桃おやじの歴史散歩

我が町は 記紀に記載の七代孝霊天皇黒田廬戸宮の比定地。
古代史を中心に、奈良の観光や地域情報を気ままに書いています。

田原本ものがたり 「能と田原本」Vol.3

2020-09-14 18:29:07 | 歴史

田原本町には、能楽に関係する伝承や地名がたくさん残っています。
先に書いた「秦楽寺」は秦氏の楽人の里、太子道(筋交い道)に面し要人の供応に用いられたようです。
創建は大化3年(647年)とされ、孫の代にあたるようです。

川勝の系譜には、宋(秦)氏“金春禅竹”の名も見られ、秦川勝あるいは孫の代から数えて30代目と言うのも頷けます。
一方、楽人とは別に秦川勝が武人集団を置いたのが田原本町の「法貴寺」。

法貴寺(ほうけいじ)は、古代の室原郷(初瀬川中流域、蔵堂~法貴寺周辺)に在った集落に、聖徳太子が推古天皇より賜った仏像を安置する為にこの地に法貴寺(法起寺)を建立、秦河勝に賜った事に始まります。

現存する千万院は、法起寺の塔頭の子院の薬師堂で、あと山門と鐘楼だけが、池神社に隣接して残ります。
法貴寺は、七堂伽藍、実相院、千万院他、一八坊が確認されて居ますので、少なくても二十坊以上であったと考えられます。
この武人集団がのちの長谷川党となり室町時代末期、大和4氏(筒井、越智、箸尾、十市)の中の十市氏となります。
法貴寺氏や十市氏たちが春日大社の国人として流鏑馬などの神事を担ったのが前年盛大に行われた「田原本の流鏑馬」の起源に成ります。

田原本町の南東地域に村屋神社がありますが、その近く大字大木に「フエフキ」の地名が残り、奈良時代にはすでに散楽戸があったとされます。
平安時代にはこの杜屋(守屋、村屋)の地に舞楽、散楽の選りすぐりの楽人が暮らす「楽人郷」が住んだと「延喜式」に記載されています。
さらに近くには「ヒョウシダ」や「タイコウジ」「舞の庄」なども残ります。

村屋神社と大木の間に「岐多志太神社」があり祭神の天香山命は石凝姥命と同一とされ、天児屋根命とともに鏡作坐天照御魂神社と同様の祭神を祀っているとされます。
「岐多志太」の社号は「キタ氏の田」という意味であり、キタ(鉄)を鍛える鉄工の神であるという。

そして、この地域を根拠地とした物部大木連の一族に、鏡作連の祖である鍛冶師連(きたしのむらじ)があり、この鍛冶師連が奉斎した神社が当社とされますが、楽人の郷と重なる所も面白いですね。
しかし、室町時代まで隆盛を誇ったこの地ですが...
1500年代の末戦国時代に入って、壊滅的な打撃を受け、戦火と洪水でその多くをなくしてしまいました。
江戸時代には多くを再興したのですが、維新の廃仏毀釈が決定的なダメージに成り、農業地域としての再興とも相まって、芸能関係のほとんどが失われ、わずか村屋神社の太太神楽にその面影を残すのみといわれています。


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