桃おやじの歴史散歩

我が町は 記紀に記載の七代孝霊天皇黒田廬戸宮の比定地。
古代史を中心に、奈良の観光や地域情報を気ままに書いています。

#桃おやじ の #歴史散歩 part3「日本の始まり」 vol-1(写真、挿絵は資料を引用しています)

2018-12-17 13:03:47 | 歴史
滅亡と始まり
安住の地を求めて蓬莱へ渡って来た人たちは、九州、日本海沿岸、瀬戸内にと国を築き、内陸部へとさらに進み、ヤマトを始めとする内陸部や太平洋側にも国(豪族や部族集団)を築いて行ったと思われます。

日本で新しい形での国の形を作りつつあったのは、紀元前4-3世紀ごろ大量に人々が流れ込んできた以降の事で丁度中国動乱期と重なります(かなり古い集落は既に存在しています)。
この中には、徐福の一族もいたようです。

大量に流れ込んだ彼らは、日本に新しい技術、思想、文明をもたらします。
王道楽土を目指す「儒教」に対し、共栄共存共闘を目指す「墨家」。
どうやら彼らはこの墨家思想の影響を強く受け、今の日本人に受け継がれたのではないでしょうか。

本格的な弥生時代の到来です(弥生時代が急に来たのではなく、紀元前7世紀から、僅かながら徐々に弥生文化の流入が有り、この時期に急激に広がったのでしょう)。

200年近く繁栄を極め、平穏な日々が続く漢王朝(前漢)も、BC50年頃からは寒冷期の所為か、飢餓と貧困が激しく人心は乱れ、衰退の一途をたどり、やがて前漢が滅亡を迎えます。
時期を同じくして朝鮮半島近隣、蓬莱国(日本)にまで変動をもたらします。

『BC40年、弟「朱蒙(高句麗の始祖)」に国を譲り(末子継承の為、相続権は朱蒙に有った)その北方に王国を築いた「布琉」だったが、その期間は短く、飢餓と貧困で疲弊し力を無くした布琉王国はたちまちに成す術もなく高句麗(朱蒙)に吸収されてしまい布琉は自決する。
この間ようやくの思いで、「布琉」は皇子「布都」に新天地を目指すために船出をさせる、BC40年ごろのことである。』
 ・・・と語る研究者が居ますが時期的に一致、的を得ているのかも。



布都と布都斯
「布都」は父の命に従い一族をまとめ朝鮮半島の付け根辺り船出、。
船は漂流同然に潮の流れに乗ってようやく出雲近く(おそらく浜田地区と推定される)へ上陸、かなりの人数を失ったものと考えられます。
このとき従者は数名~十数名だったようです。
どうにか蓬莱国へ辿り着いた布都の一行は、浜田近辺から出雲辺りまで周囲の状況をうかがいながら転々としたようです。

やがて彼らは出雲の豪族に庇護され、その知識や技術力を高く買われて豪族の女性(出雲国王の女〈娘〉)を娶る事に。

出雲の豪族と盟友となった仏は近隣にその技術や知識を与え、大きな信頼を得るようになったようです。
そうこうしている内に布都と娘の間に布都斯が誕生します。

布都は一粒種の布都斯に君主としてのあらゆる教育を施して行きます。

**百済本紀、紀元前一世紀頃の記録。
 「紀元前一世紀頃,高句麗王朝の朱蒙という王に二人の王子がいて,その弟の方の温祚王というのが王位につき,その子孫が百済王朝を築いた。この兄の方は名前を布流といい,海に面したミスコモルという場所に弟とは別の国を作ったが,布流の国は土地が悪くて住み難く,布流はそれを恥じて死んでしまった。」
高句麗の始祖伝承によると、BC37年のこと、始祖・朱蒙は現在の中国と北朝鮮の国境付近にあった布流国を滅ぼして高句麗を建国、となっています。

スサノオが誕生したと推定される時期(BC35-40頃)と朝鮮半島の伝承による布流国の滅亡の時期(BC37)がほとんど重なるのと、島根半島北側の河下湾周辺に朝鮮半島から上陸した人々のものと考えられる遺跡、伝承が存在しています。

以上は現在一仮説ですが、以下の理由から最も適切だと考えられます。

* 逆算して布都斯の活動期が紀元前一〇~二十年頃と思われ、紀元前三十~四十年頃の生まれ、布都が出雲に辿り着いたのが紀元前四十年頃、布琉王国が滅んだのが朝鮮正史によると紀元前三十八年、同時に朱蒙が高句麗を設立している。
* 組織力や教育のレベル、名前や統率力からして唐突に現れたわけもなく、彼ら以外に該当する人物が今のところ他に見当たらない。
* いまも石上神宮に布都(フツ)御魂大神、布都斯(フツシ)御魂大神、布留(フル)御魂大神の3体が祀られている。
色々な伝記や伝承を検証してみると、後に書いて行きますが、スサノオを天照の弟とする神話には、可なりの無理があり、天照に関する伝記、スサノオに兄弟がいた記録が一切ない。

記.紀や周辺の書物には、天武天皇と藤原氏による天皇家神格化をもくろむ政治的意図がかなり強く、特に日本書紀で藤原氏が関与している形跡は否めない。


八岐大蛇

最近に成って、古事記の内容が、あながち作り話ばかりではない事が、徐々に証明されてきています。
古事記ばかりではなく、ここ数年、歴史愛好家が増え、考古学、歴史学にも脅威的な進歩がみられるように成って、色々分ってきています。
それら古事記を中心に初記の資料を合わせて色々な角度から検討してみましょう。

先に記載したように、朝鮮半島を脱出して、島根県の浜田付近に漂着した布都の一行は、状況を把握する為でしょうか、近辺を転々とる。
やがて出雲近くに安住の地を得た彼等は、地元有力者の娘を迎え、その知識と技術を日本海沿岸に広めて行きます。

布都は、知識と技術を教え、崇拝者を広げて行きますが、島根県の斐伊川一帯を拠点とする豪族「おろち一族」の侵攻が激しく、出雲一帯まで支配を広げて来ます。

出雲では、恭順を表すために奇稲田媛(櫛名田比売命)を差し出しますが布都達と合議して一計を案じます。

出雲に「おろち一族」を招き酒席をもうけ、酒に酔ったおろちの首魁を成長した布都の子「布都斯」に撃たせるというものでした。
布都たとえ小さくても布都斯の国作りの一歩になると考えたのでしょうね。

計略はまんまと大成功。
計略にはまり酒に酔ったおろちの首魁たちを布都斯は次々と謀殺、おろちの一族を壊滅に追い込みます。

*八岐大蛇に関しては諸説ありますが、島根県の揖斐川周辺には多くの伝承が残って居ます。