桃おやじの歴史散歩

我が町は 記紀に記載の七代孝霊天皇黒田廬戸宮の比定地。
古代史を中心に、奈良の観光や地域情報を気ままに書いています。

#桃おやじの歴史散歩 #孝霊天皇 と その一族-10-

2018-05-30 10:02:14 | 歴史
ヤマトと吉備

岡山県総社市近辺や、香川県には自称孝霊天皇の子孫、桃太郎の子孫と言われる方が多くおられ、河野水軍、村上水軍は孝霊天皇の流れとする「吉備氏」とその兄弟氏族説が根強く残っています。

新撰姓氏禄では越智氏は7代孝霊天皇を元祖とする「皇別氏族」に分類されています。
ただ、旧事本紀には「饒速日」を元祖とする物部氏が越智氏の元祖であるという説も併存しています。

越智は元々、国造家に端を発し四国の伊予国越智郡に勢力の中心をもっていた氏族である。奈良時代以降 越智郡の郡司としてこの地方に勢力をはっていた大三島大山祇神社を奉祭してきた氏族。

越智氏からは、村上、三島、越智、土居、河野 等の支族に分かれて行きます。
以上から、孝霊天皇は譲位後伊予、或いは吉備下ッ道(稚建吉備津彦の近く)に移り院政を敷いたとの説が浮かんできます。

さて話は本題に戻りますが、ヤマトに戻った孝霊天皇は大乱で活躍し、強力な軍事力を持つ「弟稚建吉備津彦命」を大和に呼び戻し、軍政両面で百襲媛を支えたようです。

*新世紀頃三つ在った唐子.鍵の集落が大きな一つの集落に成っていますが、年代計算から大物主が大和に入った時期と一致します。
また、2世紀終盤から3世紀初頭に更に大きく拡張されていて、これも倭迹々日百襲媛がヤマトに戻って媛巫女に成った時期と一致します。

三世紀中期前葉から中葉にかけて巻向に大規模な神殿が築かれ、晩年の卑弥呼はこの地に移った模様ですが、二世紀後期から三世紀前期まで唐古鍵が政治経済の中心を担ったと考えるのが合理的だと言う事に成りますね。
崇神.垂仁天皇に至るまでの.大和王権を支えたのが第二王国とも目される吉備氏の勢力では無かったでしょうか。

#桃おやじの歴史散歩 #孝霊天皇 と その一族-9

2018-05-29 17:30:47 | 歴史
「大乱以降」

*出雲から瀬戸内にかけて、考霊天皇とその一族に関わる記録はこの地方のいたるところに伝承として、また古事記のできる以前に建てられた神社の伝記伝承からもその進軍経路まで数え切れないほど残っている。なぜ紀,記共にこれらの史実を消さねばならなかったのだろう?

出雲との戦の終結により、主要国を傘下におさめたものの、全ての独立国が軍門に下ったわけではなかった、西には熊襲、隼人を始とする国々、東には蝦夷を始とする未加入国、更に鬼(賊)の残党や新たな賊、問題は山積されていた。

孝霊天皇は瀬戸内を自ら支配するために「稚武彦(稚建吉備津彦)弟稚武彦(弟稚建吉備津彦)」兄弟のうち、兄の稚武彦を吉備下ッ道(吉備下ッ道の臣、吉備氏の祖)に、主だった要所に「犬養部、鳥飼部」等の配下を残し武勇の誉れ高い「弟稚武彦」を伴って黒田廬戸宮(田原本町黒田)に帰還した。
西暦185年、三歳半ばの百襲媛を送り出してから有に15年の歳月が過ぎ百襲媛は18歳位に達していた。

孝霊天皇はヤマトに戻った後 倭国香媛、絙某弟を妃として迎えます。
皇子を失った孝霊天皇にはどうしても皇子が欲しかったのでしょう。

結果、記紀では倭国香媛には倭迹迹日百襲姫命(年代から実質細媛の子)、日子刺肩別命(実在不明)、彦五十狭芹彦命(大吉備津彦尊)、倭迹迹稚屋姫命、
絙某弟(はえいろど)には彦狭島命、稚武彦命(弟吉備津彦尊)が誕生。

只おかしな事に記紀以外に讃岐や吉備、伯耆、出雲、丹波、但馬などの伝記伝承いずれにも孝元天皇に当たる名前が一切出てこない事です。

詳しく調べられた方の記録では、孝霊天皇と孝元天皇は同世代。
神武天皇の長男カムヤイミミのひ孫に当たる(現多氏の系統)とする説、
九州系の神武天皇と、阿比良比売の子「岐須美見尊(多岐氏美見尊の弟)」の孫説。
孝霊天皇自身が百襲媛をサポートするために一旦皇位を退き別の名前で皇位に就いたとする説なども有ります。
有力な説として、日向系の岐須美見尊(キスミミ)の孫説が浮かんでいます。

#桃おやじの歴史散歩 #孝霊天皇 と その一族 8

2018-05-21 18:02:01 | 歴史
和議の成立とヤマト王国「媛巫女(卑弥呼)」の誕生

出雲の降伏の条件はただ一つ、現ヤマト王権の下では無く新しい大王を共立する事だったようです。

そこで選ばれたのがヤマトの王の娘であり、倭国(出雲)にも人望の高い「倭迹々日百襲媛」を大大王に立てること。

出雲の神祖「スサノオ」の祭祀は近畿以西はもちろん、ヤマトの祖神「ニギハヤヒ」の祭祀と共に、サルタヒコによって東北まで広がっている。
そこで須佐乃男と饒速日命の祭祀を共有することで共存を計ることで一致した。

国名は「日ノ本」に統一。
ただ、外交的には従来の慣例から「倭」の文字が必要であった。
そこで対外的に「倭(和)」「大倭(大和)」と表記してヤマトと呼ぶことになる。

しかし百襲媛はヤマトでは未だ単なる皇女、一媛巫女に過ぎない。
そのまま女帝として君臨するにはネームバリューが不足している。

そこで孝霊天皇は百襲媛を大物主ゆかりの唐子.鍵の地に住まわせ、大物主の妻とした後、大物主の後継者「天照大神」の称号をもって大大王と同格に祀り上げた、
媛巫女(卑弥呼)の誕生だ。

以前書いたように、後の天照大神は彼女に同じ女帝の日向アマテラス(ムカツ媛)を重ねたものと考えられる。

#桃おやじの歴史散歩 #孝霊天皇 と その一族 7

2018-05-13 21:27:26 | 歴史
倭の大乱 
 1. 孝霊天皇の足跡。

No.7 黄泉平坂の戦い

黄泉平坂に賊を追い詰めたはずの行軍に思わぬ落とし穴が...。

迫るヤマトの大群に恐れをなした出雲が、国家滅亡の危機感を募らせた。
出雲は本格的にヤマトとの交戦を決意、軍勢を順次 黄泉平坂に送り賊に加担し始めたのです。

賊の掃討から一変して戦況は大和、出雲の戦争へと様変わりし始め一進一退を繰り返し沢山の人命を失う結果に。

武力で勝るといえども次々と新手を送り込んでくる出雲軍に対し、兵の補給の無い皇軍は日に日に弱体化し窮地に立たされます。

そうこうしている時、ようやく瀬戸内、吉備の賊を平定し、後方の憂いを絶った稚武彦軍が合流。
戦闘は一気に皇軍側に傾き既に援軍も底をついた出雲軍も必死の抵抗するが、いよいよヤマト―出雲対戦も最終段階に達してきます。
しかし、長引く激戦は双方に大きな犠牲を強い、これ以上の戦闘は双方にとって致命的な後遺症を残しかねません。

そんな時、讃岐から知恵者の「倭迹々日百襲媛」が戦場へやってきて和解を提案します。
後が無くなった出雲と、もうこれ以上長引かせられないヤマト。
出雲は神祖スサノオの作った国、スサノオの祭祀は近畿以西はもちろん、ニギハヤヒ祭祀と共に、サルタヒコによって東北まで広がっている世情、ヤマトとしては只恭順してくれれば良いだけのこと。
加えて、これ以上長引けば日向や他の国が離反しかねないし熊襲や蝦夷などの問題も山積している。まさに、この提案は双方にとって渡りに船でした。

#桃おやじの歴史散歩 #孝霊天皇 と その一族 6

2018-05-07 19:38:44 | 歴史

倭の大乱 
 1. 孝霊天皇の足跡。

No.6 伯耆から吉備へ、再び出雲を目指す。

鬼住山で何とか勝利したものの多くの部下、多くの身内を無くした孝霊天皇は、瀬戸内へ派遣した稚武彦軍と合流すべく再び日の川を南下、
鬼住山の宮原楽々福神社の地から日野町上菅にあるの菅福神社へ戻り鬼林山近くの宮内楽々福神社の地まで後退。〈この地で孝霊天皇が崩御した伝記も有りますが、亡くなったのは孝霊天皇の身内、細媛等と考えられます〉

暫くはこの地で陣容を立て直しながら稚武彦軍の到着を待つが稚武彦軍はあと少しの所でてこずりまだ完全には掌握しきれていない。

しかし吉備と出雲の国境付近で賊の残党が終結を始め、巨大な勢力に成って暴れ始めてしまいます。

ヤマトを出てからすでに10年余りの歳月を費やしてしまった。

これ以上ヤマトを留守にするわけにはいかない、まして賊たちが日に日に勢力を拡大、住民から救済の要請が高まる中、孝霊天皇は稚武彦軍に督促をして到着を待たずに出陣を決意した。

万全とは行かない備えのまま皇軍は出雲へ向けて高梁川沿いに北上。

賊を追い詰めながら、吉備と出雲の国境の山々を縫いながら高梨川(斐伊川水系)沿いに松江の向けて下って行きます。

更に数年をかけてようやく日本海側に到達した皇軍でしたが、出雲を目の前にした黄泉平坂の地で強固な抵抗に会います(当時松江市近郊は海の中だったと考えられます)。