宮古 鏡作伊多神社 式内社 田原本町大字宮古字補屋60
保津鏡作伊多神社の北200m、宮古の集落の南端、宮古池の畔に社叢を広げ、社殿は西向き、鳥居のある境内入り口は北向きに成って居ます。
式内社・鏡作伊多神社の論社の一つで、古来、穂屋明神と称されていたそうです。
横の大きな溜池の地番に「伊多の坪」という小字が有り、式内社の鏡作伊多神社となったようだ(溜池拡張のため、神社の境内が異動)。
保津か、宮古か、あるいは両方かとの論議が有ったようですが結論は出ていません(両方の可能性が高い)。
しかし、保津の東に伊多敷の地名、宮古の神社の横に伊多の坪の地名が有り、鏡作坐天照御魂神社の他に鏡作三社の意味が、鏡作坐天照御魂神社を含むか含まないかでも変わって来ます。
さらに、両鏡作伊多神社が在ったと思われる「伊多敷」と「伊多の坪」は、同じ「保津宮古遺跡」の中で「遺構の東端と西端」に位置し、同じ環濠集落の中で分業していたとも考えられます。
付け加えるなら、当社の東、池の反対側に「都の杜」という地名が残り、保津宮古遺跡の中央部に当たります。
宮古鏡作伊多神社を取り巻くように巡る道路の北側に神社への入り口が有ります。
南を向いて、鳥居を潜ると、少し広い境内の向こうに拝殿と本殿が綺麗に並んで見えます。
本殿は少し高く盛り上げた高みに建っています。祭神は石凝姥ノ命。
この地より北1.3kの所に「孝霊天皇黒田廬戸宮」比定地が有ることも付け加えておきます。
追記.石見鏡作神社
三宅町石見にも鏡作神社が有ります。
祭神は石凝姥命、天照皇大神、 天児屋根命と思われますが詳細は不詳。
石見の集落は城郭作りの環濠、「石見環濠集落」として案内されています。
集落の北の端、環濠集落でいえば北東の角に位置する場所に白髭神社と並んで石見鏡作神社が有ります。
白髭神社の横の参道が石見鏡作神社の入り口です。
参道の少し奥まったところに石の鳥居が有り、正面に拝殿その奥に三つ並んだ本殿が有ります。
入口で、可成り年季の入った角の有るユニークな狛犬が出迎えてくれますが、おそらく塑像でしょう、風雪で崩れかけていました。
この石見鏡作神社を、全鏡作り神社の原型とする方もおられましたが、年代に大きな差が生まれてしまいます。
この地より南、岩見遺跡の発掘調査による以降は5世紀末から6世紀初め。
この一帯が湿地帯からようやく顔を出したのが5世紀の終わり位からと考えられます。
一方主祭神の石凝姥命は天孫降臨、天の岩戸に出てくる神様で、鏡作部の祖とされ、鉄工、鏡作りは1世紀頃から遅くとも3世紀半ばには行われ銅鐸の鋳型の発掘が有った唐子鍵遺跡は前4世紀から3世紀半ば。
保津宮古遺跡は古墳時代初頭(3世紀後半=4世紀前半)。
薬王寺、十六面遺跡も3-4世紀~。
一方で石見を始め三宅町一帯が開発されたのは5世紀終わり頃からと考えられ、この一帯には、石見をはじめ、但馬、三河の地名が今も残ることから、
崇仁天皇以降、湿地帯から顔を出したこの一帯の開発の為各地から人足が移住させられたと考えられます。
但馬守りが後の三宅連の祖とされます。
奥に並んだ社殿ですが、元は茅葺の八尾鏡作神社同様の三社一棟の作りでしたが、老朽の為、一棟づつに建て替えられてしまいました。
主祭神は石凝姥命とされますが、他の2神ははっきりとは記されておらず、他の鏡作や記録から天照皇大神、 天児屋根命であろうと考えられます。
保津鏡作伊多神社の北200m、宮古の集落の南端、宮古池の畔に社叢を広げ、社殿は西向き、鳥居のある境内入り口は北向きに成って居ます。
式内社・鏡作伊多神社の論社の一つで、古来、穂屋明神と称されていたそうです。
横の大きな溜池の地番に「伊多の坪」という小字が有り、式内社の鏡作伊多神社となったようだ(溜池拡張のため、神社の境内が異動)。
保津か、宮古か、あるいは両方かとの論議が有ったようですが結論は出ていません(両方の可能性が高い)。
しかし、保津の東に伊多敷の地名、宮古の神社の横に伊多の坪の地名が有り、鏡作坐天照御魂神社の他に鏡作三社の意味が、鏡作坐天照御魂神社を含むか含まないかでも変わって来ます。
さらに、両鏡作伊多神社が在ったと思われる「伊多敷」と「伊多の坪」は、同じ「保津宮古遺跡」の中で「遺構の東端と西端」に位置し、同じ環濠集落の中で分業していたとも考えられます。
付け加えるなら、当社の東、池の反対側に「都の杜」という地名が残り、保津宮古遺跡の中央部に当たります。
宮古鏡作伊多神社を取り巻くように巡る道路の北側に神社への入り口が有ります。
南を向いて、鳥居を潜ると、少し広い境内の向こうに拝殿と本殿が綺麗に並んで見えます。
本殿は少し高く盛り上げた高みに建っています。祭神は石凝姥ノ命。
この地より北1.3kの所に「孝霊天皇黒田廬戸宮」比定地が有ることも付け加えておきます。
追記.石見鏡作神社
三宅町石見にも鏡作神社が有ります。
祭神は石凝姥命、天照皇大神、 天児屋根命と思われますが詳細は不詳。
石見の集落は城郭作りの環濠、「石見環濠集落」として案内されています。
集落の北の端、環濠集落でいえば北東の角に位置する場所に白髭神社と並んで石見鏡作神社が有ります。
白髭神社の横の参道が石見鏡作神社の入り口です。
参道の少し奥まったところに石の鳥居が有り、正面に拝殿その奥に三つ並んだ本殿が有ります。
入口で、可成り年季の入った角の有るユニークな狛犬が出迎えてくれますが、おそらく塑像でしょう、風雪で崩れかけていました。
この石見鏡作神社を、全鏡作り神社の原型とする方もおられましたが、年代に大きな差が生まれてしまいます。
この地より南、岩見遺跡の発掘調査による以降は5世紀末から6世紀初め。
この一帯が湿地帯からようやく顔を出したのが5世紀の終わり位からと考えられます。
一方主祭神の石凝姥命は天孫降臨、天の岩戸に出てくる神様で、鏡作部の祖とされ、鉄工、鏡作りは1世紀頃から遅くとも3世紀半ばには行われ銅鐸の鋳型の発掘が有った唐子鍵遺跡は前4世紀から3世紀半ば。
保津宮古遺跡は古墳時代初頭(3世紀後半=4世紀前半)。
薬王寺、十六面遺跡も3-4世紀~。
一方で石見を始め三宅町一帯が開発されたのは5世紀終わり頃からと考えられ、この一帯には、石見をはじめ、但馬、三河の地名が今も残ることから、
崇仁天皇以降、湿地帯から顔を出したこの一帯の開発の為各地から人足が移住させられたと考えられます。
但馬守りが後の三宅連の祖とされます。
奥に並んだ社殿ですが、元は茅葺の八尾鏡作神社同様の三社一棟の作りでしたが、老朽の為、一棟づつに建て替えられてしまいました。
主祭神は石凝姥命とされますが、他の2神ははっきりとは記されておらず、他の鏡作や記録から天照皇大神、 天児屋根命であろうと考えられます。
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