「多座弥志理都比古神社」 通称多神社
近鉄橿原線笠縫駅の南、新ノ口駅の北それぞれから約1㎞の中間あたり、寺川河畔に多神社の大きな鳥居が建っています。
鳥居からは暫く多の集落が続き、集落の端、鳥居と多神社の中程に通る太子道(筋交い道)で集落が終わり田園が広がります。
鳥居から真っ直ぐ西へ1k、集落を超えて飛鳥川の東河畔道を挟んで両側に多神社の社叢が広がります。
左(南側)に太安万侶を祀る小杜神社、右(北)が多神社の社叢に成ります。
道を北へ向くとすぐに二の鳥居、さらに奥に三の鳥居、
鳥居の向こうに境内が広がり、境内の右手に村屋神社同様の館型の灯篭、左に社務所の長い白壁の中を進むと拝殿に向かいます。
拝殿の後ろ、一段高くなった台地の上に東西に四殿配祀の形式をとり一間社、春日造の社が並ぶのが4神を祀る本殿です。
本殿は、江戸時代中頃の建築様式をよく残すもので、奈良県の指定文化財にもなっています。
現在、社殿は四坐有り、
祭神は 神武天皇・神八井耳命・神沼河耳命・姫御神そして小杜神社の・太安万侶
第一社 神倭磐余彦尊(神武天皇:神八井耳命の父)
第二社 神鉢井耳命(弥志理都比古命)
第三社 神沼河耳命(綏靖天皇:神八井耳命の弟)
第四社 姫御神(玉依媛命:神八井耳命の祖母)
と成って居ますが、以前は第一,四社は摂社だったようです。
当地は多氏の拠点であり、祖神として神八井耳命を祀ったものとみられ、
延喜式神名帳には「大和国十市郡 多坐弥志理都比古神社二座」と記されています。
元文2年(1737年)の『多大明神社記』では現在の四座になっていますが、明治時代の『神社明細帳』では本殿の第一社・第四社は摂社の扱いとなっていて、主祭神は神八井耳命・神泥川耳命の二座としています。
境内末社は
熊野神社(イザナギ・イザナミ尊)
住吉神社(住吉三神)
春日神社(春日4神)
石上神社(フツノミタマ命)
竈神社(オツクヒコ・オクツヒメ命)
八幡神社(ホムタワケ尊)
鳥居は昔は東西南北各1kの地点に4か所建っていたようですが、現存は笠縫駅近くの一か所のみ。
境外社は小杜神社の他、多神社の東約300m、多集落の西のはずれに「媛皇子命神社」
多神社の南 約100m、小杜神社から南西斜め向かいに「御子神命神社」
多神社の西 約100m、飛鳥川を挟んで「屋就命神社」
多神社のさらに西1.5kの地点に「子部神社」 が有ります。
四方に配置された鳥居、おそらくこちらも四方に配置されていたと思われる上記の若宮。
多神社を中心に、春と秋の彼岸には、三輪山から太陽が昇り、二上山へ沈む事から、「太陽の道」と呼ばれ
南の畝傍山と、北の平城京を結ぶ線南北線。
香久山と畝山から延びる一線上に位置し、更に
多神社縁起書に、「祭神神武天皇御子神八井耳命この地に降りて天神地祗を祀る」
中国古書に、「円丘に天神を祀り 方丘に地祗を祀る」と有り、
方位を配慮した太陽信仰の聖地であったのではないかと考えられます。
さらに加えて、この地は、弥生時代から中世に至る時期の大規模な遺跡で、多神社は遺跡の中心部に位置し、長軸350m、短軸300mと推測される環濠集落。
出土品の一部は多神社拝殿横の資料館にも展示されています。
多氏は最初の皇別氏族で有り有力部族。太、大、意富、飯富、於保 等とも表されます。
嫡子の神八井耳命は九州北部を、庶流長子の手研耳命は九州南部を賜与されたとされ、優秀支族に阿蘇、大分、筑紫、伊予 等多くの連や国造を排して居ます。
弥志理都比古(みしりつひこ=神八井耳命)を祀る神社ということで、神武天皇の長子でありながら「タギシミミノ命の変」で義兄のタギシミミノ命を討つのに躊躇し、末の弟である神沼河耳命が任を果たした、という意味で「ミシリツヒコ」と呼ばれるとの説が有ります。
しかし、当時は末子継承、権力を継承しながら入り婿に似た形態を取って居たことから、巫女とはすでに王位継承から外れていたものとみるのが良いかもしれません。
神八井耳命に「八井」から多くの井を司ると考え、祭祀者や水神的な性格を強調して「ミツシリツヒコ」という説の方が理解できます。
記紀神話には、「神八井耳命は皇位を弟に譲り、自らは神祇を祭る」とあり、それが当社の始まりである。
綏靖天皇2年(紀元前580年)、神八井耳命は春日県(後の十市県)に邸宅を造り、そこに神籬磐境を立てて自ら神祇を司り、春日県主の遠祖・大日諸神を祭祀者として奉祀せしめた。
崇神天皇7年(紀元前91年)、その神祠を改造し、天津日瓊玉命・天璽鏡劔神を祈賽したと伝える。
『正倉院文書』の天平2年(730年)大和国正税帳に「太神戸稲壱萬伍伯伍拾弐束伍把 租壱伯参拾捌束肆把 合壱萬陸伯玖拾束玖把」と記され、太(多)神社の神戸が有する稲は、田租用の138束4把と合わせて1万690束9把という、他社と比べて大きな経済力を持っていた。
『延喜式神名帳』では「大和国十市郡 多坐彌志理都比古神社二座」と記され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預ると記されている。永治元年(1141年)の『多神宮注進状草案』では神階正一位となっており、「正一位勲一等多大明神」の扁額が一ノ鳥居に掲げられている。
以上から見ても、全国的に屈指の支族であり、神社であった様子が伺えます。
神社によれば、
「当社は神武天皇の第二皇子神八井耳命(多族の祖神)この地に降って天神地祇を祀る・・とあり自ら祭祀者となって,弥生文化の発達とともに大和平野における大規模な稲作農法の開拓者である多族の祭祀(まつりごと)の中心地として,社名にも伺い知ることの出来る水知津彦火(日)知津姫の二柱の神を古くより祀り多族の祖神である神八井耳命また末孫の日本最古の史書古事記,日本書紀簒録者である太安萬侶卿を学業の守神とし,また小子部すがる命を保育の守神として広く崇啓され,ことに受験期には受験合格祈願の人々でたいへん賑わいます。
また最近 太安萬侶卿の御魂がかつて例をみない1255年ぶりの御出現に依ってその霊威と御名にあやかって(やすらかに,まろやかに)と・・安産祈願,家内安全,交通安全無病息災等諸願成就に近郷近在はもとより遠く各地より参拝の人々が後を断ちません。」とのことです
近鉄橿原線笠縫駅の南、新ノ口駅の北それぞれから約1㎞の中間あたり、寺川河畔に多神社の大きな鳥居が建っています。
鳥居からは暫く多の集落が続き、集落の端、鳥居と多神社の中程に通る太子道(筋交い道)で集落が終わり田園が広がります。
鳥居から真っ直ぐ西へ1k、集落を超えて飛鳥川の東河畔道を挟んで両側に多神社の社叢が広がります。
左(南側)に太安万侶を祀る小杜神社、右(北)が多神社の社叢に成ります。
道を北へ向くとすぐに二の鳥居、さらに奥に三の鳥居、
鳥居の向こうに境内が広がり、境内の右手に村屋神社同様の館型の灯篭、左に社務所の長い白壁の中を進むと拝殿に向かいます。
拝殿の後ろ、一段高くなった台地の上に東西に四殿配祀の形式をとり一間社、春日造の社が並ぶのが4神を祀る本殿です。
本殿は、江戸時代中頃の建築様式をよく残すもので、奈良県の指定文化財にもなっています。
現在、社殿は四坐有り、
祭神は 神武天皇・神八井耳命・神沼河耳命・姫御神そして小杜神社の・太安万侶
第一社 神倭磐余彦尊(神武天皇:神八井耳命の父)
第二社 神鉢井耳命(弥志理都比古命)
第三社 神沼河耳命(綏靖天皇:神八井耳命の弟)
第四社 姫御神(玉依媛命:神八井耳命の祖母)
と成って居ますが、以前は第一,四社は摂社だったようです。
当地は多氏の拠点であり、祖神として神八井耳命を祀ったものとみられ、
延喜式神名帳には「大和国十市郡 多坐弥志理都比古神社二座」と記されています。
元文2年(1737年)の『多大明神社記』では現在の四座になっていますが、明治時代の『神社明細帳』では本殿の第一社・第四社は摂社の扱いとなっていて、主祭神は神八井耳命・神泥川耳命の二座としています。
境内末社は
熊野神社(イザナギ・イザナミ尊)
住吉神社(住吉三神)
春日神社(春日4神)
石上神社(フツノミタマ命)
竈神社(オツクヒコ・オクツヒメ命)
八幡神社(ホムタワケ尊)
鳥居は昔は東西南北各1kの地点に4か所建っていたようですが、現存は笠縫駅近くの一か所のみ。
境外社は小杜神社の他、多神社の東約300m、多集落の西のはずれに「媛皇子命神社」
多神社の南 約100m、小杜神社から南西斜め向かいに「御子神命神社」
多神社の西 約100m、飛鳥川を挟んで「屋就命神社」
多神社のさらに西1.5kの地点に「子部神社」 が有ります。
四方に配置された鳥居、おそらくこちらも四方に配置されていたと思われる上記の若宮。
多神社を中心に、春と秋の彼岸には、三輪山から太陽が昇り、二上山へ沈む事から、「太陽の道」と呼ばれ
南の畝傍山と、北の平城京を結ぶ線南北線。
香久山と畝山から延びる一線上に位置し、更に
多神社縁起書に、「祭神神武天皇御子神八井耳命この地に降りて天神地祗を祀る」
中国古書に、「円丘に天神を祀り 方丘に地祗を祀る」と有り、
方位を配慮した太陽信仰の聖地であったのではないかと考えられます。
さらに加えて、この地は、弥生時代から中世に至る時期の大規模な遺跡で、多神社は遺跡の中心部に位置し、長軸350m、短軸300mと推測される環濠集落。
出土品の一部は多神社拝殿横の資料館にも展示されています。
多氏は最初の皇別氏族で有り有力部族。太、大、意富、飯富、於保 等とも表されます。
嫡子の神八井耳命は九州北部を、庶流長子の手研耳命は九州南部を賜与されたとされ、優秀支族に阿蘇、大分、筑紫、伊予 等多くの連や国造を排して居ます。
弥志理都比古(みしりつひこ=神八井耳命)を祀る神社ということで、神武天皇の長子でありながら「タギシミミノ命の変」で義兄のタギシミミノ命を討つのに躊躇し、末の弟である神沼河耳命が任を果たした、という意味で「ミシリツヒコ」と呼ばれるとの説が有ります。
しかし、当時は末子継承、権力を継承しながら入り婿に似た形態を取って居たことから、巫女とはすでに王位継承から外れていたものとみるのが良いかもしれません。
神八井耳命に「八井」から多くの井を司ると考え、祭祀者や水神的な性格を強調して「ミツシリツヒコ」という説の方が理解できます。
記紀神話には、「神八井耳命は皇位を弟に譲り、自らは神祇を祭る」とあり、それが当社の始まりである。
綏靖天皇2年(紀元前580年)、神八井耳命は春日県(後の十市県)に邸宅を造り、そこに神籬磐境を立てて自ら神祇を司り、春日県主の遠祖・大日諸神を祭祀者として奉祀せしめた。
崇神天皇7年(紀元前91年)、その神祠を改造し、天津日瓊玉命・天璽鏡劔神を祈賽したと伝える。
『正倉院文書』の天平2年(730年)大和国正税帳に「太神戸稲壱萬伍伯伍拾弐束伍把 租壱伯参拾捌束肆把 合壱萬陸伯玖拾束玖把」と記され、太(多)神社の神戸が有する稲は、田租用の138束4把と合わせて1万690束9把という、他社と比べて大きな経済力を持っていた。
『延喜式神名帳』では「大和国十市郡 多坐彌志理都比古神社二座」と記され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預ると記されている。永治元年(1141年)の『多神宮注進状草案』では神階正一位となっており、「正一位勲一等多大明神」の扁額が一ノ鳥居に掲げられている。
以上から見ても、全国的に屈指の支族であり、神社であった様子が伺えます。
神社によれば、
「当社は神武天皇の第二皇子神八井耳命(多族の祖神)この地に降って天神地祇を祀る・・とあり自ら祭祀者となって,弥生文化の発達とともに大和平野における大規模な稲作農法の開拓者である多族の祭祀(まつりごと)の中心地として,社名にも伺い知ることの出来る水知津彦火(日)知津姫の二柱の神を古くより祀り多族の祖神である神八井耳命また末孫の日本最古の史書古事記,日本書紀簒録者である太安萬侶卿を学業の守神とし,また小子部すがる命を保育の守神として広く崇啓され,ことに受験期には受験合格祈願の人々でたいへん賑わいます。
また最近 太安萬侶卿の御魂がかつて例をみない1255年ぶりの御出現に依ってその霊威と御名にあやかって(やすらかに,まろやかに)と・・安産祈願,家内安全,交通安全無病息災等諸願成就に近郷近在はもとより遠く各地より参拝の人々が後を断ちません。」とのことです