桃おやじの歴史散歩

我が町は 記紀に記載の七代孝霊天皇黒田廬戸宮の比定地。
古代史を中心に、奈良の観光や地域情報を気ままに書いています。

「十六面(じゅうろくせん)」 奈良県田原本町十六面

2017-08-28 17:39:17 | 地域
「十六面(じゅうろくせん)」 

十六面は富本や黒田の南、西竹田の東に当り、田原本に隣接した薬王寺、三笠の西に位置します。

言い伝えでは、昔、西竹田に猿楽師(さるがくし)が住んでいました。姓を金春(こんぱる)といいました。
ある日天から十六(じゅうろく)という面(おもて)が落ちて来ました(一説には十六枚の面ともいわれています) 。
そこで面の落ちた所を十六面(じゅうろくせん)というようになったそうです。
十六という面は、若い美しい公達(きんだち)をあらわし、平敦盛(たいらのあつもり)(1169~1184)が十六歳で戦死したことから名付けられています。

この十六という面をつけると気が狂ったようになるので、金春の息子は能楽師として家を継ぐことをあきらめて、この面を御神体として祀ったのが十六面の一杵島(いっきしま)神社だといわれています。
面づくりは大綱と富本(とんもと)に住んでいたそうです。

十六面はもと富本と一つであったのが、寛永(1624~1643)のころに分立したと伝えられ、それで富本の伏せ字から十六面をトムオモテと呼ぶようになったとも言われています。また西竹田には、今も金春屋敷といわれるところがあります。(『平野村史』から)

※「金春流」は大和猿楽四座の一つで、古くは円満井座・竹田座といいました。
鎌倉時代から興福寺春日社に奉仕しており、金春と称したのは南北朝時代の金春権守あたりからと伝えられています。
十六は能面の一つで、少年の面として使用され、能楽「敦盛」「経政」「朝長」などに用いられます。
田原本町には能に関する土地が他にもあります。味間の補巖寺は世阿弥夫婦の関係するお寺であることは古くから知られているところです。
また法貴寺の舞庄(まいのしょう)の発掘調査では、室町時代の翁面(おきなめん)(父尉(ちちのじょう))が出土しました。

この面は能面の中でも最も神聖視され、神能「翁」を演じるときに用いられるものです。出土地である舞庄は、おそらく能に関係のある人々が住んでいた所でしょう。
このように田原本町は、能に関係する大和の一中心地でもあったのです。
文章が長いのですが、田原本が能の発祥に深くかかわっていた事は史実の様です。
しかし、残念ながらこのロマン有る伝承は後付けの様です。
本来この地は「富本」の飛び地だったとの事。

十三下(トミモト)→トンモト→トムモテ(十六面)→ジュウロクメン→ジュウロクセンと成ったのが史実の様です。
ロマンには欠けますが、これだけ変わると返って歴史の大きな流れの様な物を感じさせてくれます。
集落のほぼ中央に市杵島媛神社が有ります。

ここで三百年以上続く「振り上げ神事」は地域の伝統行事であり埃でも有る様です。


その前に建つ、教専寺は、小さなお寺ですが、木造建築の粋を集めた、近隣に類を見ない寺院だと称されるほど立派な作りを持って居ます。


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