福岡万葉散歩

街の様子や木々や草花を眺め乍ら、先人の俳句や和歌を織り込んで、今の季節を楽しみたい。たまには万葉散歩も楽しみたい。

2009.10.24(土) 京都・北野天満宮に詣でる

2011-09-30 | 旅行記

太宰府天満宮とともに天神信仰の中心地である京都、北野天満宮に詣でた。

続いて京都に現存する最古の仏堂遺構という大報恩寺(千本釈迦堂)を訪ね、

相国寺では有名な鳴き龍を見て、その鳴き声を聞いた。

また源氏物語の執筆地で紫式部邸宅址といわれる蘆山寺を訪ねて今回の

京都旅行を終えた。

2009_10_24_293_4 

北野天満宮楼門(南門)

北野天満宮の参道脇の駐車場から、さざれ石越しに楼門(南門)を望む

2009_10_24_310_2

楼門(南門)を後ろに参道脇の駐車場を見る

2009_10_24_303

北野天満宮 三光門(中門)  重文

後西天皇の宸筆という「天満宮」の勅額を掲げてある三光門。豊富な彫刻の

中に日月星があるから三光門の名があるという。

もっとも星は見当たらず「星欠けの三光門ともいわれ」北野の七不思議の

ひとつという。

2009_10_24_308

北野天満宮・三光門(中門)から後ろに絵馬所を見る

南方に見る絵馬所を左に行き、また南に行った所に楼門(南門)がある。

この配置が北野の七不思議のひとつ「筋違いの本殿」であるという。

もちろん本殿は、この写真の後方(北方)にある。

2009_10_24_305

北野天満宮 社殿(本殿)  国宝  左近の松 右近の梅

主祭神・菅原道真を祀る本殿は桃山建築の代表で、この社殿は慶長12年

(1607)、豊臣秀頼の造営になるという。

古来神社祭祀は庭上で行われて来たので壮大な殿内で祭典を執行し得る

現社殿の出現は神社建築史上画期的なものという。

八棟造と称される総面積約500坪の雄大な桧皮葺屋根を戴く絢爛豪華な

桃山文化を今に伝えている。

楼門(南門)をくぐった正面には地主神社があり、菅公を祀る本殿はやや西に

位置している。この地主神社は北野天満宮鎮座以前の承和3年(836)に祭ら

れており、天暦元年(947)6月9日天満宮創祀の際、地主神社の正面を避けて

建てられたためという。

「筋違いの本殿」といわれる北野の七不思議のひとつである。

2009_10_24_306

北野天満宮本殿   国宝

北野天満宮は平安時代中期、国を鎮め守る神として、多治比文子(道真の

乳母という)らによって京都北野の右近馬場に菅原道真の霊を祀ったのが

始まりとされる。

永廷元年(987)一条天皇の令により初めて勅祭が執り行われ

「北野天満宮天神」の神号を得たという。

文子天満宮は車で京都駅に向う途中の駅に近いところで見た。

京都市下京区間の町通花尾町下る天神町に在って祭神はもちろん

菅原道真である。

2009_10_24_313

大報恩寺(千本釈迦堂)  国宝

瑞応山と号する真言宗智山派の寺院である。承久3年(1221)藤原秀衡の

孫・義空上人が猫間中納言光隆の家卒・岸高より寄進を受けたこの地に

小堂を建て一仏十弟子像を安置したのが起こりという。

当初、倶舎、天台、真言の三派の霊場として、堂塔伽藍も整い壮麗を極めた

というが、応仁の乱をはじめ、度々の災火で堂宇を焼失した。

現在唯一残る本堂(千本釈迦堂)は京都市に現存する最古の仏堂遺構という。

毎年二月にはおかめ福節分会、七月には六道まいり、十二月には大根焚きなど

多彩な行事が営まれ、その賑わいが季節の風物詩として全国にテレビ放映されている。

2009_10_24_331

相国寺(しょうこくじ)法堂  重文   京都市上京区今出川通烏丸東入

相国寺(しょうこくじ)は金閣寺、銀閣寺等の末寺を擁する臨済宗相国寺派の

大本山だそうだ。 この法堂(重文)は慶長10年(1605)豊臣秀頼が建立

したもので、桃山時代の遺構で一重裳階付入母屋造りの唐様建築の我国

最古の法堂という。

足利三代将軍義満が、後小松天皇の勅命を受け、明徳三年(1392)に、

夢想国師を勧請開山として完成したという。

その後、応仁の乱の兵火により諸堂宇は灰燼に帰したという。

後に豊臣氏の外護を受けて、慶長10年(1605)豊臣秀頼が現在の

法堂を建立し、慶長十四年には徳川家康も三門を寄進した。

2009_10_24_344

相国寺法堂

桃山時代の遺構で我国最古の法堂という。一重裳階付入母屋造りの

唐様建築で、天井の蟠龍図は狩野光信(永徳の嫡子)筆。

蟠龍図の周りを歩くと、龍の眼がついて来た。蟠龍図の下の所定の位置で

両手をたたくと、龍が鳴いた。

2009_10_24_320

相国寺方丈  法堂の北側に建つ  文化四年(1807)再建

2009_10_24_338

蘆山寺  源氏物語執筆地、紫式部邸宅址  京都市上京区寺町広小路上る

2009_10_24_342

蘆山寺   源氏物語執筆地、紫式部邸宅址

この地は紫式部の曽祖父の中納言藤原兼輔(877~933)から伯父の

為頼、父の為時へと伝えられた広い邸宅であったという。

それは鴨川の西側の堤防の西に接して営まれていたため「堤邸」と呼ばれ、

それに因んで兼輔は、「堤中納言」の名で知られていた。

紫式部は百年ほど前に兼輔が立てた旧い家で一生の大半を過ごしたと

いわれ、この邸宅で藤原宣孝との結婚生活を送り、一人娘の賢子

(かたこ・大弐三位)を育て、源氏物語を執筆したと伝わっている。


2009.10.24(土) 京都 金閣寺を巡る

2011-09-30 | 旅行記

金閣・鹿苑寺は臨済宗相国寺(しょうこくじ)派の禅寺で1994年、世界遺産に

登録された舎利殿「金閣」が特に有名なため、金閣寺と呼ばれている。

2009_10_24_289

金閣寺参道を総門に向って歩く

2009_10_24_269

鏡湖池(きょうこち)を前に金閣・鹿苑寺が映える

この地は鎌倉時代に西園寺公経の別荘北山第があったといわれる。室町時代に

入り、応永4年(1397)足利3代将軍義満が、山荘北山殿を造営したという。

金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土を具現したと言われ、北山文化の中心で

あった。

義満の死後、遺言通り夢想国師を開山とし、義満の法号・鹿苑院殿から二字を貰い

鹿苑寺(ろくおんじ)と名づけられたという。

2009_10_24_279

金閣・鹿苑寺

金閣寺正面の池畔から右手の路を北のほうへ向う

2009_10_24_277

金閣・鹿苑寺

舎利殿「金閣」の1層は寝殿造で法水院、2層と3層は黒漆の上から純金の箔が

張ってある。2層は武家造で潮音洞、3層は中国風の禅宗仏殿造で究竟頂(くっ

きょうちょう)と呼ばれている。

屋根は椹(さわら)の杮葺(こけらぶき)で上には鳳凰が輝く。

1層の室内左側に復元された義満像が見える。

2009_10_24_282

金閣・鹿苑寺の裏手の池泉沿いの遊路から金閣を見る

2009_10_24_283

金閣寺の裏山路にある龍門瀑(龍門の滝)

鯉が滝を登ると龍になると言われる中国の故事・登龍門に因んだ鯉魚石

(りぎょせき)が置かれている。

2009_10_24_285

金閣寺の裏山路をほぼ上りきったところにある安民澤

安民沢(あんみんたく)は昔からある池の名前で、中の島にある「白蛇の塚」が見える。

2009_10_24_286

金閣寺の裏山路を上りきったところから金閣を見る

2009_10_24_288

金閣寺の裏山路を下り切ろうとする所にある不動堂

本尊は弘法大師作と伝えられる石不動明王で、霊験あらたかな秘仏という。

2009_10_24_291

金閣寺の駐車場付近から見た左大文字山


2009.10.23(金) 京都 二条城を歩く

2011-09-30 | 旅行記

1996年(平成六年)ユネスコの世界遺産に登録され、2003年(平成十五年)に

築城400年を迎えた元離宮 二条城を歩いた。

2009_10_24_192

京都国際ホテルから西方に二条城を見る  左手に東大手門が見える

2009_10_24_195

東大手門の左脇の外堀

2009_10_24_194

二条城の入口にあたる東大手門正面

2009_10_24_197

城内から東大手門の裏面を見る

2009_10_24_199

唐門から二の丸御殿を見る

2009_10_24_200

二の丸御殿 (国宝)

Jvm1001_2

二の丸庭園

2009_10_24_213

本丸に通ずる橋と内堀

2009_10_24_215

本丸内から本丸に通ずる門を見返る

2009_10_24_216

本丸庭園  この左前方奥に天守台と天守閣があったという

2009_10_24_221

本丸御殿   現在耐震性の観点から非公開

1788年(天明8年)に大火による類焼で本丸御殿(本丸内の殿舎)をなくしたという。

現在の建物も本丸御殿といわれているが、1847年(弘化4年)に建てられた旧桂宮

御殿を1894年(明治27年)に、ここに移し建てられたものという。

2009_10_24_222

内堀から本丸の天守閣跡を見る

Jvm1002

清流園

清流園は、江戸初期の豪商・角倉了以の屋敷から、建物の一部と庭石約800個を

譲り受け1965年(昭和40年)新たに作ったものという。

Jvm1003

清流園前から南方に内堀と本丸を見る

2009_10_24_228

お城まつりが行われていた  後方の建物は二の丸御殿


2009.10.23(金) 京都 八坂の塔を行く

2011-09-30 | 旅行記

東京時代の会社OB会が京都で開かれるのにあわせて、京都に遊んだ。

今回は腰痛のために皆と行動をとることは諦めて、宴会のみの参加と

させてもらった。

2009_10_24_141

八坂の塔

2009_10_24_138_2

八坂の塔   霊応山法観寺五重塔   京都市東山区八坂上町

  聖徳太子創建との伝承あり。平安遷都以前からあったといわれ、朝鮮

  半島系の渡来氏族・八坂氏の氏寺として創建されたとの説が有力という。

  治承3年(1179)火災により焼失し、源頼朝により再建されたが、その後も

  幾度か焼失しているという。

  現在の塔は室町時代の永享12年(1440)に足利義利により再建された

  ものという。

  塔高 49m 重要文化財

2009_10_24_145

八坂の塔     塔高 49m 重要文化財

2009_10_24_150

八坂の塔  塔高 49m 重要文化財

2009_10_24_152

産寧坂の坂上辺り

2009_10_24_155

推理小説の山村美沙オフィス

2009_10_24_126

方広寺の鐘  京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町  重要文化財

  方広寺は豊臣秀吉により建立された天台宗山門派の寺である。豊臣氏

  当時のものとしてこの梵鐘が残っている。 高さ4.2m 外形2.8m 

  厚さ0.27m 重さ82.7トン

  この鐘に刻まれた銘文の中のごく一部の「国家安康」、「君臣豊樂」という

  一文が徳川家康の家と康を分断し、豊家を繁栄させようとの呪詛だと

  徳川家が豊臣家に言いがかりをつけたという。これが大阪の役による

  豊臣家滅亡への一里塚であったのであろうか。

2009_10_24_133

豊国神社

2009_10_24_132

耳塚(鼻塚)       京都市東山区豊国神社門前

  豊臣秀吉の朝鮮出兵の時(文禄の役・1592~1593、慶長の役・1597

  ~1598)戦いの証として討ち取った朝鮮、明国の兵の耳や鼻をそぎとって

  持ち帰ったものを葬った塚で2万人分ともいわれている。

  この塚は慶長二年(1597)に築造され、同年京都五山の僧を集め盛大に

  施餓鬼供養が行われたという。

  どう見ても古代朝鮮の王墓をかたどったものとみた。

2009_10_24_161

祇園町南側花見小路を行く

2009_10_24_163_2

花見小路の一力亭の前を行く

2009_10_24_232

京都国際ホテルの前から二条城方向を見る

2009_10_24_229

京都国際ホテルの玄関前に建つ橋本左内寓居址の碑

  左内の号は景岳(けいがく)、福井城下に生まれ、大阪、江戸で洋学、

  医学を学び藩主・松平慶永(春嶽)に認められて藩学・明道館の幹事

  となった。

  幕末の志士で安政5年(1858)2月から4月までこの地にあった福井藩邸

  に居住して、いわゆる「徳川将軍継嗣問題」に関して活躍していたという。

  江戸幕府第13代将軍徳川家定の世継ぎに関する「将軍継嗣問題」で、

  慶喜を擁立する一橋派の越前福井藩主・松平慶永(春嶽)は橋本左内を

  使い、同じく一橋派の薩摩藩主・島津斉彬は西郷隆盛を使って「将軍継嗣

  問題」に奔走させた。

  安政5年(1858)井伊直弼が大老に就任し安政の大獄を断行した。薩摩藩主・

  島津斉彬が急死し、西郷隆盛は京都から脱出するが鹿児島で入水自殺を計る。

  一方越前福井藩では藩主・松平慶永(春嶽)が隠居謹慎を申し付けられ、

  橋本左内は安政6年(1859)10月7日「公儀憚からざる致し方、右始末不届付」

  との理由で死罪を命ぜられ、江戸伝馬処刑場で斬首刑に処せられたという。

  橋本左内:天保5年(1834)~安政6年(1859) 享年26

2009_10_24_243

京都国際ホテルから二条城を見る

2009_10_24_242

OB会の宴会が開かれた「白河院」  京都市左京区岡崎法勝寺町

  大正期の数奇屋建築で名匠七代目小川治兵衛(通称植治)の作庭

  になる山水庭園をもつ


2009.9.8(火) 阿修羅を太宰府に観る

2011-09-30 | まち歩き

今日は、太宰府の九州国立博物館にやって来た待望の興福寺の阿修羅像を

観た。興福寺は藤原氏の氏寺として、和銅3年(710)の平城京遷都とともに

建立されたという。

2009_09_21_027

太宰府天満宮の表参道を行く

2009_09_21_028

太宰府天満宮の表参道の突き当りの鳥居を入った右手にある菅原道真の歌碑

       東風(こち)ふかばにほひおこせよ梅の花

            あるじなしとて春なわすれそ

  この歌は昌泰四年(901)二月一日に道真が自邸を去るときの心境として

  御前の梅花をご覧じて詠まれたと「大鏡」は伝えているという。これに続けて

  無実の罪で大宰府に配流されていくことも「大鏡」は間接的に述べているという。

2009_09_21_029

太宰府天満宮の反橋(そりはし)の右を行く

2009_09_21_046

太宰府の九州国立博物館には入場を待つ人の長い列が幾重にも続いている

この日の待ち時間は2時間半と出ていた

2009_09_21_032

後どれ位で入れるのだろうか

2009_09_21_035

館内のエスカレーターで会場に向う。中央の飾りは博多祇園山笠の飾り山

2009_09_21_045

阿修羅展会場入り口

2009_09_21_039

阿修羅展会場入り口のパネルの前で

2009_09_21_041

阿修羅展会場入り口のパネルの前で

Img072a

天平彫刻の華  国宝  阿修羅像

  興福寺創建1300年記念特別展として太宰府の九州国立博物館に

  「阿修羅」を筆頭とする国宝の八部衆像8体のうち5体、十大弟子像

  (現存6体)のうち4体がやって来た。

  興福寺を発願した藤原不比等の娘、聖武天皇の后・光明皇后は天平六年

  (734)、母の供養のため、興福寺に西金堂を建てた。(焼失して現在は

  跡地が残るのみ)お堂の本尊(焼失して鎌倉時代に復興)を取り囲んだのが、

  阿修羅など八部衆像と十大弟子像だったという。

2009_09_21_047

九州国立博物館阿修羅展会場からトラベーターで帰路につく

トラベーター横の通路には阿修羅展会場に向う人々の行列ができている

2009_09_21_048

太宰府天満宮側の九州国立博物館入口エスカレーター付近

ここにも入場を待つ人の列ができている

2009_09_21_052

太宰府天満宮の菖蒲池脇の梅林に建つ万葉歌碑

     萬代(よろづよ)に年は來経(きふ)とも梅の花

        絶ゆることなく咲き渡るべし    筑前介佐氏子首(こびと)

                                 万葉集巻五-830

  天平二年正月十三日に、大宰府の帥・大伴旅人(当時66歳)宅にて

  開かれた宴会で詠まれた、梅花の歌三十二首のうちの一首である。

  当時筑前介は筑前守・山上憶良のすぐ下の役であったという。

2009_09_21_057

太宰府天満宮参道の「やす武」で具雑煮の昼食をとる


2009.9.17(木) 伯父が逝く

2011-09-30 | 日記・エッセイ・コラム

小さい時から可愛がってくれた伯父が95歳で逝った。伯父は若き日を満州で過ごし、

    出征もし、長く東京で過ごし、終の棲家を博多湾を見下ろす地に構えて、町内の人々と

    交流を重ねていた。

遺言により献体される

大学病院に搬送する車が待つ


2009.8.29(土) 福岡県芦屋町に遊ぶ

2011-09-30 | 旅行記

今日は、親戚から招待を受けて福岡県芦屋町に一泊し魚料理も御馳走になった。

 

    福岡県芦屋町は福岡市と北九州市の略中間に位置し、北側は響灘に面している。

 

    神功皇后の西征の時には、船で洞海湾から江川を通って芦屋に着いたといわれる。

    このことに関する地誌は貝原益軒の続筑前国風土記に詳しい。豊臣秀吉も神功皇后

    にならって肥前名護屋入りの時には江川を通って遠賀川に入り芦屋に着いている。

 

「マリンテラスあしや」から福岡県芦屋町を望む   橋は「なみかけ大橋」

 

    左から遠賀川が海に入る。その遠賀川沿いの家並が、江戸時代には芦屋千軒といわれ

    繁盛した処だ。伊万里焼などを中心とする国内交易の中継点として賑わったという。

    この芦屋千軒のなかには神功皇后を祀る岡湊神社がある。

 

航空自衛隊芦屋基地遠望

 

「マリンテラスあしや」から芦屋港を見る。  右は魚見公園

 

マリンテラスあしやにて

 

マリンテラスあしやにて


2009.8.19(水) 天神へ出る

2011-09-30 | まち歩き

今日は、天神へ出て、ばってん会の幹事さん達と会ったことである。

福岡天神行きの西鉄大牟田線の最後部の車輌から新幹線とクロスする辺りを見る

西鉄大牟田線

西鉄福岡天神駅

西鉄福岡天神駅プラットホームから南の方に渡辺通りを望む

西鉄福岡天神駅プラットホームから大丸デパートを見る

西鉄福岡天神駅北口コンコース

天神交差点付近  改装中の旧岩田屋本館の先が天神ビル

改装中の旧岩田屋本館の工事用囲いに貼られている写真パネル

旧西鉄大牟田線の福岡駅と渡辺通りを南の方に望む  右手に警固神社

天神交差点と旧岩田屋百貨店  旧岩田屋百貨店は来春パルコになる

昭和35年竣工の天神ビルと旧岩田屋百貨店

渡辺通り4丁目付近を南向す


2009.7.22(水) 最大食分90%の日食を見る

2011-09-30 | 日記・エッセイ・コラム

今日の福岡は日食の日である。刻々と月に隠されていく太陽の姿が見れるであろうか。

    

    食の始めは09:37:39といわれていたが上空は雲に隠れて太陽を見ることが出来ない。

    

    食の最大は10:56:05といわれていたが、丁度その前後に雲間越しに最大食分約90%

    といわれていた日食を見ることが出来た。

    睡蓮の花の開き具合は最大食分の頃とその約40分後とでは明らかに違っていた。

    

    食の終りは12:17:48ということであった。

2009.7.22 10:55:51    最大食分約90%の頃

2009.7.22 10:58:15

2009.7.22 10:58:24

2009.7.22 10:59:55  最大食分約90%の頃

2009.7.22 11:37:15    最大食分約90%の頃から約40分後


2009.6.12(金) 城下町佐伯の国木田独歩館を訪ねる

2011-09-30 | 旅行記

今日の街角風景は、大分県佐伯市の国木田独歩館を訪ねた時のものである。

 

    国木田独歩は明治26年から明治27年にかけて佐伯に鶴谷学館の教師として赴任。

 

    国木田独歩館は、明治26年10月から明治27年6月末までの間、国木田独歩と

    弟収二が下宿した鶴谷学館の館長であった坂本永年邸であり、城山の麓に展開する

    城下町の一角にある。

 

    国木田独歩は主屋2階に下宿し、裏山にあたる城山(140メートル)の山上まで散歩

    することも多かったと伝えられているとか。

 

国木田独歩館入口正面の冠門

 

国木田独歩館前の武家屋敷通り      左に国木田独歩館の冠門

 

国木田独歩館前で

 

国木田独歩館前で

 

国木田独歩館玄関

 

前庭から国木田独歩館を見る

 

城山の麓にあたる地形を活かした国木田独歩館の庭園

 

国木田独歩館の庭園を見る

 

独歩と弟収二が下宿した国木田独歩館の主屋二階

 

     国木田独歩 (1871~1908)

 

        「春の鳥」、「源おぢ」、「鹿狩」など、佐伯を舞台とする作品も少なくないとか。

        上京後は従軍記者を経て雑誌編集などに従事するが、明治41年6月23日

        病没。

 

        「武蔵野」、「忘れえぬ人々」、「欺かざるの記」など、明治の文壇に輝く名作を

        数多く遺す。

 

豊後佐伯城址(鶴屋城)の三の丸櫓門(重文)   後ろは城山(140メートル)

 

    国木田独歩館は、この写真の右手の城山の麓に大きく展開する城下町の一角にある。

 

    慶長6年(1601)、秀吉子飼いの大名であった毛利高政が二万石で佐伯藩に移封

    され、築城と町作りを進め、慶長11年(1606)に完成したのが豊後佐伯城(鶴屋城)

    である。毛利高政は秀吉子飼いの大名でありながら、その大名家は綿々と引き継がれ

    明治維新まで存続したという。 


2009.6.12(金) 臼杵城址と臼杵石仏を訪ねる

2011-09-30 | 旅行記

今日の街角風景は、大分県の臼杵(うすき)城址と臼杵石仏を訪ねたことである。

臼杵城址

 

臼杵城址

 

    九州の覇者、大友宗麟は永禄4年(1561)毛利元就に敗れ、本拠地の府内(大分市)

    を諦め、永禄5年(1562)府内の南の臼杵湾に浮かんでいた丹生(にぶ)島に築城した。

    

    これが臼杵城(亀城)であるという。永禄7年(1564)当時の大友宗麟の所領は153万

    石余りであったという。

 

    慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、5万石で稲葉貞通が美濃(岐阜県)郡上八幡から

    この臼杵に移封されて以来15代久通まで、明治維新までの約270年間この城を守った

    という。

 

この森とその右手一帯に臼杵石仏が鎮座まします

 

   古薗石仏大日如来像に代表される臼杵磨崖仏は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて

   彫像されたといわれる。

 

   石仏群は四群に分かれ、その数は60余体で、このうち59体が国宝に指定されている。

   

   石仏群は四群に分かれ、地名によって、ホキ石仏第一群、ホキ石仏第二群、山王山石仏、

   古園石仏となづけられている。

 

古園石仏の屋根が見える

 

ホキ石仏第二群

 

ホキ石仏第二群

 

ホキ石仏第二群

 

ホキ石仏第一群

 

ホキ石仏第一群

 

 

ホキ石仏第一群の屋根囲い

 

山王山石仏

 

山王山石仏からホキ石仏第一群の屋根囲いを見る

 

古薗石仏に至る路

 

古薗石仏

 

古薗石仏

 

古薗石仏

 

古薗石仏

 

修復前の古薗石仏の写真が掲げられていた

 

古薗石仏大日如来像

 

古薗石仏大日如来像

 

古薗石仏大日如来像

 

古薗石仏から田園を見る

 

古薗石仏から坂を下って帰路につく

 

古園石仏の森を下った所で

 

臼杵石仏土産店通り


2009.6.12(金) 大分自動車道から由布岳を見る

2011-09-30 | 旅行記

    今日の街角風景は、大分自動車道の由布岳PAから由布岳、鶴見岳、内山、硫黄山

    を見たことである。

由布岳PAから南の方に由布岳(1584メートル)を望む

       恋ひつつも 居らむとすれど 遊布麻山(ゆふまやま)

             隠れし君を 思いかねつも            読人不詳 

                                       (万葉集巻十四-3475)

       大意 : 恋い慕いながらもじっとしていようと思うが、遊布麻山(ゆふまやま)

             (由布山=由布岳)に隠れた君を思うともうどうにもならない。

                                        (佐々木均太郎氏訳)

由布岳PAから南の方に由布岳(1584メートル)を望む

由布岳PAから南の方に由布岳(1584メートル)を望む

左から内山(1275メートル)、鶴見岳(1375メートル)

内山(1275メートル)   左奥が伽藍岳(硫黄山)(1045メートル)

伽藍岳(硫黄山)(1045メートル)

別府湾SAから見た高崎山(628メートル)


2009.5.29(金) 伊万里大川内山に遊ぶ

2011-09-30 | 旅行記

今日の街角風景は、佐賀県伊万里市の鍋島藩・秘窯の里といわれる大川内山に遊んだ

   ことである。

   この地は近世磁器の至宝といわれる色鍋島など鍋島藩の藩窯の伝統美と技法を今に

   伝えるという。

   鍋島藩が御用窯を有田からこの大川内山に移したのは、延宝3年(1675年)という。

佐賀県伊万里市の「大川内山」を伊万里鍋島焼会館前の駐車場から見る

佐賀県伊万里市の「大川内山」を伊万里鍋島焼会館前の駐車場から見る

伊万里大川内山の鍋島藩窯坂

伊万里鍋島焼会館内で

伊万里大川内山の入口に架かる鍋島藩窯橋


2009.5.16(土) 蘭の花が咲く

2011-09-30 | 日記・エッセイ・コラム

今日の街角風景は、蘭の一種、デンドロビウムの花である

蘭(らん)    デンドロビウム         ラン(ラン科)秋の季語

蘭のかや異国のように三ヶの月      小林一茶

叔母を誘って昼食会


2009.5.13(水) 二水会で天神に出る

2011-09-30 | まち歩き

今日の街角風景は、二水会で天神に出たことである。

 

渡辺通りの三越前交差点を右折して福岡市役所方向へ向う

 

福岡市役所議会棟前からステーションビルである福岡三越を見る

 

福岡市役所前からアクロス福岡を見る

 

会場の益正天神店前から西方の天神交差点方向を見る

 

益正天神店にて

 

西中洲の「すく~る」は右手奥にある

西中洲の「すくーる」にて

 

中州のクラブ「エステリオ」に寄る

 

エステリオにて

 

エステリオにて