「浄照寺」「本誓寺」
田原本の街のほぼ中央。
近鉄田原本駅を東へ、えびす通りからくるっと廻った所に大きなお寺が2つ並んでいる。
江戸時代初代領主平野権兵衛長泰(賤ヶ岳の七本槍といわれた剛勇の武将)がこの地を領土として5千石を賜り、その依頼を受けてこの地に門前町を作ったのが教行寺。
「しかし2代目長勝との葛藤で箸尾に移り(箸尾御坊)その跡地に、田原本地域を治め始めた2代田原本領主・平野長勝が跡地を二分して建立したのが浄土真宗本願寺派(西本願寺)松慶山「浄照寺」と、浄土宗慈航山本覚院「本誓寺」だ。
「浄照寺」
本尊、造阿弥陀如来立像(江戸時代前期)、寺宝として親鸞上人画像一幅等。
主な建造物には、本堂・庫裏・鐘楼・太鼓楼・表門があり、表門は、伏見桃山城の城門を移築したものと伝えられる。
浄照寺の本堂は、慶安4年に建立された、入母屋造本瓦葺。
本堂には、組物、欄間、蟇股等に優れた彫刻技法が残り、県下における大規模な真宗寺院本堂の典型として価値が高い。
当時には明治天皇投宿の座敷が有り、座敷からは枯山水の綺麗な庭園が楽しめる。
又、お寺の檀家主催の浄照寺寄席や、近年、地域の活性にと当時の門前市を再現し、「十六市」として十月の十六日に近い日曜日に、門前から津島神社の境内に掛けてイベントや出店、フリーマーケットなどが執り行われて居ます。
本誓寺
草創は鎌倉後期で、はじめ本覚寺といったが、平野氏によって復興されたのを機に本誓寺と改めたとされる。
明治に成る直前に石高1万500石で大名に列し、最後の最後に格式を保ったそうです。
創建以後、何度も火災にあい、特に1888年にはすべての堂宇が火事で焼けてしまったが、復興なって、1999年に現在の耐火建築の本堂が落成、現在の本堂は昭和58年に再建(鉄筋コンクリート造り)となった。
本尊は阿弥陀三尊像。中尊は快慶様を受け継ぐすぐれたできばえで、鎌倉時代後期のものと推定され、前身の本覚寺時代からの像である可能性がある。
更に、このお寺でもっとも古い仏像、十一面観音像は、本堂の下の階の広間に安置されているが、平安中期ごろの作で、もと楽田寺に有ったと伝えられています。
樂田寺もこの地の古刹で、幾度か宗旨を変えその都度本尊を変えた際に本誓寺が預かった物との事です。
十一面観音立像は、クスノキの一木造で、内ぐりを施す。
面部には一部乾漆を用いて整えられているという。
後補部分が多く、両手、足先、頭上面、垂下する天衣(てんね)などの特徴を持ち良く整った小顔、仏像ファンには堪らない逸品。
境内の墓地の東の壁際(門際)に平野家二代・九代領主の霊廟「広徳院廟」・「本覚院廟」が並んで建てられている。
屋根で覆われた霊廟は奈良県には三棟しか無く、その一つは平端駅近くの筒井順慶の霊廟。
後の二つがこの本誓寺の霊廟に成ります。
お寺には、往時住職が使ったとされる籠も残されており、中々大名にも成らなかった平野家の菩提寺では有りますが、この地域がいかに富をもたらし、格式を保ったかが偲ばれます。
田原本の街のほぼ中央。
近鉄田原本駅を東へ、えびす通りからくるっと廻った所に大きなお寺が2つ並んでいる。
江戸時代初代領主平野権兵衛長泰(賤ヶ岳の七本槍といわれた剛勇の武将)がこの地を領土として5千石を賜り、その依頼を受けてこの地に門前町を作ったのが教行寺。
「しかし2代目長勝との葛藤で箸尾に移り(箸尾御坊)その跡地に、田原本地域を治め始めた2代田原本領主・平野長勝が跡地を二分して建立したのが浄土真宗本願寺派(西本願寺)松慶山「浄照寺」と、浄土宗慈航山本覚院「本誓寺」だ。
「浄照寺」
本尊、造阿弥陀如来立像(江戸時代前期)、寺宝として親鸞上人画像一幅等。
主な建造物には、本堂・庫裏・鐘楼・太鼓楼・表門があり、表門は、伏見桃山城の城門を移築したものと伝えられる。
浄照寺の本堂は、慶安4年に建立された、入母屋造本瓦葺。
本堂には、組物、欄間、蟇股等に優れた彫刻技法が残り、県下における大規模な真宗寺院本堂の典型として価値が高い。
当時には明治天皇投宿の座敷が有り、座敷からは枯山水の綺麗な庭園が楽しめる。
又、お寺の檀家主催の浄照寺寄席や、近年、地域の活性にと当時の門前市を再現し、「十六市」として十月の十六日に近い日曜日に、門前から津島神社の境内に掛けてイベントや出店、フリーマーケットなどが執り行われて居ます。
本誓寺
草創は鎌倉後期で、はじめ本覚寺といったが、平野氏によって復興されたのを機に本誓寺と改めたとされる。
明治に成る直前に石高1万500石で大名に列し、最後の最後に格式を保ったそうです。
創建以後、何度も火災にあい、特に1888年にはすべての堂宇が火事で焼けてしまったが、復興なって、1999年に現在の耐火建築の本堂が落成、現在の本堂は昭和58年に再建(鉄筋コンクリート造り)となった。
本尊は阿弥陀三尊像。中尊は快慶様を受け継ぐすぐれたできばえで、鎌倉時代後期のものと推定され、前身の本覚寺時代からの像である可能性がある。
更に、このお寺でもっとも古い仏像、十一面観音像は、本堂の下の階の広間に安置されているが、平安中期ごろの作で、もと楽田寺に有ったと伝えられています。
樂田寺もこの地の古刹で、幾度か宗旨を変えその都度本尊を変えた際に本誓寺が預かった物との事です。
十一面観音立像は、クスノキの一木造で、内ぐりを施す。
面部には一部乾漆を用いて整えられているという。
後補部分が多く、両手、足先、頭上面、垂下する天衣(てんね)などの特徴を持ち良く整った小顔、仏像ファンには堪らない逸品。
境内の墓地の東の壁際(門際)に平野家二代・九代領主の霊廟「広徳院廟」・「本覚院廟」が並んで建てられている。
屋根で覆われた霊廟は奈良県には三棟しか無く、その一つは平端駅近くの筒井順慶の霊廟。
後の二つがこの本誓寺の霊廟に成ります。
お寺には、往時住職が使ったとされる籠も残されており、中々大名にも成らなかった平野家の菩提寺では有りますが、この地域がいかに富をもたらし、格式を保ったかが偲ばれます。
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