今日の街角風景は、長崎県諫早市の慶巌寺の磨崖仏三十三観音である。
砂岩の岩肌に、かっては33体の菩薩像が彫刻されていたという。
観音菩薩が33に変化し、衆生を救済するという三十三観音思想と庶民の
救いを求める願望が合致して磨崖仏三十三観音が彫られたという。
成立は多良岳山岳信仰が盛んであったという14世紀後半の南北朝時代で
あろうか。
長崎県諫早市城見町の慶巌寺の崖下に磨崖仏三十三観音が彫られている
慶巌寺の建立は慶長10年(1605年)であり、八橋検校がここ慶巌寺で
筝曲「六段」を創ったという。
この磨崖仏三十三観音の前の道路が旧諫早街道であり、諫早の永昌宿から湯江宿、追分
あたりまで有明海沿線に沿って通じており、浜街道とも呼ばれていたそうだ。
諫早・慶巌寺の崖の磨崖仏三十三観音
諫早・慶巌寺の磨崖仏三十三観音
諫早・慶巌寺の磨崖仏三十三観音
諫早・慶巌寺の磨崖仏三十三観音
画面の右上隅に赤い線が見えるであろうか。昭和32.7.25(1957)の
諫早大水害のときの水位の上昇地点を赤い線で刻んでいるのだ。その高さは
3メートルに近い。
諫早の眼鏡橋
の磨崖仏三十三観音の前の旧諫早街道から本明川を挟んで眼鏡橋を見る。
かっては、ここより左手の少し下流側にあったが、諫早大水害でも崩壊せず、
本明川の一級河川昇格に伴う川幅拡幅工事の際に解体され、現在の諫早公園に
復元されたとのこと。
諫早の眼鏡橋は天保10年(1839年)開通、国指定重要文化財で、
長さ45m、 幅5m、 高さ6mとのこと。
旧諫早街道を慶巌寺から少し行った、水害前の眼鏡橋が架かっていた辺りの店で
名物のうなぎをとって昼食とした。
今日の街角風景は、長崎勤務時代の会社OB会「工業会」が長崎で
開かれたときのものである。
ホトトギス (時鳥草)
秋の季語
時鳥草 岩かげくらく 咲きにけり 魚眠
ピラカンサ (トキワサンザシ)
長崎自動車道の金立SA
向こうに円墳群を配した、古墳公園が見える。
この古墳公園は金立SAの南東500メートルにあった丸山遺跡が、自動車道の
工事に引っかかるため、ここに移設し公園として整備したという。
金立SA
長崎勤務時代の会社OB会「工業会」 長崎市の天然温泉「イオス」にて
地元長崎はもとより、東京、大阪、上海からもかけつけてくれた。
皆が社会貢献や趣味などに、元気一杯で活躍されている話をお聞きし、
楽しい宴であった。
長崎市の天然温泉「イオス」にて先輩と。
宴会場をあとに長崎駅へ向う
JR長崎駅コンコース
長崎新幹線着工期成同盟の横幕がかかる長崎駅前
今日の街角風景は、福岡空港に孫を出迎え、その足で宇美八幡宮へ行った
ことである。宇美八幡宮のある福岡県糟屋郡宇美町は福岡空港から東南方向に
7~8km行った所で、三世紀の魏志倭人伝に記されている「不彌国」
(ふみこく)が宇美の地名の起こりではないかととも言われるところだ。
福岡空港第一ターミナル玄関前
福岡空港第一ターミナル玄関前
宇美八幡宮
日本書紀には神功皇后が応神天皇をお産みになったことから「宇美」といわれるように
なったと記されているとのこと。
宇美八幡宮は第十五代応神天皇御降誕の地とされている。祭神は応神天皇をはじめ
神功皇后、玉依姫(たまよりひめ)、住吉大神、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が
祀られているという。(応神天皇元年は皇紀930年、西暦270年にあたる)
安産祈願や安産御礼の参拝が多い。
宇美八幡宮
宇美八幡宮衣掛の森(国天然記念物)
神功皇后が応神天皇の産湯の時に産着をかけたといわれている。幹廻り24mの
樟の巨木で樹齢2000年を越えるともいわれている。
宇美八幡宮 衣掛の森(きぬかけのもり)
宇美八幡宮参道
この左後ろに売店があり、子安餅を仕入れて車の中で食べた。子安餅(こやすもち)は
小豆こしあんの焼餅で、太宰府の梅が枝餅と同等だが、あつあつで美味しかった。
ここには子安麩(こやすふ)という大きな麩も売っていたのだが、今は大和麩という
名前になっていた。この麩は煮くずれしにくく、すき焼きにいれるのがいい。
今日の街角風景は、昨日泊まった湯布院をあとに、奥豊後の城下町・竹田
に遊んだ風景である。
奥豊後の城下町・竹田の岡城址
岡城址
岡藩初代藩主中川秀成は、もと播州三木(兵庫県三木市)の4万石の
領主であった。
文禄3年(1594年)2月、中川秀成は秀吉から岡城の城主に任じられた。
志賀一族が260年にわたり拠点としていた城である。
石高は6万6000石であったが、関が原の戦いの後、7万石になり明治維新を
むかえるまで中川公が奥豊後・竹田の岡城の城主であったと。
岡城址からくじゅう連山を見る
竹田の上町通り 通りの奥が岡城址
竹田の銘菓三笠野と荒城の月をお土産にする
旧 岡藩御用御菓子司、但馬屋 文化元年(1804年)創業とか
但馬屋のすぐ近くにある廉太郎トンネル
この廉太郎トンネルを通って瀧廉太郎記念館に行く
瀧廉太郎記念館
瀧廉太郎が12歳から14歳まで過ごした居宅の一部を記念館として公開中
瀧廉太郎記念館の前の道壁に埋め込まれた磁器プレート
「味噌、醤油量り売り」の看板がかかる味噌・醤油店
ここで、おしょうゆソフトクリームを食べて福岡への帰路をとった。
今日の街角風景は、腰の治療には温泉が好かろうと思い立って
湯布院の湯に浸かりに行ったことである。途中、大分自動車道の
山田SAに立ち寄り 菜の花の 遥かに黄なり 筑後川
という漱石句碑を見、湯布院に入ってからは金鱗湖畔で蕎麦を食い
宇奈岐日女(うなぐひめ)神社を訪ねて湯布院の保養所に落ち着いた。
大分自動車道山田SAの漱石句碑
菜の花の 遥かに 黄なり 筑後川 漱石
この句は夏目漱石が明治30年、熊本五高教授時代に久留米の
高良山(こうらさん)に登ったおりに作ったものといわれる。
この句碑のある山田SAは筑後川をはさんで、高良山(こうらさん)のある
耳納山脈と相対した位置にある。ここからは筑後川は見えずまことに残念。
大分自動車道の山田サ-ビスエリア 福岡県朝倉町にある
山田SAから耳納(みのう)山脈を見る
湯布院のシンボル 金鱗湖(きんりんこ)
金鱗湖(きんりんこ)畔の「下ん湯」を見る ここは岳本地区の共同温泉場だ
この「下ん湯」の向こう側に大分の国府から大宰府に到る官道が通っている。
この岳本地区は万葉時代の官道の重要な宿駅であったといわれている。
蕎麦屋から金鱗湖をみる
昼食は蕎麦だ
宇奈岐日女(うなぐひめ)神社(六所宮)
JR由布院駅の南東約1kmに鎮座まします杉の古木に囲まれた神社
神さびた雰囲気が漂う
平成3年(1991年)の台風19号で杉の古木の大半を失ったという
その時、杉144本をやむなく伐採処理した。その伐採処理された巨木の
一部10株ほどがご神体として境内に祀られている。
宇奈岐日女(うなぐひめ)神社由緒記
創祀は人皇第12代景行天皇の御宇12年冬10月(西暦82年)
嘉祥2年(849年)6月、從五位下に叙されると続日本後記に見えるとか。
延長五年(927年)延喜式の神名帳に列記された式内社である。
宇奈岐日女(うなぐひめ)神社は、湖(みず、うみ)にうかぶ神社である
厳島神社と交流があるであろう。
湯布院の保養所から くじゅう連山を望む
保養所から由布岳(1584m)を望む
由布岳(1584m)
少女(おとめ)らが 放(はなり)の髪を 木綿(ゆふ)の山
雲なたなびき 家(いえ)のあたり見む
万葉集巻七・1244 読人不詳
万葉仮名 : 未通女等之 放髪乎 木綿山 雲莫蒙 家當將見
大意 : 木綿(ゆふ)の山に雲よたなびかないでくれ。家のあたりが見たいから。
木綿(ゆふ)の山 : 今の由布岳(1584m)。大分県由布市湯布院町の、
別府市との境の山。豊後国風土記に柚富郷(ゆふのさと)
に近い故の名で、郷の名は、楮(こうぞ)を多く産し木綿
(ゆふ)を製するからだとある。
以上、日本古典文学大系5(岩波書店)による。
放(はなり)の髪 : 童女の髪型で、今のおかっぱのことと解するが妥当か。
歌の大意は万葉風土記3(偕成社)猪股静彌文によるものがいいだろう(下記)
おかっぱの童女が娘になると、髪のうしろの裾を束ねて結います。うしろを結んだ
髪型を「うない髪」といい、うない髪の娘には恋の申しこみがゆるされるのです。
歌の三句の「木綿(ゆふ)の山」の木綿は由布であり、髪を「結う」と、かけ詞に
なっています。五句の「家のあたり見む」というのは、恋びとの家を見たいものだと
思慕する表現です。序歌で、年ごろの少女の情緒をただよわせ、
「由布の山よ、雲をたなびかせないでくれ。恋びとの家を見たいから」
という男歌です。
湯布院の保養所から由布岳を見る
保養所の夕餉
今日の街角風景は、福岡県糟屋郡久山町猪野(カスヤグン ヒサヤママチ イノ)
に九州の伊勢と呼ばれる伊野天照皇大神宮(通称 伊野神社)を訪ね、その奥の
山道を行ったところのレストラン「茅乃舎」(かやのや)での食事である。
伊野神社のある猪野は福岡空港から北東に直線距離で約10kmのところにある。
県道21号線を直方方面に向って、山の神という地点で左折して少し行った所だ。
猪野川(五十鈴川)に架かる五十鈴橋 この右手に伊野天照皇大神宮がある
伊野天照皇大神宮(通称 伊野神社)入口付近
ここは遠見岳(323m)の麓になる。
伊野天照皇大神宮(通称 伊野神社)
創建は足利時代(1336年~1573年)(室町時代とも)末と伝えられるとか。
西暦1500年頃かと思われる。
戦国の世においても、立花城主・戸次鑑連(べっき あきつら)(通称・立花道雪)
(1513~1585)や名島城主・小早川隆景(1533~1597)等の武将
たちの寄進を受けている。
延宝5年(1677年)黒田家三代藩主・光之(当時50歳という)は、ここ伊野村字別所
に社殿を造営し、太神宮を遷移したと。このとき、本殿から鳥居に至るまで、造営調度
すべて伊勢神宮に模して築造したという。
伊野天照皇大神宮(通称 伊野神社)本殿前の白木の鳥居
筑前國續風土記(宝永六年 1709年 貝原益軒編纂)巻之十八糟屋郡表に
天照太神宮として長文の記述がある。その後半の一部は次のように述べている。
伊野村は谷ふかく市遠くして、世俗のけがれすくなし。宮所は民家の
東北高き所にあり。うしろに?山高くそびえ、前に綠水淸くながる。
陽に向ひ陰に背きて、世に又類すくなき靈地なり。山花紅葉、鹿なき、
猿さけび、螢多く、魚遊ぶ。是四時の詠なり。遠近よりの參詣の人、
遊觀の客多し。是に依て茶店酒肆(ちゃみせ、さけみせ)も亦多し。
・・・・・
伊野の下に、山田と云里有。伊勢内宮の前に、山田あれば、此所に
山田あるも、彼地の名に、自かなへる事奇なりと云つべし。
・・・・・
又太神宮の西に、水取權現の社有。昔は猶其西の山下に在りしが、
山崩て社にかゝりしかば、此所に移せり。此?は神功皇后の新羅へ
渡り給ひし時、船中にて水を司どれりと云。罔象女(みずはめ、みずはのめ)
の水?なるべし。此村の産靈として祭る所也。
伊野天照皇大神宮(通称 伊野神社)前をレストラン「茅乃舎」(かやのや)へ向う
国宝金印の「漢委奴國王」は、亀井南冥によって「カンノワノナノコクオウ」と
読まれて、定説となっているようだ。
ところが、委奴(ワノナ)國は(イノ、イヌ)國と読むのが妥当である。これは
伊野(イノ、イヌ)國に違いないとする人々もいるようだ。
レストラン「茅乃舎」(かやのや)
「茅乃舎」
「茅乃舎」 メインの十穀鍋
茅乃舎にて
今日の街角風景は、筑前の小京都・秋月に、だんごあんを訪ねる。
だんごあんは秋月街道の旧八丁越えのところにある茶屋で川床も
設えられている。
野鳥(のとり)川に架かる眼鏡橋(文化4年、1810年完成) ここが秋月の入口である
秋月は福岡県甘木市の中心市街地から7kmほど行った山峡の山あいにある。
秋月街道を北上する
秋月街道旧八丁越えの道を約150m歩いて、だんごあんに着く
だんごあん 明治20年の創業とか
渓谷沿いに川床などもある屋外座敷で、おだんごや焼き鳥を食し、ビールを飲む
だんごあんから秋月の町へ下る。
秋月の城下へ入ってきた
約500mの直線道路の両側に約200本の桜が植えられている「杉の馬場」
明治38年頃に日露戦争の戦勝記念として桜が植えられたとか
秋月黒田藩五万石長屋門
元和9年(1623年)黒田長政の三男、長興(ながおき)が秋月黒田藩として五万石
を与えられた。福岡藩の親藩である。
かって秋月千軒と称されるほど賑わった城下町を下る
秋月は全国で唯一、城下町全体が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されているそうだ。
野鳥(のとり)川に架かる眼鏡橋に別れ、甘木市街地へ向かう
明治9年(1876)10月27日福岡・秋月の乱が発生、参加者248名とも。
豊前・豊津藩に同志を求めたがならず、小倉鎮台兵に敗れ引き返すと。
秋月の町は向こうの小高い丘の向こうに拡がっている
大分自動車道甘木インターを入る
大分自動車道を福岡方面へ向かう
九州自動車道太宰府付近 水城が見えてきた
水城だ
九州自動車道太宰府インターを出て福岡都市高速道から西を見る
福岡都市高速道に対向して福岡空港から離陸の旅客機が一機
今日の街角風景は、日陰に咲く秋海棠(しゅうかいどう)である。
秋の季語だそうだ
秋海棠 西瓜(すいか)の色に 咲きにけり 芭蕉
秋海棠(しゅうかいどう)
貝原益軒の花譜(元禄七年、1709年刊)巻之中の六月の項に次の如くみえる。
秋海棠 六月中よりさきそめ、秋にいたりて盛也。其花艶なり。尤玩賞すべし。
此花いにしへ日本になし。正保の頃、はじめてもろこしより長崎へきたる。此
草木草綱目にのせず。月令廣義遵生八牋等諸書にみえたり。○宿根(ふるね)より
三四月の頃、苗を生ず。根は芋のごとく小にしてまるし。又子(み)をまくべし。
年を經れば、莖はなはだ長く、葉大なり。二三年をよしとす。陰地を好む。北の
屋がけ、かきねによろし。或盆にうふべし。子(み)をうへて糞をかくれば、當年
に花咲。宿根より生ずるは莖大なり。うふるに毎本相さる事一尺ばかりなるべし。
○月令廣義曰、陰處に宜し。遵生八牋曰、一たび日をみれば、色すなはち變ず。
秋海棠 僅かに水引がみえる
多くの地域で雲の多い天気となった8月28日、北海道や東北北部、
九州地方などでは、多くの人が皆既月食を観たという。
今日の街角風景は福岡市から観た皆既月食である。
福岡地方の皆既月食は18:52~20:23であったという。
2007.8.28 19:43
南東の空に赤銅色に輝く皆既月食 左上は福岡空港を飛立った旅客機
2007.8.28 20:12
南東の空に皆既月食 下方は福岡空港を飛立った旅客機
皆既月食は太陽からの光によってできた地球の影の中を月が通過する時に見られる
現象だとか。
つまり太陽--地球--月が一直線に並んだ時に見られるものなので、常に月は満月と
いうことになるとのことだ。
2007.8.28 20:31
皆既月食が終了し満月に復帰した月 ムーンダイヤモンドリングとでも言うのだろうか
福岡、佐賀県境の九千部山(くせんぶやま)(標高848m)は福岡市南区の
南方約13km.にある。今日の街角風景はこの九千部山の遠景である。
幕末、福岡が生んだ歌人、大隈言道(おおくまことみち)は九千部山を
九千峰(くせんぶ)の 山の夕だち はれにけり
いかに流るる 谷谷の水
と詠んだ。
大隈言道は寛政十年(1798)福岡薬院抱(かかえ)安学橋(今の今泉・若宮
神社の前あたり)で生れた幕末の歌人である。
慶応四年(1868)7月29日、福岡・今泉の自宅「ささのや」に死去、年71
言道は酒と桜と硯を以って三つの友として生きて来たそうだ。
福岡、佐賀県境の九千部山(くせんぶやま)(標高848m)は福岡市南区の
南方約13km.にある。頂上には佐賀、福岡のテレビ塔が林立する。
筑前國續風土記(貝原益軒、1703年(元禄16年)七十三歳のときに、藩主に献上)
巻之六 那珂郡下の九千部山の項に九千部山の由来として次のように記されている。
村民の説に、むかし性空上人法華經を一萬部讀誦せんとこゝろざし、九千部よみ、
其しるしに此山に塔を建てたる故に名付く。
九千部山遠景 福岡空港に着陸せんとして旋回降下中の旅客機が一機
今日の街角風景は、栴檀葉の菩提樹(センダンバノボダイジュ)の実と
擬宝珠(ギボウシ)の花である。
夏の終わりの暑い日であった。ワシワシヽヽヽヽと大音響を奏でたクマゼミが
終わった10日ほどあとに、何時もは姿を見せないアブラゼミが来ていた。
ジージ、ジージと少数で。
栴檀葉の菩提樹(センダンバノボダイジュ)に房状の実がなっている
モクゲンジ ムクロジ科 別名栴檀葉の菩提樹(センダンバノボダイジュ)
本州、朝鮮、中国に分布しているという
栴檀葉の菩提樹 邪気を払う木とされる
房の中に黒い種子が入っている この種子で数珠を作るとか
初夏には黄色い花を穂状に咲かせていた
栴檀葉の菩提樹の黒い種子
擬宝珠(ギボウシ) 玉簪花(ギボウシ)
貝原益軒の花譜(元禄七年 1694年)巻之中の六月の項に次の如くある
玉簪花(きほうし) 二月に苗を生ず。五月に一莖より、くき十計いづ。
六月に花さく。人の喉(のど)に魚の骨たちたるを治(ぢす)。牙(は)
に著べからず、牙をつる也。毒草也。又一種、さぎ草という物あり。
玉簪花の別種也。是もきほうしと云。○名花譜曰、玉簪花日かげを好む。
陰地にうふべし。花ひらくとき、清水をそゝぐべし。
夏の季語とか
絶壁に 擬宝珠咲きむれ 岩襖(いわぶすま) 久女
杉田久女:明治23年鹿児島市生まれ。本名赤堀ひさ。明治44年、愛知県
の現豊田市出身で旧制小倉中学の美術教師で画家の杉田宇内と結婚し
福岡県小倉市に住む。
「ホトトギス」同人であったが、後に除名された。
昭和21年福岡県筑紫郡太宰府町で死去、享年57 という。
擬宝珠(ギボウシ) 玉簪花(ギボウシ)
二水会(福岡同期会)が天神であった。何時ものように、西鉄福岡天神駅に降り立ち
天神界隈の街角風景を撮りながら、会場の益正天神店を訪ねた。
電車が終点の西鉄福岡天神駅に入線してきた。最後尾車輌から今通ってきた線路を見る
いま乗ってきた電車が折り返しの発車待ちである
西鉄福岡天神駅プラットホームから改札出口を見る
西鉄福岡天神駅コンコース下のアクセサリーショップで
西鉄福岡天神駅が入っているターミナルビルを見上げる
ターミナルビルの全景
左が天神イムズビル、正面に福岡市役所
福岡市役所 窓は緑のつる草で覆われている 省エネ&エコ対策だろう
中央にエルガーラ 右に西日本新聞会館
福ビル裏通りの書店 二階の窓側は販売図書がチェックできるカウンター席がある
明治通りである 会場の益正天神店はすぐそこだ
益正天神店にて
益正天神店にて
西中洲の「すくーる」にて 時計は25時を回っている