今日の街角風景は、福岡県太宰府市の筑紫・観世音寺に遊んだことである。
観世音寺(かんぜおんじ)は福岡県太宰府市の都府楼址から東に600メートルほど
いったところにある天智天皇(在位西暦662~672年)の勅願寺であるという。
観世音寺は百済救援の為に西下し、朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわの
みや)(現福岡県朝倉市)で亡くなった母君斉明天皇(在位西暦655~662年)の菩提を
弔う為に、子の天智天皇(在位西暦662~672年)が発願した寺であるという。
天智天皇(在位西暦662~672年)が発願し建立をはじめたが、造営はなかなか進まず
ようやく746年(天平18年)完成したという。
観世音寺は大宰府政庁の東に隣接し、方三町の寺域に七堂伽藍を有し、「府の大寺」と
呼ばれた特別の寺であったという。また、外国の使節が訪れた時などに、伎楽を演じて
もてなす等の役目は観世音寺が担ったらしい。
樟の参道の向こうに観世音寺講堂がある
観世音寺講堂 福岡県指定重要文化財
創建時の講堂は1143年(康治2年)6月の大火で消失したともいわれ、現在のものは
1688年(元禄元年)福岡藩主黒田光之のもと、福岡簀子(すのこ)町天王寺屋浦了夢
の寄進造立とか。
観世音寺の梵鐘 国宝
菅原道真の「不出門」(門を出でず)の一節にこの鐘がでてくる。901年ごろの作であろう
都府楼纔看瓦色 都府楼は纔(わず)かに瓦の色を看る
観音寺只鐘声聞 観音寺は只(ただ)鐘の声を聞く
歌人長塚節(1879~1915)は大正3年11月23日観世音寺を訪れている
手を当てて 鐘はたふとき 冷たさに
爪(つま)叩き聴く 其のかそけきを
観世音寺の鐘は、京都妙心寺の鐘と兄弟と云われ、その古さに於ても亦優秀さに於ても
正に日本一と称せられて、太宰府市の隣町である福岡県糟屋郡多々良で鋳造された
銅鐘であるとのこと。
万葉歌碑の建つ観世音寺庭園 昔の池泉の跡だろうか
観世音寺庭園にある万葉歌碑
しらぬひ 筑紫(つくし)の綿(わた)は 身(み)につけて
いまだは着(き)ねど 暖(あたた)かに見ゆ 沙弥満誓
万葉集巻三ー336
1982年(昭和57年)福岡市博多区の比恵遺跡と福岡県甘木市の栗山遺跡から出土
した絹は、紀元前1世紀頃の日本製の絹と考定されているという。平城宮跡から都に
綿を貢進した木簡が20数枚出土しているというが、その綿の産地は肥前、肥後、豊前、
豊後、筑前など、すべて大宰府管内の国々という。万葉時代の綿は綿の実で作る木綿
ではなく、まゆで作る真綿(まわた)だったという。
作者・沙弥満誓(しゃみまんせい)は723年(養老7年)、都から筑紫の観世音寺に派遣
された僧であるという。
沙弥満誓は、絹と真綿の国・筑紫に来て、上質の真綿に驚き、上記の賛美の歌を詠んだ
と思われる。
観世音寺講堂の裏手、北側の礎石群 僧堂の跡であろうか
観世音寺講堂の裏手、北側の礎石群から見た日吉(ひえ)神社
日吉(ひえ)神社は観世音寺の鎮守であり、地元ではヒヨシ神社と呼ばれているそうだ。
比叡山の日吉(ひえ)大社を分霊したもので平安時代末には置かれていたらしいという。
江戸時代の地誌によると、豊臣秀吉が九州下向の折、この日吉社に陣をはったが、時の
観世音寺の別当は世情に疎く、秀吉の威光を憚ることなく車に乗ったまま面前に出て
秀吉の怒りをかい、寺領を没収されたと伝える。
観世音寺参道
観世音寺参道から戒壇院の森を見る
観世音寺の西南角に設けられた戒壇院
戒壇院は現在博多聖福寺の末寺で臨済宗の禅寺である。もともとは「日本三戒壇」の
一つ、西の戒壇として天平宝宇5年(761年)、観世音寺の西南角に設けられた観世音
寺の付属施設であった。ここで戒を受けエリートコースに乗った僧尼は諸国の国分寺など
に赴任したという。観世音寺は戒壇院を持つことによって西海道諸国の僧尼と寺院を管轄
し、名実共に「府の大寺」となったという。
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