」

   日本では東宝が制作権を入手し、1992年4月に帝国劇場で開幕したという。主演の

   キム役には当時アイドルであった本田美奈子が抜擢され、話題を呼んだという。

   2008年9月4日の公演にて通算上演回数1000回を達成したという。

   

   日本初演時、バンコクの歓楽街でポン引きに店に誘われる観光客は国籍不明だったが

   (ただし、セリフでは「アーユーブリティシュ?」とイギリス人を匂わせていた)、再演時には

   他国での公演同様に、日本人のツアー客に変更されていたという。

ミュージカル「ミス・サイゴン」

   キャッチフレーズは、愛があるから生きてゆける、夢があるから生きてゆける、おまえが

   いるから生きてゆける・・・・・である。

   

   ベトナム戦争末期のサイゴンの売春バーで働くベトナム人少女キムとアメリカ大使館で

   軍属運転手を務めるクリスの悲恋物語である。

   この日は、狂言回しのエンジニア役に筧利夫、主演のキム役に笹本玲奈の布陣であった。

   物語の舞台は、ベトナム戦争が終焉を迎えようとしていた南ベトナムの首都サイゴン。

   このサイゴンでの出会いと、1975年4月30日のサイゴン陥落によるアメリカ軍の全面撤退

   に伴う別離。

   1978年9月のベトナム残留孤児(ブイ・ドイ)支援活動が行われている米国アトランタ。

   そして主人公ミス・サイゴンのキムが子供と共に生きているタイの首都バンコクが物語の

   舞台である。

   ベトナム戦争は1967年2月に米国が南ベトナムに、南ベトナム軍事援助司令部を設置

   して本格介入した時をもって戦争開始とするのだろうか。ベトナム戦争は南北ベトナム間

   の戦争であるが、実態はソ連、中国等の共産主義陣営とアメリカ等の資本主義陣営との

   代理戦争だったのであろうか。      

ミュージカル「ミス・サイゴン」

       舞台上に実物大のヘリコプターが降り立つ・・・耳をつんざくような轟音と共に

   このシーンは、1975年4月30日のサイゴン陥落によってアメリカが全面撤退する最後の

   時のアメリカ大使館からの脱出劇は、このようでであったのかと想われるに充分の迫力で

   迫ってきた。

   博多座初日公演のこの日、休憩後の後場の舞台でセットの上下降装置が途中で作動せず、

   公演一時中断10分間のアナウンスがあった。数分間で修復したと思ったが、実際は10分

   位かかったのかもしれない。終幕後のカーテンコールで、筧利夫が子役の頭を下げさせて

   謝罪するなどし、これでもって大いに盛り上がった感があった。          

博多座   ベトナムグッズの売店

博多座    ベトナムレストラン

10周年を迎えた博多座

博多織の壁掛けの前で

博多座からの帰途、博多の総鎮守・櫛田神社の門前には初詣の人々が集っていた。


2008.12.27(土) 雷山遠望

2011-09-30 | まち歩き

  今日の街角風景は、福岡県前原市波多江から背振山脈の雷山(らいざん 955m)の

   遠望である。福岡県前原市は魏志倭人伝に記載された伊都国であることは定説であろう。

 

   万葉集巻三 雜歌 の冒頭の歌は

 

      天皇、雷岳(いかづちのをか)に御遊(いでま)しし時、柿本朝臣人麿の作る歌一首

 

   大君は 神にし座(ま)せば 天雲(あまくも)の 雷(いかづち)の上に 廬(いほ)らせるかも

 

      大意 : 大君は神でいらっしゃるから、大空の雷のその上にいほりして

            おいでになることである。

      天皇 : 人麿の作歌だから天武・持統・文武の三帝のうちであろう。持統天皇か。

 

      雷岳(いかづちのをか) : 奈良県高市郡明日香村雷にある丘。異説がある。

      雷(いかづち) : 雷の丘のこと       

 

                    (万葉集巻三ー235  岩波古典文学大系万葉集一による)

 

福岡県前原市波多江から背振山脈の雷山(らいざん 955m)を遠望す

   

    中央のピークが雷山(らいざん 955m)  左側の平野部が三雲・井原遺跡の場所

    中央奥のところに平原遺跡がある。そう、ここから見るのは伊都国の国原だろう。

 

 

     雷岳(いかづちのをか)は奈良県高市郡明日香村雷にある丘といわれているが、

     異説がある。その異説の第一候補が、この雷山(らいざん 955m)なのである。

 

雷山(955m)の西方、右手に連なる背振山脈の羽金山(900m)写真右端

 

    

福岡、佐賀県境の羽金山(900m)の頂上に塔が見えるが、ここに日本標準時刻を

        発信する標準電波送信所がある。

 


2008.12.25(木) 長崎の浦上川界隈

2011-09-29 | 旅行記

今日の街角風景は、長崎の浦上川界隈である。長崎市竹の久保町の長崎西高の前を

    流れる浦上川とJR浦上駅を通る線路に囲まれた茂里町一帯である。この茂里町一帯

    は、戦前は三菱長崎製鋼所があったが原爆で灰燼と帰した。戦後汽車で長崎に戻って

    来た僕は、汽車の窓から見た国鉄浦上駅に隣接する工場群の灰燼に帰した残骸の連なる

    のを見たのだ。幼かった自分の目にも、この時の世にも恐ろしい光景は残像として今も存在

    し、消すことは出来ない。

長崎西高の下の浦上川沿いにある「江山楼(こうざんろう)」    長崎市竹の久保町

江山楼(こうざんろう)

江山楼で昼食をとる     やわらか麺の皿うどん、豚の角煮、春巻

江山楼から浦上川を挟んで対岸の茂里町を見る   右の方は南で長崎港となる

    

    左手の浦上地区と右手の稲佐地区を結ぶ梁川橋が中央に黒く影を落とす。

         向こうの山は長崎半島の山並で、右端に見えるのが八郎岳(標高590m)である。

     左の建物が長崎ブリックホール、右側の建物が長崎市クリーンセンターである。

    長崎市は三つの公会堂を有している。茂里町の長崎ブリックホールは2002席の大

    ホールと542席の国際会議場を持っている。魚町の長崎市公会堂は昭和37年の竣工

    ではあるが1922名収容の大ホールがある。また千歳町にはチトセピアホールがあって

    500席のホールを持つ。   

江山楼から見た対岸   右から長崎ブリックホール、長崎文化放送、長崎新聞社

     長崎新聞社の左奥に見える山は金比羅さんで、高射砲陣地があったあたりまで

     よく登ったものだ。

江山楼から浦上川のやや上流域を見る    中央に長崎原爆病院

江山楼から浦上川の上流域、北の方を見る 

中央の建物は長崎厚生年金会館、その前のつり橋は歩道橋

長崎自動車道今村PAから雲仙普賢岳を望む

今村PAから雲仙普賢岳を望む


2008.12.21(日) 雨の福岡天神メインストリート

2011-09-29 | まち歩き

今日の街角風景は、福岡三越の7Fから見た、雨の福岡天神メインストリートと、孫に送る

    クリスマスプレゼントを福岡三越で仕入れたことである。

雨に煙る福岡天神のメインストリート「渡辺通り」  渡辺通り4丁目から天神交差点を望む

   かっての福岡天神のメインストリートは天神交差点を東西に走る「明治通り」であったが、今

   は天神交差点を南北に走る、この「渡辺通り」となった。

福岡三越でクリスマスプレゼントにチョコレートを買う

向こうに見える店で

定番の「旅まくら」も買う

夕食の時の酒の肴を仕入れる


2008.12.11(木) 高校同級生会の忘年会で海ノ中道へ行く

2011-09-29 | まち歩き

今日の街角風景は、高校同級生会の忘年会で、福岡市東区の海の中道(うみのなかみち)

    にある大岳荘へ行ったことである。

    海の中道は、国宝の金印出土で知られる志賀島(しかのしま)と九州本土の福岡市

    北部をつなぐ陸繋砂洲で、全長約8km、最大幅約2.5kmである。この砂洲の北側は

    玄界灘の荒波にさらされ、南側は波穏かな博多湾に面している。この平らと思っていた

    海の中道の志賀島よりに大岳(おおたけ)という標高110m位の小さな山があり、今回

    の忘年会は、この大岳の麓の大岳荘で開かれたのである。

海の中道にある、国営海の中道海浜公園の傍を通りすぎる

     この国営海の中道海浜公園の場所には、かって海軍飛行場があったという。また、

     海の中道の福岡市営雁の巣(がんのす)レクリエーションセンターの場所には、

     かって陸軍飛行場があったという。また、元陸軍飛行場があった一角に、海の中道

     奈多海水淡水化センターが2005年4月に竣工し、日産5万立方メートルの最大

     造水能力でもって稼動している。海水の取水は玄界灘からで、処理済の濃縮海水は

     近くの浄水場に送られ、海水と同じ濃度に混合して博多湾に返されるという。        

志賀中学校前を右折し、大岳(標高110メートル位か)の麓の大岳荘に向う

今日の忘年会の会場の大岳荘に到着した

      この前方が西戸崎シ-サイドカントリークラブである。何人かは今日、大岳荘に

      宿泊し、明日ゴルフに興ずるであろう。

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

志賀島に通ずる海の中道から能古島の沖に、赤く輝く午後の太陽を見る

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

志賀島に通ずる海の中道から能古島沖に沈まんとする夕日を見る

JR福岡工大前駅(前の筑前新宮駅)から帰路につく