村屋坐弥富都比売神社(村屋神社) 由緒、森屋家系図
村屋坐弥富都比売神社については意外と多くの記述が残って居ます。
垂仁天皇二十六年に伊香色雄命の子物部十市根命に命じて弥富津比売神へ大物主神を合祀させた。
壬申の乱の時、祝に村屋神がかかり廬井鯨の軍の動きを宣し近江軍を破る事ができたので、牟狭社、高市社とともに神の品階を上げて祀ったと云う。
宝亀3年(726)3月壬申の乱の際に大海人皇子(天武天皇)に味方し、神託を受けて大津皇子(弘文天皇)軍の進軍をいち早く察知、味方を勝利に導いた功績により従五位下を授けられます。 これが、神祇に品位階を奉授する最初だとされます。(当時、神官は従軍して祈祷占星をした)
村屋神(むらやのかみ)、祝(はふり)に着(かか)りて曰はく、「今吾が社の中道(なかつみち)より、軍衆(いくさびとども)至らむ。故(かれ)、社の中道を塞(た)ふべし」といふ。故、未だ幾日(いくか)を経ずして、盧井造(いほゐのみやつこ)鯨(くぢら)が軍(いくさ)、中道より至る。時の人の曰はく、「即ち神教へたまへる辞(みことば)、是なり」といふ。
推古天皇元年、物部忍勝連公が世襲の祝の職を継いだ。
天正年間、服部神社、村屋神社(ともに式内)を境内に遷している。
他に久須須美神社(式内)が境内にある恵比須神社である。
物部氏の直系の神社であり、
室屋公を祭神として祀っているが、これは
守屋公の事であり、この社の神職は代々守屋氏の世襲であり、その祖先の守屋筑前守は物部守屋の後裔と称し大和国一円の神職取締役であった。
守屋家(物部)系図
1. 大日霊尊
2.正哉吾勝々速日押穂耳尊
3.天照国照彦天火明神櫛玉饒速日尊
4.宇摩志摩遲命 、天香語山命
5.彦湯支命 味饒田命
6.出石心大臣命 .大禰命 出雲醜大臣命
7.大木食命 六見宿禰命 三見宿禰 大矢口 大水口
8.大綜杵命 孝元天皇大禰、開化天皇大臣大神 鬱色雄命 孝元天皇大臣大神 鬱色謎命 大峯大居命
9.伊香色雄尊 開化天皇大臣 崇神天皇大臣、石上大神 伊香色謎命
10.十市根命 垂仁天皇物部連 垂仁26年、弥冨津比売陣へ大物主神を合祀
11.物部謄咋宿禰
12.物部五十琴宿禰連公. 神功皇后大連 物部五十琴姫命(景行天皇皇妃)
13.物部伊莒弗連公 履中天皇、反正天皇大連 物部麥入宿禰連公 物部石持連公
14.物部目大連公 清寧天皇大連 物部真掠連公 物部鍛冶師連公(鏡作氷輕馬連等) 物部笠志連公
15.物部荒山連公 宣化天皇大連 物部麻作連公
16.物部尾興連公 欣明天皇大連 物部奈洗連公
17.物部守屋大連公(丁未の乱で死亡) 用明天皇大連 物部大市御狩連公 物部今木金弓若子連公
物部連公布都姫支人(石上支人) 物部石上贅古連公 推古天皇 物部摩伊古連公 物部多知髪連公
18.物部雄君連公(室屋に逃れ隠れ忍勝を子の無い室屋に託す) 物部武麿 物部麻呂
19. 室原邦重
20.物部忍勝連公(物部雄君の子、子のいない室原邦重の養子となる) 崇浚天皇、推古天皇 物部金弓連公
21.物部守邦(舒明天皇元年神長官祝、守邦性を室屋に)義守、守正、忍守
22.大祝室屋喜久麿(壬申の乱にて武功)物部→室屋 徳麻呂
23.大祝森屋種麻呂(神長官)天武天皇神長官(物部祖先を物部神社に祀る、大友大連、室屋大連を村屋神社の合嗣) 仲麻呂、乙麻呂、武麻呂
24森屋畩子麻呂(神長官)元正天皇大祝
25森屋建麻呂(神長官)文武天皇大祝
26.物部阿刀麿 称徳天皇神主従五位下大神朝臣和泉守
27.物部建麿 聖武天皇神主従五位下大神朝臣武蔵守
28.物部雄麿 嵯峨天皇神主従五位下大神朝臣伊賀守
29.建雄麿(神主)
37.守 忠(大禰宜)源平合戦 安徳天皇、↓戦火で社家8件退官
40.守 政 南北朝
41.森本右近藤重(大禰宜)南北朝 神領没収、神職15名退官土民へ
50.森屋斎宮太夫物部道明(大禰宜) 戦国時代 森屋城落城神領没収される 服部神社遷宮
51. 森屋助太夫大神吉廣戦国時代 秀吉朝鮮出兵
52. 守屋助太夫物部政重戦国時代 社領、年貢地として復活 森講誕生
61.神主従五位下森本筑前守大神朝臣廣治明治維新、 天保~明治天理教と深くかかわる
蔵堂(くらんど)森屋城の落城
蔵堂は古くは村屋と称する。のち杜屋、森屋。
はじめ蔵堂塁は蔵堂氏が立て篭もっていた。蔵堂長兵衛長房。城址は今字強城堂垣内。
「今朝森屋之城十市より取了、首七十計討取之由事申剋之終ニ兵より注進状在之田井蔵人佐手負死了、並福住内喜右衛尉死了、田中源一郎手負了、不可有殊儀云々先々秋山知行半分通ハ三人衆ニも依同心如此成下了、珍重々々。」(多聞院日記:永禄11年2月20日)
当時、森屋城は秋山方の手勢が入っていたが、秋山氏が三好三人衆に通じたため、十市遠勝が攻め、森屋城を攻め落とした。
当時十市氏は松永久秀に娘おなえと重臣、大木重介の子息を質に収め、その配下に属していた。
同年10月には、十市遠勝は三好三人衆と今井で誓紙を交わし、その与党に走った。
信長の援軍を得た松永久秀のために森屋城を奪われ、再び、久秀のもとに寝返った。
この際、筒井・十市の諸豪は井戸、柳本、豊田、森屋、十市、布施、楢原、万歳の諸城を連ねて対抗したが、一城一城と相次いで陥落し、11月には十市衆の守った大西城も落ちた。
森屋城の最後の攻防は元亀2年の辰市の大合戦の後、勝利に乗じた筒井軍が松永方の立て篭もった諸城を次々と奪還して行くが、8月6日筒井順慶の配下の箸尾高春によって攻め落とされている。
守屋筑前守と天理教
天理教逸話より。
針ケ別所村助造なるもの二月斗かり地場へ参詣なし居りしが、遂二妄説を唱え、天理王命本地ハ針ケ別所なりとて、近方の村民を瞞着せしニ付、教祖自から取り沸ひた
御出張遊バされたり、其随行ハ飯降伊蔵、山中忠七、西田伊三郎、岡本重治郎、山沢良治郎等なり。(中略)其 先方ニハ金剛院部属となり居たれバ、奈良より金剛院を迎へて談判せんとせり。金剛院ハ乗物ニのりて来る。
此方ニハ守屋筑前守は吉田神祇管領部属ニして、大和一国の取締なれバ山沢良治郎氏は守屋の使ひなりとて(守屋氏が承諾得て来たりしもの)談判せらる。
〔中山新治郎「教祖様御伝」(「復元33号」P219~221)〕
“筑前守の奥さんは山沢から行って居るとの事、山沢さんから頼めばきっ
聞いてくれる岡本重次郎が使者として山を下り、山沢良治朗に仲介を依頼。
その良治朗が、守屋筑前守の代理として戻り3日間かかって金剛院が折れて一件落着。
天理教と森本筑前守の接近は、天理教としては仏教等の既成の宗教からの迫害を防ぐために有効であり、逆に森本筑前守にとっては、吉田家の支配拡大として、また仏教との対抗姿勢の中で生まれてきたものであったのである。
『教祖とその時代』「吉田家の大和国の神職支配と天理教」(幡鎌一弘著)P130より
大和神社事件。
大和神社に参嗣した天理教幹部一行は、持参した太鼓や拍子木を鳴らして陽気な祈祷の声で社頭の森の静寂を破った。
一同は社務所へ引致され、叱責を受けた。
その日は図らずも吉田神祇管領家から大和一国の神職取締りに任ぜられていた守屋筑前守が1週間の祈祷をしている最中で、大切な祈祷の邪魔をした事も有ったのでしょう。
一同は取り調べの上、神社向いの旅人宿へ3日間監禁同様に留め置かれた。
百方手をつくし、山沢良治郎からも、筑前守に掛け合い3日後に解放された。
神職取締役の調査
「お道」がかくもすさまじい勢いで伸びていく姿を見せつつある最中、反感や嫉妬は僧侶逹ばかりでなく、神職等の中にも警戒を呼び始め、やがて今迄にない神名を流すのは不都合だという非難の声も出始めたようである。
大和一帯の神職取締役をしている守屋筑前守が自らお屋敷を訪れてくることとなった。
守屋筑前守は先に大和事件でお道と遭遇しており、以来目をつけて関心を示していたのであるが、非難の声が高くなるにつれて、役目柄捨ててはおけぬ気持になりお屋敷にやって来ることとなった。
この時は、みきが自ら応接されることとなった。
この時の守屋筑前守とみきの問答の概要さえ伝えられていないのは残念としか云いようが無い。
但し、守屋氏は、温容に接した瞬間からなにかしら強く心を打たれ、尋ねた事に対して応えたみき言葉の節々に好意を抱いたようである。
さすがに筑前は、感情に走って真実に目を掩う様な人ではなく、さすがに学問があるだけにみきの教理の深さに感じ入ることになり、世間の悪評などとは全く相違する事実を自らの目と心に確認して素直に頭を垂れることとなった、
みきの言葉一つ一つが悉く温かく心の底に流れ込んでくるのを感じた。
そればかりか「こんな結構な教えを、このままにしておくのは惜しい。
その筋に届け出て公認を得て布教なさるがよろしい。その節は私もお力になりましょう」と頼もしい言葉を残して帰っていった、と伝えられている。
先ず、慶應3年6月、添書の願を古市代官所へ提出し、領主の添書を得て、秀司様(教祖様のご長男)は、山澤良治郎さまを供に、守屋筑前守さまも同道して京都へ上り、吉田神祇管領に出願し、7日間かかって、慶應3年7月23日付で、その認可を得ました。