桃おやじの歴史散歩

我が町は 記紀に記載の七代孝霊天皇黒田廬戸宮の比定地。
古代史を中心に、奈良の観光や地域情報を気ままに書いています。

「三宅町伴堂、杵築神社」 “#桃おやじ”の“#奈良盆地のへそ”散歩   其の5「太子道(筋交い道)」-4

2019-05-30 11:07:26 | 歴史
「伴堂杵築神社」

太子道を屏風杵築神社から南へ進んで行くと、左側に神社の森らしきものが見えてきます。
チョッと区切られていますが伴堂杵築神社の境内社「厳島神社」です。

その南に少し大きく広がるのが「伴堂杵築神社」になります。

南向きの鳥居へ廻って中に入ると、左手に鏡池や忠霊碑などが並び、右手に拝殿に向う石の二の鳥居が立っています


ここの拝殿にも沢山お絵馬が掲げられていますが、その中でも「おかげ踊り」を描いた絵馬3面が有り、多数の踊り子側になって踊る様子など当時の風俗を知るうえで民俗学上大切な資料だとされています。

ここの狛犬も明光丹波佐吉の作になります。

この一帯には丹波佐吉の狛犬が多く見られますので探求してみるのも面白いでしょうね。

「三宅町屏風、忍性菩薩」 “#桃おやじ”の“#奈良盆地のへそ”散歩   其の5「太子道(筋交い道)」-3

2019-05-28 11:01:08 | 歴史

社会福祉ボランティアの先駆者  忍性菩薩(良寛和尚)

1217.8.19-1303.8.25伴貞行と母榎氏の子。
と出生から亡くなった時まで当時としては意外とはっきり記録で残っています。

鎌倉時代の律宗の僧で鎌倉極楽寺の開山長老。字は良観房。
額安寺,安倍文殊院,生駒山竹林寺などで文殊信仰の修行、
救済,作道(極楽寺坂),殺生禁断(鎌倉前浜)などの慈善事業に努め
鎌倉に建立した療病施設・桑谷療病所では,20年間に生きる者4万6800人,
死んだ者1万450人で,5分の4が生きたといわれている。

当時としては驚異的な生存率の数字を残している。

また、東大寺大勧進,四天王寺別当,摂津多田院別当なども歴任し,多くの寺社の勧進・復興活動も成し遂げた。


「三宅町屏風」 “#桃おやじ”の“#奈良盆地のへそ”散歩   其の5「太子道(筋交い道)」-1

2019-05-26 22:00:19 | 歴史

「屏風白山神社」

面塚から旧道(太子道、法隆寺道)へ入って式下中学を少し南へ行くと左に大きな「屏風杵築神社」、右手に形だけの「白山神社」が祀られています。

神社らしき形は見られませんが、屏風の名前の元になった大使の「腰かけ石」と愛馬「黒駒」にまたがり従者「調子麿」を従えた太子像が建っています。

入口には太子駒繫ぎ柳が有ったのですが今は無くなってしまいました。

斑鳩宮から小墾田宮へ通う途中、聖徳太子が休憩したと伝わるこの場所ですが、風が強くゆっくり休む事が出来ません。
その際に気の毒に思った村人が屏風を立てて太子をもてなしたことから、ここの地名が「屏風」になったとか。


川西町下永、旧白米寺収蔵庫 “#桃おやじ”の“#奈良盆地のへそ”散歩   其の4「川西町」-5

2019-05-24 21:18:38 | 歴史

旧白米寺収蔵庫(奈良県磯城郡川西町)— 見事な衣紋の堂々たる地蔵菩薩 を紹介します。
川西町下永-八幡神社、旧白米寺収蔵庫。

近鉄橿原線結崎駅から真っ直ぐ北へ、大和川と近鉄戦が交錯する辺りが下永に成ります。

白米寺は川西町下永東方の高堂の八幡神社の神宮寺であったと伝えられ、京奈和自動車道の事前発掘調査で、永東方遺跡から奈良時代後期の軒平瓦や平安時代の丸瓦・平瓦が出土している事や、旧白米寺の平安時代の諸佛から、この場所に古代寺院の存在が推定される。

この辺りはもともと低湿地帯で、安堵町の「中家」の様に鎌倉時代末期から室町時代初期に開発された豪族の居館が散在した地域です。

下永は大和川を挟んで西と東に分かれていますが、もとは一つだったのでしょう。
奈良盆地を流れる川は扇状に広がって平地を流れるため、大水の度々に洪水が起き川の流れを変えて来ています。

交通の便も意外と良く京奈和道のインターが近くまで来ています。

此処白米寺収蔵庫の見物は何と言っても地蔵菩薩立像。
地蔵菩薩立像(弘仁時代) クスノキ材一木造 像高161.0cm 国指定重要文化財
流れるような線、浮かび上がる文様、現在にも通用する綺麗なスタイル、等身大の堂々とした立ち姿は見る者を圧倒します。

是非一度は目にしておきたい仏像の一つです。

他にも阿弥陀如来坐像(藤原時代) ヒノキ材寄木造 像高144.2cm 国指定重要文化財を始め、

不動明王および二童子像(鎌倉時代)ヒノキ材寄木造 像高51.5cm(不動明王) 奈良県指定文化財

制多迦童子(せいたかどうじ)はちょっとイケメン。

矜羯羅童子(こんがらどうじ)はちょっと怖い。

更には脇には孝明天皇から「日本一の石工」と賞賛された丹波出身の「丹波佐吉」の作品の狛犬が

観音菩薩立像など、仏像ファンにはたまらない逸品が眠っています。

「面塚」 “#桃おやじ”の“#奈良盆地のへそ”散歩   其の4「川西町」-4

2019-05-22 16:54:58 | 歴史
川西町結崎「面塚」
「糸井神社」と寺川を挟んで対岸にあるのが「面塚」です。

室町時代のある日のこと、一天にわかにかき曇り、空中から異様な怪音とともに寺川のほとりに落下物があった。

この落下物は、一個の翁の面と一束の葱で、村人は能面をその場にねんごろに葬り、葱はその地に植えたところ見事に生育し、戦前までに『結崎ネブカ』として名物になりました。

その話の原点と言える場所がこの地。

元々散楽から猿楽として神社仏閣の奉納演舞であったものを芸術、芸能の域に高めたのが世阿弥とされます。

古くは、「猿楽の能」といわれ、南北朝時代、円満井(磯城郡田原本町西竹田付近が本拠・金春)、結崎(磯城郡川西町結崎・観世)、外山(桜井市外山・ 宝生)、坂戸(生駒市平群町・金剛)の「大和猿楽四座」が大和の有力社寺、とくに興福寺の庇護を受けて活動していました。

中でもここは「観世流、結崎座」発祥の地として特に散楽を能楽の地位にまで高めた観阿弥、世阿弥親子が活躍した所。