桃おやじの歴史散歩

我が町は 記紀に記載の七代孝霊天皇黒田廬戸宮の比定地。
古代史を中心に、奈良の観光や地域情報を気ままに書いています。

「金剛寺」 奈良県田原本町金剛寺

2017-08-30 21:21:16 | 地域
金剛寺

金剛寺は、平安、室町時代の国人、宗徒の中にその名前がみられる様に、金剛寺城と呼ばれる砦様式の環濠を有する可也の勢力をもった土豪の本拠地だったようです。

*「長川流鏑馬日記」 至徳元年(1384)条より
箸尾、金剛寺、伴堂、片岡、立野、桐谷、嶋、岡、北角、万歳、高田、中村、布施、拘志羅、楢原、脇田、吐田、糯田、室、稲屋戸、越智、五条野、子嶋、南郷、筒井、柄坂、細井戸、岸田、河合、櫟本、山田、福住、長谷川党、唐古、在原、大木、楊本、戒重、江堤、大西、大仏供、賀留、十市、味間、木原、松塚、土庫、吉備、池内、安部、放野、志賀、佐味、高瀬、迎田、小林、郡山、超昇寺、山陵、狭川、深川、平清水、長谷、椿尾、小蔵、助命、山中、丹生、柳生


古代の竪穴式住居の跡も確認される程歴史は古く、やまとの集落の多くは、農耕とともに軍事や祭事、物作りに携わり、皇族別や豪族の配下で徐々に力を付け、やがて土豪と成って、多くは藤原、興福寺を支える大勢力に成って行ったと考えられます、武士の始まりとも言えます。

別記の「松本」の南、同じ曽我川の河畔に位置し、環濠の後もはっきり確認出来ます。

神社の弥都波能売神(みずはのめのかみ)は代表的な水神、曽我川の河畔 に位置するこの地では、治水が最も重要な役目を負って居たのでしょう。

現在集落から外れた領地の東の橋飛鳥川沿いに焼却場と安らぎ公園などが建設されて居ます。

「松本」 奈良県田原本町松本

2017-08-30 20:04:56 | 地域
田原本町の一番西北の端、飛鳥川と曽我川との間、三宅町但馬と隣接して松本地区が有ります。

ここも勿論 中世の環濠集落です。

40戸程の小さな集落は、中世、箸尾氏の領地だったとされます。



飛鳥川と曽我川に挟まれたこの地域は飛鳥河畔に船着き場松本浜もあり、豊穣な穀倉地帯ですが水害も多く、松の木を植えて防いだ所から松本と付けられたそうです。

集落の南に面して、三宮神社、大慶寺、松本寺が並んで建って居ます。

昔、大洪水が有って、多の皇子神(三ノ宮)神社が流され、宮の森に流されたのをこの地に祀ったのが始まり。

又、大慶寺は一時途絶えたのを、1661年、比良比丘尼と言う女性が再興した物だそうです。

その隣に流れ地蔵で有名な松本寺があります

松本寺には、お寺の塀の前のお堂に曽我川が決壊した時に流れ着いたといわれるお地蔵さんが並んでいますが、実際には背中の舟形から、彼岸の渡しの謂れを持って三途の渡しから説話として生まれ出て来たようです。
七月、夏休みを控えた一六日は「ゴウシンサン(太神宮)」、23.24日はお地蔵さんの日です。

松本の松本寺の前に、浮き彫りの石地蔵が祠られています。背丈は138cmで鎌倉時代の作といわれています。

このお地蔵さんは、松本の西側を流れる曽我川を流れて来た地蔵さんと伝えられ、「松本の流れ地蔵」と呼ばれて信仰を集めています。

仏教では、私たちがいま住んでいるところ(現世(げんせ))を「此岸(しがん)」といい、人が死んでから行くところ(後世(こうせ))を「彼岸(ひがん)」といいますが、松本の地蔵さんは、人間が死ぬと川向こうの岸へ、すなわち此岸から彼岸へ、その人を乗せて渡してくれる仏といわれています。こうした仏教の教えから、流れ地蔵の話が生まれたものと思われます。背中にある舟形光背(ふながたこうはい)も、こうした話の生まれる理由にもなったのでしょう。

昭和六十年八月に、新しく地蔵堂が立て替えられて、今は他の石仏とともに祀られています。

松本の地蔵盆は毎年八月二十四日に行われます。各家からお米を集めて粉にし、それをダンゴにして供えます。中米(ちゅうまい)や小米(こごめ)の多かった昔は、これらを唐白(からす)をふんで粉にしダンゴをつくりました。夏はモチに比べて日もちがよいこともあって、今も受け継がれています。

松本では隣組を「地蔵組」と呼び、一組二十軒で組織されていて、地蔵を中心とした村の仕組みをみても、流れ地蔵によせる村人の心がうかがえます。 地蔵はインドでは神であり、中国ではこの世と冥界(めいかい)の間の無仏の世界で、衆生(しゅじょう)を救う仏であり、我が国に伝わると、地獄から衆生を救う仏となり、これが民間が流布(いふ)すると、この世の利益を授け、悩みを救う存在にまで変化しました。たとえば、安産や育児に関する子安地蔵・身代わり地蔵・水子地蔵・子守地蔵のほか、ホウソウ地蔵、延命地蔵、笠地蔵などきりがありません。八尾では雨地蔵といい、雨ごいの仏にもなっています。

町内の地蔵盆はほとんどが七月ですが、松本のように八月に行うところも一部にあります。

またこのころは「ナス観音ウリ地蔵」といって、昔は花が咲いてから採りごろ(ナスは十七・八日ごろ、ウリは二十三・四日ごろ)の目安にしていました。

「西竹田」田原本と能 奈良県田原本町西竹田

2017-08-29 09:51:52 | 地域

「能楽、金春流発祥地「西竹田」―平野」 

西竹田と言われますが、元は只の「竹田」でした。
現橿原市の東北端にもう一つの竹田が有り(元は田原本町、市町村合併で篇出)、混同するので、田原本の方を西竹田、橿原市の方を東竹田と称する様に成ったそうです。

この地域は、能楽金春流「竹田座、円満井座」の発祥地として能楽ファンの方には欠かせられない地でも有ります。


以下ににちょっと書きますと、
日本が世界に誇る伝統芸能、能。
能は室町時代、観阿弥、世阿弥父子によって大成された。 その能のふるさとが奈良。
古くは、「猿楽の能」といわれ、南北朝時代、円満井(磯城郡田原本町西竹田付近が本拠・金春)、結崎(磯城郡川西町結崎・観世)、外山(桜井市外山・ 宝生)、坂戸(生駒市平群町・金剛)の「大和猿楽四座」が大和の有力社寺、とくに興福寺の庇護を受けて活動していた。興福寺は当時、大和守護職として大和一国を支配。強大な勢力を誇り、その興福寺の法会に四座が参勤し芸を競った。
※「金春流」は大和猿楽四座の一つで、古くは円満井座・竹田座といいました。
鎌倉時代から興福寺春日社に奉仕しており、金春と称したのは南北朝時代の金春権守あたりからと伝えられています。
十六は能面の一つで、少年の面として使用され、能楽「敦盛」「経政」「朝長」などに用いられます。
田原本町には能に関する土地が他にもあります(各地でその都度紹介します)。

味間の補巖寺は世阿弥夫婦の関係するお寺であることは古くから知られているところです。
また法貴寺の舞庄(まいのしょう)の発掘調査では、室町時代の翁面(おきなめん)(父尉(ちちのじょう))が出土しました。この面は能面の中でも最も神聖視され、神能「翁」を演じるときに用いられるものです。
出土地である舞庄は、おそらく能に関係のある人々が住んでいた所でしょう。
今は竹田館が何処に有ったか定かでは有りませんが、大きな農家屋敷が塀を連ね迷路の様に成って居ます。

集落の東の入り口に、立派な地蔵舘がポツンと建ち、その豪華さを誇ります。

この地域に多く有る春日神社、八坂神社、菅原神社は、興福寺、藤原の荘園だった事を表しています。

盆地の集落の殆どが環濠を有し、興福寺の宗徒や国人として活躍しており、免租や労役免除などの優遇を受け、可也豊かに暮らしていたことを物語って居ます。

この西竹田の東に平野地区が有ります。
元平野村の中心地ですが、元々は、この西竹田から分かれた、竹田南方と言われた地域。
元々竹田の領分で有った所に、享保年間に大網から分住したのが始まりと伝えられます。

「十六面(じゅうろくせん)」 奈良県田原本町十六面

2017-08-28 17:39:17 | 地域
「十六面(じゅうろくせん)」 

十六面は富本や黒田の南、西竹田の東に当り、田原本に隣接した薬王寺、三笠の西に位置します。

言い伝えでは、昔、西竹田に猿楽師(さるがくし)が住んでいました。姓を金春(こんぱる)といいました。
ある日天から十六(じゅうろく)という面(おもて)が落ちて来ました(一説には十六枚の面ともいわれています) 。
そこで面の落ちた所を十六面(じゅうろくせん)というようになったそうです。
十六という面は、若い美しい公達(きんだち)をあらわし、平敦盛(たいらのあつもり)(1169~1184)が十六歳で戦死したことから名付けられています。

この十六という面をつけると気が狂ったようになるので、金春の息子は能楽師として家を継ぐことをあきらめて、この面を御神体として祀ったのが十六面の一杵島(いっきしま)神社だといわれています。
面づくりは大綱と富本(とんもと)に住んでいたそうです。

十六面はもと富本と一つであったのが、寛永(1624~1643)のころに分立したと伝えられ、それで富本の伏せ字から十六面をトムオモテと呼ぶようになったとも言われています。また西竹田には、今も金春屋敷といわれるところがあります。(『平野村史』から)

※「金春流」は大和猿楽四座の一つで、古くは円満井座・竹田座といいました。
鎌倉時代から興福寺春日社に奉仕しており、金春と称したのは南北朝時代の金春権守あたりからと伝えられています。
十六は能面の一つで、少年の面として使用され、能楽「敦盛」「経政」「朝長」などに用いられます。
田原本町には能に関する土地が他にもあります。味間の補巖寺は世阿弥夫婦の関係するお寺であることは古くから知られているところです。
また法貴寺の舞庄(まいのしょう)の発掘調査では、室町時代の翁面(おきなめん)(父尉(ちちのじょう))が出土しました。

この面は能面の中でも最も神聖視され、神能「翁」を演じるときに用いられるものです。出土地である舞庄は、おそらく能に関係のある人々が住んでいた所でしょう。
このように田原本町は、能に関係する大和の一中心地でもあったのです。
文章が長いのですが、田原本が能の発祥に深くかかわっていた事は史実の様です。
しかし、残念ながらこのロマン有る伝承は後付けの様です。
本来この地は「富本」の飛び地だったとの事。

十三下(トミモト)→トンモト→トムモテ(十六面)→ジュウロクメン→ジュウロクセンと成ったのが史実の様です。
ロマンには欠けますが、これだけ変わると返って歴史の大きな流れの様な物を感じさせてくれます。
集落のほぼ中央に市杵島媛神社が有ります。

ここで三百年以上続く「振り上げ神事」は地域の伝統行事であり埃でも有る様です。


その前に建つ、教専寺は、小さなお寺ですが、木造建築の粋を集めた、近隣に類を見ない寺院だと称されるほど立派な作りを持って居ます。

「薬王寺(やっこうじ)」 奈良県田原本町薬王寺

2017-08-28 16:52:26 | 地域
「薬王寺(やっこうじ)」
 
田原本旧町のすぐ東側に薬王寺と言う少し大きな集落が有ります。

集落の中程に領主の平野氏が陣屋建造中に仮住まいをした庄屋屋敷が継承されて居ます。

又、集落の中央を通っていたであろう太子道(筋交い道)の名残りがほんの少しだけ残って居ます。

この地は、天武天皇の時代に創建された七堂伽藍を有する大寺、薬王寺が有った所とされます。

黄檗宗(おうぼくしゅう)瑠璃光山(るりこうざん)王寺の名が残って居ますが、本尊が薬師如来であったので、寺名を薬王寺といったそうです。江戸時代中期には廃寺で有った物を領主の平野氏が再建するも、明治の神仏希釈で明治四年に廃寺(はいじ)となるが、その後再興されるも、昭和二十年ごろ再び廃寺となる。
現在数基の石塔が残る。

集落の西の端近くに有る蓮休寺は、むかし、蓮如上人が大和へこられ、吉野郡飯具の本善寺へ通行の際にここの道場に立ち寄られ、自書の一軸をのこされた事から連休時と名付けられたとか。
薬王寺の後を継いだとも言われて居ます。

連休寺の前に有る八幡神社には、樹齢五百年を超す大楠木が一本でまるで森の様に拝殿を覆い尽くす様にそびえ立って居て、県の天然記念物にも指定されて居ます。