保津.鏡作伊多神社 田原本町大字保津
富本から東、田原本旧町との間、、宮古の南、薬王寺との間に教科書にも引用された環濠集落の形を良く残す「保津」の集落が有ります。
総戸数七十戸、環濠集落内では三十戸余りの小さな集落ですが、ここも黒田と並び可也古い歴史を有します。
保津環濠集落の南端に社叢を見せる鏡作伊多神社ですが、もとは現在地より東約300m、2‐3世紀の保津宮古遺跡の東の端「伊多敷」の地名の残る場所に在ったとされます。
集落自体も時代とともに北西に移動し、中世に現在地に至った様です、おそらくは防衛城郭構築のためと思われます。
室町時代から戦国時代には箸尾城主箸尾氏の勢力下にあり、環濠を在地豪族の城砦として利用されていたと考えられています。
保津の環濠集落も以前は教科書に載るほど綺麗に残って居ましたが、近年 道路整備が進み、今は集落の南と西の半分だけに成ってしまいました。
保津環濠は、大和平野に数多く点在する環濠集落の代表的は遺構例で、現在東側の濠が暗渠となっているが、周囲に廻らされた環濠遺構がよく残っている遺跡です。
入り組んだ集落の南に突き出た形で鏡作伊多神社の社叢がこんもりと佇んでいます。
宮古の南方に有る鏡作り伊多神社とは道路を挟んですぐ隣ですが、ここも同じ鏡作り伊多神社に成ります。
社叢を東へ回り込む形で集落の中央へ入り込む道の入り口、遥拝所の碑が有る民家と民家の間が神社への入り口になります。
細い路地の突き当り南側に石の鳥居が建ち、境内が広がります。
北側の街道沿いに二重の濠を設け、環濠内への虎口は南側に開かれ、この虎口を守るように延喜式内社の鏡作伊多神社が南西部に張り出した曲輪の如く配置鎮座しています。
この近辺の神社は、特に平日は何処へ行っても閑散としていますが、人の手の入って、綺麗に整備清掃され清々しい気持ちに成ります。
西向きの拝殿の後ろにこじんまりとした社殿が二つ並んで立っています。
社伝に「左座麻気神者天糠戸ノ命、大山祇之子也、此ノ神鋳作日之御像鏡、今伊勢崇秘大神也、
右座伊多神者、石凝姥命、天糠戸命之子也、比ノ神モ鋳作日象之鏡、今紀伊之国日前神是也」
鏡作り神社に共通する神様ですが、本殿に祀られているのは、左は天糠戸ノ命、右はその子石凝姥ノ命の親子と言う事に成ります。
『古事記』に、天岩屋戸神話に登場する神で、天照大御神を招き出すため、伊斯計理度売命に鏡を作らせたと有ります。
『日本書紀』では、思兼神が天照大御神の姿を写すものを造って、招き出そうと、 石凝姥に天の香山の金を採り、日矛を作らせたとあります。
また別の書では鏡作部の遠祖・天糠戸に鏡を作らしめとあり、 さらに別の書には、鏡作の遠祖・天抜戸の子・石凝戸辺が作った八咫の鏡を懸けたとあり、 鏡作の遠祖親子であることがわかります。
ただ、摩毛も伊多も同じ神様を祀って居て区別がつかないのも事実です。
八尾の鏡作り神社(鏡作坐天照御魂神社)を中心に、鋳造や鋳型、細工や研磨に携わった人達の住居や作業場が有った物と考えられて居ます。
伊多は鉄工の意味から、おそらくは鋳型や鋳造技術の人達の仕事場や居住地域であったのだろうと考えられます。
弥生時代の遺跡、遺構も数々発見されて居る事から見ても、当然、卑弥呼の時代から存在したのでしょう。
富本から東、田原本旧町との間、、宮古の南、薬王寺との間に教科書にも引用された環濠集落の形を良く残す「保津」の集落が有ります。
総戸数七十戸、環濠集落内では三十戸余りの小さな集落ですが、ここも黒田と並び可也古い歴史を有します。
保津環濠集落の南端に社叢を見せる鏡作伊多神社ですが、もとは現在地より東約300m、2‐3世紀の保津宮古遺跡の東の端「伊多敷」の地名の残る場所に在ったとされます。
集落自体も時代とともに北西に移動し、中世に現在地に至った様です、おそらくは防衛城郭構築のためと思われます。
室町時代から戦国時代には箸尾城主箸尾氏の勢力下にあり、環濠を在地豪族の城砦として利用されていたと考えられています。
保津の環濠集落も以前は教科書に載るほど綺麗に残って居ましたが、近年 道路整備が進み、今は集落の南と西の半分だけに成ってしまいました。
保津環濠は、大和平野に数多く点在する環濠集落の代表的は遺構例で、現在東側の濠が暗渠となっているが、周囲に廻らされた環濠遺構がよく残っている遺跡です。
入り組んだ集落の南に突き出た形で鏡作伊多神社の社叢がこんもりと佇んでいます。
宮古の南方に有る鏡作り伊多神社とは道路を挟んですぐ隣ですが、ここも同じ鏡作り伊多神社に成ります。
社叢を東へ回り込む形で集落の中央へ入り込む道の入り口、遥拝所の碑が有る民家と民家の間が神社への入り口になります。
細い路地の突き当り南側に石の鳥居が建ち、境内が広がります。
北側の街道沿いに二重の濠を設け、環濠内への虎口は南側に開かれ、この虎口を守るように延喜式内社の鏡作伊多神社が南西部に張り出した曲輪の如く配置鎮座しています。
この近辺の神社は、特に平日は何処へ行っても閑散としていますが、人の手の入って、綺麗に整備清掃され清々しい気持ちに成ります。
西向きの拝殿の後ろにこじんまりとした社殿が二つ並んで立っています。
社伝に「左座麻気神者天糠戸ノ命、大山祇之子也、此ノ神鋳作日之御像鏡、今伊勢崇秘大神也、
右座伊多神者、石凝姥命、天糠戸命之子也、比ノ神モ鋳作日象之鏡、今紀伊之国日前神是也」
鏡作り神社に共通する神様ですが、本殿に祀られているのは、左は天糠戸ノ命、右はその子石凝姥ノ命の親子と言う事に成ります。
『古事記』に、天岩屋戸神話に登場する神で、天照大御神を招き出すため、伊斯計理度売命に鏡を作らせたと有ります。
『日本書紀』では、思兼神が天照大御神の姿を写すものを造って、招き出そうと、 石凝姥に天の香山の金を採り、日矛を作らせたとあります。
また別の書では鏡作部の遠祖・天糠戸に鏡を作らしめとあり、 さらに別の書には、鏡作の遠祖・天抜戸の子・石凝戸辺が作った八咫の鏡を懸けたとあり、 鏡作の遠祖親子であることがわかります。
ただ、摩毛も伊多も同じ神様を祀って居て区別がつかないのも事実です。
八尾の鏡作り神社(鏡作坐天照御魂神社)を中心に、鋳造や鋳型、細工や研磨に携わった人達の住居や作業場が有った物と考えられて居ます。
伊多は鉄工の意味から、おそらくは鋳型や鋳造技術の人達の仕事場や居住地域であったのだろうと考えられます。
弥生時代の遺跡、遺構も数々発見されて居る事から見ても、当然、卑弥呼の時代から存在したのでしょう。
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