前々からよく『浅き夢見し』では無いのですかと質問される事があった。
確かに、一般的には浅き夢見『し』で知られていると思う。
でも、『いろは歌』の内容を考えると、『し』では意味が通じないのだ。
色は匂へど散りぬるを 我が世誰そ常ならん 有為の奥山今日超えて 浅き夢見じ酔ひもせず
いろは歌を現代語訳すると、
花の色は鮮やかでもいつかは散ってしまう
そのように未来永劫変わる事無く居られるものなど何も無いだろう
今日一日を暮らして考える事は
そんな(永久に変わる事無く生き続けると言うような)浅はかな夢を見るべきではないな
酔っている訳でもないのに、と言う事だ
と言う事になる。
仮に浅き夢見『し』としてしまうと、その一文の意味が繋がらなくなってしまう。
やっぱり『じ』にして『~すべきではない』と言う意味を持たせなくてはいけないのだ。
古語の難しい所は、濁点や半濁点の記述が無いので、前後の関係からそれを想像しなくてはいけないと言う所で、同時に面白い所だとも思う。
ちなみに小倉百人一首の蝉丸の『これやこの ゆくもかえるも わかれては しるもしらぬも あふさかのせき』と言う句は、100首の中で唯一濁点や半濁点を補う事無くそのままで現代でも通じる句なんだそうだと言う事を聞いた事がある。
確かに、一般的には浅き夢見『し』で知られていると思う。
でも、『いろは歌』の内容を考えると、『し』では意味が通じないのだ。
色は匂へど散りぬるを 我が世誰そ常ならん 有為の奥山今日超えて 浅き夢見じ酔ひもせず
いろは歌を現代語訳すると、
花の色は鮮やかでもいつかは散ってしまう
そのように未来永劫変わる事無く居られるものなど何も無いだろう
今日一日を暮らして考える事は
そんな(永久に変わる事無く生き続けると言うような)浅はかな夢を見るべきではないな
酔っている訳でもないのに、と言う事だ
と言う事になる。
仮に浅き夢見『し』としてしまうと、その一文の意味が繋がらなくなってしまう。
やっぱり『じ』にして『~すべきではない』と言う意味を持たせなくてはいけないのだ。
古語の難しい所は、濁点や半濁点の記述が無いので、前後の関係からそれを想像しなくてはいけないと言う所で、同時に面白い所だとも思う。
ちなみに小倉百人一首の蝉丸の『これやこの ゆくもかえるも わかれては しるもしらぬも あふさかのせき』と言う句は、100首の中で唯一濁点や半濁点を補う事無くそのままで現代でも通じる句なんだそうだと言う事を聞いた事がある。