福岡万葉散歩

街の様子や木々や草花を眺め乍ら、先人の俳句や和歌を織り込んで、今の季節を楽しみたい。たまには万葉散歩も楽しみたい。

2019.7.8(月)万葉集の忘れ草、今のキスゲ咲く

2019-07-26 | 万葉紀行

万葉集で忘れ草と詠まれたキスゲが咲いている。ヤブカンゾウ、ノカンゾウなどとも言われており、いずれもユリ科ワスレグサ属の多年草で、夏の初め長く伸びた茎の上部に鮮やかなオレンジ色や黄色の百合に似た花をつけている。万葉集にはワスレグサ(忘れ草)を詠んだ歌は五首あるといわれているが、ここでは大宰の帥として太宰府に着任していた、天平二年(730)頃の大伴旅人の歌を載せたい。また、養老四年(720)征隼人持節大将軍として南九州に出征した旅人にも少しふれたい。

忘れ草(万葉表記) ヤブカンゾウ(写真)  ノカンゾウ  キスゲ

 

  忘れ草 我が紐に付く香久山の

    古りにし里を忘れむがため    大伴旅人

                    万葉集 巻3-0334

  大意:わすれ草を自分は紐につける。香具山のあたりのあの懐かしい

     故郷をひとときでもわすれているために。

 

大伴旅人と隼人とのかかわり

七二〇年に大隅国守(くにのかみ)が隼人によって殺害され、以後一年数ヵ月にわたって隼 人が朝廷に抵抗した事件はよく知られている。
 そのとき、朝廷が隼人を制圧するため大軍を派遣したが、その大軍を率い た人物が大伴宿祢旅人(すくねたびと)であった。旅人は当時中納言で中務卿(なかつかさきょう)も兼ねていた から、政府の要職にあったのであるが、この隼人の抗戦勃発で「征隼人持節 大将軍」に任命されて九州の南端までやってきたのである。
 じつは、大伴旅人はこの時はじめて隼人と接したのではなかった。この抗 戦より十年前の七一〇年正月元日の朝廷の儀式で、旅人は隼人を率いていた。 この正月元日の儀式は藤原宮では最後にあたり、三か月後には都は平城京に 移っている。その最後の朝賀はつぎのようであった。
 女帝の元明天皇が大極殿(だいぎょくでん)に出御(しゅつぎょ)さ れ、臣下から拝朝の礼を受けた。そのとき隼人・蝦夷(えみん)も参列していた。この 儀式で左将軍をつとめていた大伴旅人は、右将軍・副将軍とともに皇城門 (朱雀・すざく門)の外で東西に分れて陳列していた騎兵の中を、隼人・蝦夷を率いて 行進したのであった。
 このように、大伴旅人は都が藤原京にあった時期から隼人に接触してい た。その点では、当時の有力官人としては、隼人と縁のあるまれな存在であっ た。そこで、大伴旅人という人物と、その周辺についてさぐってみたい。
 大伴氏は、朝廷に早くから仕えた有力な軍事氏族で、天皇・宮廷の警護な どにあたった。古代では、世襲的職業グループを「伴(とも)」といい、伴を率いて朝廷 に奉仕する首長を「伴造(とものみやつこ)」といっていた が、大伴とはその中の最有力者の意であろうと思われる。始祖伝承では、天 孫ニニギノミコトが高千穂峰に天降った際に随伴・先導していた天忍日(あめのおしひ)命が 祖にあたると伝えられているので、天皇家に奉仕する家柄としての伝えも古 い。

このような要職にありながら、七二〇年に大隅国守陽侯史(やこのふひと)麻呂が殺 害されると、征隼人持節大将軍に任じられたのであった。この任命は、大伴氏 が古来朝廷の軍事を担当してきた名族という氏固有の伝統によるのであろ う。
 「持節」とは、隼人を征討する将軍に天皇が節刀を賜与して、天皇の権限を 代行することを容認したことを意味している。その節刀を持って隼人征討 にあたったのであり、この間の旅人の行為・行動は天皇の代行として、すべて認 められることであった。
 隼人の国守殺害は、天皇・朝廷にとっては屈辱的反逆行為であったから、大 宰府から事件が急報されると、数日のうちに征討軍を編成して西海道(九 州)に向かわせている。急遽任命された征討軍の主脳は、大伴旅人を大将軍と し、以下に副将軍二名であり、律令のなかの軍防令(ぐんぼうりょう)の規定からすると、この 構成での出兵は兵士一万人以上の場合に相当する。
 それらの兵士の大半は、大宰府に急使を遣わして、大宰府管下の西海道諸 国から徴集されたとみられる。大挙しての出兵の目的地は大隅国府のある 鹿児島湾奥部であったから、西海道の東・西沿岸部にそって征討軍は南下し たとみられる。となると、東岸部では日向国府が、西岸部では薩摩国府が兵帖(へいたん) 基地とされ後方拠点になったとみられる。
 都を発した大伴旅人大将軍は大宰府で情報を収集し、兵力を整えた後に 西岸部側を南下して薩摩国府を拠点として指揮をとったと推察される。朝 廷では、戦闘は短期間で、勝利で終わると考えていたとみられる。というの は、中央で要職にあった大伴旅人を大将軍に任命していることから、長期戦 は予測していなかったとみられる節があるからである。
 ところが、予測ははずれて隼人の強い抵抗にあい、長期にわたって苦戦を 強いられることになった。旅人は都を出て約半年後の七二〇年八月になる と、いまだ勝利への見通しがつかぬまま、副将軍を残して帰京することに なった。年齢も五六歳であったことから、長期の野戦は身体にこたえたこと もあったのであろう。いっぽうでは、やはり朝廷での要職を長期にわたって空 けることができなかったと見るべきであろうか。
 隼人の抵抗はその後も続き、翌七二一年七月になって副将軍らはよ うやく帰京し、「斬首獲虜合わせて千四百余人」と勝利の戦果を報告して いる。
 大伴旅人はその後、隼人と関わることはなかったのであろうか。じつは、隼 人との関係は断続的にその後も見出せる。旅人は七二八年ごろ、大宰帥(そち・大 宰府の長官)になっている。それより四年前にすでに正三位に昇叙しているの で、いまさらという感じがする。大宰帥は従三位相当官で旅人より下位の官 職であり、六四歳にもなっていたので、当時としてはかなりの高齢である。都 から離れた大宰府に異例の異動で、しかもこの年になって、なぜという思いで あったろう。
 おそらく、背後には藤原氏による政略があったとみられる。その翌年には、 長屋王の変がおこっているからである。
 長屋王は天武天皇の孫で、聖武天皇即位とともに左大臣となり、政権の最有 力者であったが、藤原氏の陰謀の犠牲となって自死した。その直後に、藤原不 比等(ふひと)の娘光明子(安宿媛・あすかひめ)が、それまでの伝統を破り臣下の出身にしてはじ めて皇后となった。光明皇后の出現で、藤原氏はいっそう勢力を振るうように なった。大伴旅人が大宰府に遠ざけられたのは、かれが長屋王に近い存在と 見られていたことが主因であろうか。
 大宰府赴任後、旅人は妻の大伴郎女(いらつめ)に病没されている。都から遠くに離さ れたうえに、妻を失なって、ときに酒に寂しさをまぎらす日もあったようであ る。

  


2019.7.10(水) 二水会で天神へ出る

2019-07-12 | 街角風景

二水会で天神へ出た。日本政府は対韓国輸出規制優遇措置の取消しを発表した。韓国は世界貿易機関(WTO)への提訴を検討しているとのことだが、どうぞご自由にと言いたい。今日は時事問題に終始した。

天神交差点の旧福ビル前横断歩道付近

天神交差点に天神ビルを見る

明治通り沿いの天神ビックバン開発地

天神益正にて

二水会 博多西中洲 スナック 冗談倶楽部

 


2019.7.5(金) 一年前の投稿(送別会で戸畑駅前に行く)を振り返る

2019-07-05 | 旅行記
 
2018.7.2(月) 送別会で戸畑駅前に行く
友が終の棲家を首都圏に移すという。その送別会がJR戸畑駅前の「柚香」というレストランであるということで戸畑駅前に行った。JR戸畑駅プラットホームJR戸畑駅プラットホ......