桃おやじの歴史散歩

我が町は 記紀に記載の七代孝霊天皇黒田廬戸宮の比定地。
古代史を中心に、奈良の観光や地域情報を気ままに書いています。

 初瀬川(大和川)と桃太郎、蔵堂、為川、遠田「スコンドウ」

2017-02-19 22:21:04 | 地域


 
初瀬川と桃太郎

『本朝神社考』に、「むかし大和の洪水の折、初瀬川大いに漲り、大きな甕(壷)が流れきたり、 ~後にまた小舟に乗って播磨に着し、大荒明神となった」という社伝があり,
この甕に乗ってきた男の子が秦河勝だと伝えます。

柳田國男は、これが文献に見られる一番古い桃太郎のモティーフである可能性を指摘しています
伝承では蔵堂・為川の村中を流れる初瀬川に男の子が入った壷が流れ着き、この壷がご神体となったといいます。
初瀬川の川上には神の山「三輪山」があり、三輪の神が男の子を遣わされたと考えられたようです。



蔵堂、為川、遠田「スコンドウ」

数献當講(スコンドウ講、明神講、スウコントン講)とは遠田、為川南方、蔵堂」の3地区が持ち廻り当屋制で御神体の壷を1年間祀る講

十月十日頃
天理市の遠田、田原本町の為川南方、蔵堂の3つの地域がそれぞれに、スコンドウ講、明神講、スウコントン講等と独立した講を作り、3地域が輪番で其々の頭屋で1年間御神体をお守りします。 一年間、当屋として御神体を守り続けたお宅では、御神体の送り出しの準備をされます。

当屋では毎日米と水を供え、週に一度程度、お頭付を供えて礼拝をされるそうです。

次の登板の地区の当屋に、野辺の境界線で、一切無言で引き渡されます。

こうして1年1年、千回以上続けられて来たのでしょう。

契約書や決まり書き等一切なく、其々が口伝で数百年、いや千年以上続けられた素朴な信仰です。
この伝統行事、伝承では初瀬川に男の子が入った壷が流れ着き、この壷がご神体となったといいます。
初瀬川の川上には神の山「三輪山」があり、三輪の神が男の子を遣わされたと考えられたようです。

道教では、「壷や甕、桃は母体」を表し、「桃が邪を払う」というのも道教の思想です。
『本朝神社考』に、「むかし大和の洪水の折、初瀬川大いに漲(みなぎ)り、大きな甕(壷)が流れきたり、 ~後にまた小舟に乗って播磨に着し、大荒明神となった」という社伝があり,、この甕に乗ってきた男の子が秦河勝だと伝えます。

柳田國男は、これが文献に見られる一番古い桃太郎のモティーフである可能性を指摘しています。
『桃太郎』噺の水辺から発見される小さ子と同様、日本古来の水神小童の信仰に通じるものです。   

頭屋制度や、違う地域が一つの講を作り輪番する例は沢山有りますが、三つの地域が別々に講を作り、其々の講が独自のやり方で輪番で御神体を守る伝承は、他に事例を見ません。

古代、桃の一大植産地
この一帯は 万葉集にも読まれた桃の名所だったようです。
大和の 室原の毛桃 本繁く
言ひてしものを 成らずはやまじ


室原(室屋→守屋)とは、この地(蔵堂)から鍵.唐子辺りを指し、毛桃(食用の古代桃)沢山生い茂っていた様子を表しています。

岐多志太神社(田原本町大木、伊与戸)

2017-02-19 22:15:34 | 地域

岐多志太神社      (式内社 大和國城下郡 岐多志太神社二座 鍬靫)です。
村屋神社の北側の田んぼの中にポツンと小さな、小さな神社が有ります。
これでも一応 延喜式神名帳では岐多志太神社 二座 鍬靱 大和国 城下郡鎮座 と記される古社。

拝殿の後方に塀で囲まれた、二棟並んだ小さな本殿が有ります。
祭神は天香山命 天兒屋根命の二柱。

饒速日命十一世鍛冶師連公(キタシムラジノキミ)の居住地で「岐多志太」の社号は、鍛冶師団(きやしだ)という意味でキタ(鉄)を鍛える鉄工の神であるという意味だそうです。

大和川西岸近く、田の中に社叢は目立ちますが本当に小さな神社です。

鎮座地の字を「タイコウジ」と言い、太鼓地と書きます。
今も「カジヤガイトウ」の地名が近くに残っていて、周囲には、「フエフキ」「ヒョウシダ」等の地名も残っており、祭神天香語山命は芸能の神だとされ、雅楽が、初に伝えられた地といわれます。
所在地の伊代戸は、卑弥呼の後を継いだ「壹与」が居た所だとする説も有ります。

村屋坐弥富都比売神社(村屋神社) (別名守屋神社) NO.4

2017-02-17 09:26:31 | 地域

 村屋坐弥富都比売神社 祭、神事

まず注目したいのは、この神社の祭事、神事は古式にのっとり粛々と執り行われます。
村屋神社では、数々の年中行事が執り行われますが、その代表的なものを取り上げておきます。

御田植祭
毎年2月11日に午前中、もう一つの行事、「としごいのまつり」ともいわれる祈念祭がおこなわれ、その年の豊穣と国家国民の弥栄を祈願します。
同日、午後4時ごろから御田祭が執り行われます。

地域の役員や郷中の代表者が拝殿に座り、お祓い、祝詞奏上の神事が執り行われた後、御田植行事の準備が進められ、備中鍬で荒田起し、籾撒き、鋤で畔切り、鍬で畔こね、畔塗りを神職が行います。

その後村人に寄る牛使いが始まり(昔は本物の牛を使ったそうですよ)唐鋤で田起こし、馬鍬(マンガ)で土均し。
牛使いが終わると再び神職が田植えを行い、使った松苗を郷中の農家や参列者気配られます。


最後に巫女が豊作祝いの舞を待って、餅撒きが行われて終了します。
数々歴史に名を残してきたこの神社は神事、祭事においても国中に広がる神社の手本となってきました。

以前は、この日の朝に伊与戸の綱掛け講に寄って神社参道の鳥居に新しい綱を掛け替えたそうです。
又、御田祭にオカメ、ヒョットコの面が使われ、田植え唄や雨乞い踊りも行われた様ですが、今は継承者が無く途絶えてしまって居ます。



夏越の大払い夏越しの祓いは神社の最も古い祭事とされ、一年を二つに分けた名残といわれます。
昔、宮廷では12月晦日と6月晦日の年2回大祓い神事が行われて居ました。
茅の輪くぐりは素盞鳴尊(すさのおのみこと)と蘇民将来(そみんしょうらい)巨旦将来(こたんしょうらい)兄弟の故事に習ったもの。

村屋神社では、結界を張り、茅の輪を潜った後、一連のお祓い神事を受けます。
神事が終わると、子供たちの手によって、神事に使った人型や茅の輪は少し東に流れる初瀬川(大和川)に運ばれ、川に流されます。


大大神楽

お田植祭、夏越の払いの他、歳旦祭を初め秋祭りや祈年祭、新嘗祭 などで奉納される神楽ですが、代々受け継がれてきた村屋神社独自のもので、近隣の神楽舞いのほとんどがこの舞を基本にしているほど。

平安時代に猿楽・伎楽・舞楽のより抜き集団が住む楽戸郷がこの地域(蔵堂から味間)にあったと「延喜式」に記されており、室町時代には観阿弥、世阿弥の父子により大成された「能」の起源と言う説も有ります。

舞には「剣の舞」「二本剣の舞」「榊の舞」「鉾の舞」「平神楽」「三々九度」「扇の舞」「薙刀の舞」が奉納されます。




村屋坐弥富都比売神社(村屋神社) (別名守屋神社) NO.3

2017-02-16 17:37:39 | 地域

 村屋坐弥富都比売神社(村屋神社) 由緒、森屋家系図 

村屋坐弥富都比売神社については意外と多くの記述が残って居ます。
垂仁天皇二十六年に伊香色雄命の子物部十市根命に命じて弥富津比売神へ大物主神を合祀させた。

壬申の乱の時、祝に村屋神がかかり廬井鯨の軍の動きを宣し近江軍を破る事ができたので、牟狭社、高市社とともに神の品階を上げて祀ったと云う。
宝亀3年(726)3月壬申の乱の際に大海人皇子(天武天皇)に味方し、神託を受けて大津皇子(弘文天皇)軍の進軍をいち早く察知、味方を勝利に導いた功績により従五位下を授けられます。           これが、神祇に品位階を奉授する最初だとされます。(当時、神官は従軍して祈祷占星をした)
村屋神(むらやのかみ)、祝(はふり)に着(かか)りて曰はく、「今吾が社の中道(なかつみち)より、軍衆(いくさびとども)至らむ。故(かれ)、社の中道を塞(た)ふべし」といふ。故、未だ幾日(いくか)を経ずして、盧井造(いほゐのみやつこ)鯨(くぢら)が軍(いくさ)、中道より至る。時の人の曰はく、「即ち神教へたまへる辞(みことば)、是なり」といふ。

推古天皇元年、物部忍勝連公が世襲の祝の職を継いだ。

天正年間、服部神社、村屋神社(ともに式内)を境内に遷している。

他に久須須美神社(式内)が境内にある恵比須神社である。

物部氏の直系の神社であり、室屋公を祭神として祀っているが、これは守屋公の事であり、この社の神職は代々守屋氏の世襲であり、その祖先の守屋筑前守は物部守屋の後裔と称し大和国一円の神職取締役であった。

守屋家(物部)系図
1. 大日霊尊
2.正哉吾勝々速日押穂耳尊
3.天照国照彦天火明神櫛玉饒速日尊
4.宇摩志摩遲命 、天香語山命
5.彦湯支命 味饒田命
6.出石心大臣命 .大禰命 出雲醜大臣命
7.大木食命 六見宿禰命 三見宿禰 大矢口 大水口
8.大綜杵命 孝元天皇大禰、開化天皇大臣大神 鬱色雄命 孝元天皇大臣大神 鬱色謎命 大峯大居命 
9.伊香色雄尊 開化天皇大臣 崇神天皇大臣、石上大神  伊香色謎命
10.十市根命 垂仁天皇物部連 垂仁26年、弥冨津比売陣へ大物主神を合祀
11.物部謄咋宿禰 
12.物部五十琴宿禰連公. 神功皇后大連 物部五十琴姫命(景行天皇皇妃)
13.物部伊莒弗連公 履中天皇、反正天皇大連  物部麥入宿禰連公 物部石持連公
14.物部目大連公 清寧天皇大連 物部真掠連公 物部鍛冶師連公(鏡作氷輕馬連等) 物部笠志連公
15.物部荒山連公 宣化天皇大連 物部麻作連公
16.物部尾興連公 欣明天皇大連 物部奈洗連公
17.物部守屋大連公(丁未の乱で死亡) 用明天皇大連 物部大市御狩連公   物部今木金弓若子連公
  物部連公布都姫支人(石上支人)  物部石上贅古連公 推古天皇  物部摩伊古連公  物部多知髪連公
18.物部雄君連公(室屋に逃れ隠れ忍勝を子の無い室屋に託す) 物部武麿 物部麻呂
19. 室原邦重
20.物部忍勝連公(物部雄君の子、子のいない室原邦重の養子となる) 崇浚天皇、推古天皇 物部金弓連公
21.物部守邦(舒明天皇元年神長官祝、守邦性を室屋に)義守、守正、忍守
22.大祝室屋喜久麿(壬申の乱にて武功)物部→室屋 徳麻呂
23.大祝森屋種麻呂(神長官)天武天皇神長官(物部祖先を物部神社に祀る、大友大連、室屋大連を村屋神社の合嗣) 仲麻呂、乙麻呂、武麻呂
24森屋畩子麻呂(神長官)元正天皇大祝
25森屋建麻呂(神長官)文武天皇大祝
26.物部阿刀麿 称徳天皇神主従五位下大神朝臣和泉守
27.物部建麿 聖武天皇神主従五位下大神朝臣武蔵守
28.物部雄麿 嵯峨天皇神主従五位下大神朝臣伊賀守
29.建雄麿(神主)


37.守 忠(大禰宜)源平合戦 安徳天皇、↓戦火で社家8件退官

40.守 政 南北朝
41.森本右近藤重(大禰宜)南北朝  神領没収、神職15名退官土民へ

50.森屋斎宮太夫物部道明(大禰宜) 戦国時代  森屋城落城神領没収される 服部神社遷宮
51. 森屋助太夫大神吉廣戦国時代  秀吉朝鮮出兵
52. 守屋助太夫物部政重戦国時代 社領、年貢地として復活  森講誕生

61.神主従五位下森本筑前守大神朝臣廣治明治維新、 天保~明治天理教と深くかかわる


蔵堂(くらんど)森屋城の落城
蔵堂は古くは村屋と称する。のち杜屋、森屋。
はじめ蔵堂塁は蔵堂氏が立て篭もっていた。蔵堂長兵衛長房。城址は今字強城堂垣内。         
    
「今朝森屋之城十市より取了、首七十計討取之由事申剋之終ニ兵より注進状在之田井蔵人佐手負死了、並福住内喜右衛尉死了、田中源一郎手負了、不可有殊儀云々先々秋山知行半分通ハ三人衆ニも依同心如此成下了、珍重々々。」(多聞院日記:永禄11年2月20日)

当時、森屋城は秋山方の手勢が入っていたが、秋山氏が三好三人衆に通じたため、十市遠勝が攻め、森屋城を攻め落とした。

当時十市氏は松永久秀に娘おなえと重臣、大木重介の子息を質に収め、その配下に属していた。
同年10月には、十市遠勝は三好三人衆と今井で誓紙を交わし、その与党に走った。
信長の援軍を得た松永久秀のために森屋城を奪われ、再び、久秀のもとに寝返った。

この際、筒井・十市の諸豪は井戸、柳本、豊田、森屋、十市、布施、楢原、万歳の諸城を連ねて対抗したが、一城一城と相次いで陥落し、11月には十市衆の守った大西城も落ちた。
森屋城の最後の攻防は元亀2年の辰市の大合戦の後、勝利に乗じた筒井軍が松永方の立て篭もった諸城を次々と奪還して行くが、8月6日筒井順慶の配下の箸尾高春によって攻め落とされている。


守屋筑前守と天理教
天理教逸話より。
針ケ別所村助造なるもの二月斗かり地場へ参詣なし居りしが、遂二妄説を唱え、天理王命本地ハ針ケ別所なりとて、近方の村民を瞞着せしニ付、教祖自から取り沸ひた

 御出張遊バされたり、其随行ハ飯降伊蔵、山中忠七、西田伊三郎、岡本重治郎、山沢良治郎等なり。(中略)其 先方ニハ金剛院部属となり居たれバ、奈良より金剛院を迎へて談判せんとせり。金剛院ハ乗物ニのりて来る。
 此方ニハ守屋筑前守は吉田神祇管領部属ニして、大和一国の取締なれバ山沢良治郎氏は守屋の使ひなりとて(守屋氏が承諾得て来たりしもの)談判せらる。
   〔中山新治郎「教祖様御伝」(「復元33号」P219~221)〕

“筑前守の奥さんは山沢から行って居るとの事、山沢さんから頼めばきっ
聞いてくれる岡本重次郎が使者として山を下り、山沢良治朗に仲介を依頼。
その良治朗が、守屋筑前守の代理として戻り3日間かかって金剛院が折れて一件落着。
天理教と森本筑前守の接近は、天理教としては仏教等の既成の宗教からの迫害を防ぐために有効であり、逆に森本筑前守にとっては、吉田家の支配拡大として、また仏教との対抗姿勢の中で生まれてきたものであったのである。
 『教祖とその時代』「吉田家の大和国の神職支配と天理教」(幡鎌一弘著)P130より

大和神社事件。
大和神社に参嗣した天理教幹部一行は、持参した太鼓や拍子木を鳴らして陽気な祈祷の声で社頭の森の静寂を破った。
一同は社務所へ引致され、叱責を受けた。
その日は図らずも吉田神祇管領家から大和一国の神職取締りに任ぜられていた守屋筑前守が1週間の祈祷をしている最中で、大切な祈祷の邪魔をした事も有ったのでしょう。
一同は取り調べの上、神社向いの旅人宿へ3日間監禁同様に留め置かれた。
百方手をつくし、山沢良治郎からも、筑前守に掛け合い3日後に解放された。

神職取締役の調査
「お道」がかくもすさまじい勢いで伸びていく姿を見せつつある最中、反感や嫉妬は僧侶逹ばかりでなく、神職等の中にも警戒を呼び始め、やがて今迄にない神名を流すのは不都合だという非難の声も出始めたようである。
大和一帯の神職取締役をしている守屋筑前守が自らお屋敷を訪れてくることとなった。
守屋筑前守は先に大和事件でお道と遭遇しており、以来目をつけて関心を示していたのであるが、非難の声が高くなるにつれて、役目柄捨ててはおけぬ気持になりお屋敷にやって来ることとなった。

 この時は、みきが自ら応接されることとなった。
この時の守屋筑前守とみきの問答の概要さえ伝えられていないのは残念としか云いようが無い。
但し、守屋氏は、温容に接した瞬間からなにかしら強く心を打たれ、尋ねた事に対して応えたみき言葉の節々に好意を抱いたようである。
さすがに筑前は、感情に走って真実に目を掩う様な人ではなく、さすがに学問があるだけにみきの教理の深さに感じ入ることになり、世間の悪評などとは全く相違する事実を自らの目と心に確認して素直に頭を垂れることとなった、
みきの言葉一つ一つが悉く温かく心の底に流れ込んでくるのを感じた。
そればかりか「こんな結構な教えを、このままにしておくのは惜しい。
その筋に届け出て公認を得て布教なさるがよろしい。その節は私もお力になりましょう」と頼もしい言葉を残して帰っていった、と伝えられている。


先ず、慶應3年6月、添書の願を古市代官所へ提出し、領主の添書を得て、秀司様(教祖様のご長男)は、山澤良治郎さまを供に、守屋筑前守さまも同道して京都へ上り、吉田神祇管領に出願し、7日間かかって、慶應3年7月23日付で、その認可を得ました。



村屋坐弥富都比売神社(村屋神社) (別名守屋神社) NO.2

2017-02-14 16:04:12 | 地域


摂社

 市杵嶋姫神社


「炊屋姫命、宇麻志摩遲命 配 物部守屋連」 物部の祖を祀る神社で、大きな鏡池の中の島に建ち、木々や竹やぶに囲まれてひっそり佇んでいます。

服部神社

「天之御中主命、天之御鉾命」延喜式内社で、元は現在地より2k程東に在った大安寺村神来森(かきのもり、現田原本町大安寺、大和川と寺川の中間辺り)に鎮座。波登里村、阿刀村の氏神で有ったそうです。

村屋神社「経津主神、室屋大連神、武甕槌神、大伴健持大連」物部氏の神々を祀ります。

経津主、武甕槌二神は春日四神の内の二神であることから、春日神社とも言われます。
室屋大連神、大伴健持大連の二神は壬申の乱(672)に、吉野軍の将として活躍し、功績  が高かったため、天武5年に合祀。
     村屋神社は、現在地から200mほど東、初瀬川の川べりに鎮座されていたが、南北朝時代に兵火に会い、神領を没収せられ、社地を縮小、本殿を守るような形で現在地に遷されました。
     明治の初めには、廃仏毀釈があり、仏教的なものは取り払われた。今二座が鎮座するところは、鐘楼跡と言われている。
壬申の乱に功績のあった三神の日本書紀の記述では、高市の事代主神、身狭の生霊神と二神は神名まで表記されているが、村屋神は地名だけ、神名がない。

 久須須美神社「天之久之比命、事代主命」

元は蔵堂(くらんど)橋の袂に在り、伊豫氏(伊与戸)の氏神で、中ッ道と初瀬街道(伊勢街道)の交わるところで栄え、北市場垣内、南市場垣内や幸町、市町の子字が残る

この守屋郷は、古くは、室屋郷と言い、この辺りから法貴寺にかけて室原郷と言われていました。現在、蔵堂(くらんど)の集落に入りますが、この地も法貴寺同様 神社の東側を初瀬川(大和川)が唐子鍵遺跡へ向け斜めに流れていたのが、度重なる洪水の為、川筋が大きく変わり、集落を分断してしまった様です。

大物主神は高皇産霊尊の命によって三穂津姫を妻としたが、後に三室の丘に住むこととなり、その時三穂津姫は村屋の地に移ってきたという。以後、神武天皇元年にヒメタタライスズヒメ命に村屋の神を斎祀させ、崇神天皇七年伊香色雄命に命じて村屋坐弥富津比売神にフツノミタマを納めさせた。
 垂仁天皇二十六年に伊香色雄命の子物部十市根命に命じて弥富津比売神へ大物主神を合祀させた。
 壬申の乱の時、祝に村屋神がかかり廬井鯨の軍の動きを宣し近江軍を破る事ができたので、牟狭社、高市社とともに神の品階を上げて祀ったと云う。
 推古天皇元年、物部忍勝連公が世襲の祝の職を継いだ。
 天正年間、服部神社、村屋神社(ともに式内)を境内に遷している。他に久須須美神社(式内)が境内にある恵比須神社である。

 物部氏の直系の神社であり、室屋公を祭神として祀っているが、これは守屋公の事であり、この社の神職は代々守屋氏の世襲であり、その祖先の守屋筑前守は物部守屋の後裔と称し大和国一円の神職取締役であったと言う。

この ミホツ媛(弥富都比売.三穂津姫)は、ナガスネヒコ(長髄彦。旧添下郡鳥貝郷(現生駒市北部・奈良市富雄地方)付近、あるいは桜井市付近に勢力を持った豪族.長髄とは記紀では邑の名)の妹で、登美夜毘売(トミヤヒメ)、三炊屋媛(ミカシギヤヒメ)は同一人物だと考えられます。
また、中世、戦国の武将山形の織田家(後に織田信長を輩出)や仙台の伊達家が長髄彦の子孫であると言われています。

*弥富都比売を壱与(イヨ)もしくは台与(トヨ)とされる方が多いのですが、日本書紀の文面から、長髄彦の妹と解釈する方がより適切でしょう。