「伴堂環濠集落とあざさ」
伴堂の集落は中世の土豪「伴堂氏」の居城(居館)として太子道(筋交い道)が通る反面、集落内は曲がったり入り組んだりと環濠集落の特徴を残します。
伴堂氏は「長川流鏑馬日記(1384年)」に出自、
1499年の松永氏と筒井氏の戦闘の項に宝来・秋篠・超昇寺・布施・伴堂氏ら大和国人衆も参加。と出て来ます。
環濠集落になる以前は屯倉(三宅)として但馬、三河、石見などと共に皇家の蔵を支えたでしょう。
当時が大和湖の水際、低湿地であった事を示すように万葉歌に
「水草のしげる三宅が原を妻の元へ通う愛の唄」が歌われています。
その水草「あざさ」と「愛」をテーマに町おこしをしているのが現在の三宅町。
同じ万葉集からとった「令和」に似ていますね。
ここの歌碑から南に300mほどで元の黒田の駅の戻ります。
ここを東に1kほど行くと近鉄橿原線の石見駅、「石見」集落の少し北の集落が「三河」になります。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます