桃おやじの歴史散歩

我が町は 記紀に記載の七代孝霊天皇黒田廬戸宮の比定地。
古代史を中心に、奈良の観光や地域情報を気ままに書いています。

#桃おやじ の #歴史散歩 part2 「倭人」。vol-2(写真、挿絵は資料を引用しています)

2018-11-15 12:01:16 | 歴史
中国大陸と朝鮮半島
新世紀前後から日本の歴史に大きく関わってくるのが朝鮮半島。
確かな年代は不明ですが、前漢末期~後漢の初期ごろ、中国北東部(旧満州。現内モンゴル、吉林省、黒竜江省当たり)に有った鮮卑や扶余国と中国の秦や漢の侵攻。

紀元前226年に中国を統一した秦も、始皇帝亡き後、統一後僅か20年で楚の攻略に失敗し、逆に楚の項羽に依って滅亡する事に成ります。
項羽に協力したのが秦に近い劉邦ですが、秦を倒した後、両社の講和会談が決裂、一旦故郷へ帰ろうとする項羽軍を劉邦軍が包囲し、項羽軍の故郷、楚の歌を歌って、項羽軍を降伏させた、四面楚歌は有名である。

項羽と共に秦を倒し、楚の項羽を降伏させた劉邦は漢王朝を設立、それまでの文字を持たなかったり、砂字や異形文字を用いるなど、バラバラだった表現、伝達を文字の統一(漢字)によってさらに強固な漢王朝の礎を築いた。

前漢時代、しばらくは、世界的に安定期に入り、人々は融合や再編、小競り合いを繰り返しながらも、しばし安寧の時期が続く。
春秋戦国時代からさまざまに発展した思想が、現代社会にまで強く影響を及ぼしているのは言うまでも有りませんが、とくに古代には強大な影響を与えたものと思われる
【孔子】BC. 551~BC. 479 (儒家の始祖)儒教
【孟子】BC. 372~BC. 289 (儒家)儒教
【筍子】戦国末期、に代表される王道楽土等を説く儒教。
【老子】BC. 406~BC. 531 (道家の始祖)道教
【荘子】戦国時代、一説にBC. 369~BC. 286に代表される道徳を説く道教。
【墨子】春秋戦国時代初期、一説にBC. 468ころ~BC. 376ころ神を信じ、博愛主義を唱える墨家(ぼっか)
仏教と、儒教、道教の中国3大宗教は現代に至るまで人々に大きな影響を与え、王道を説く儒教は特に為政者にもてはやされ一時は儒教や他の思想を凌ぐほどでした。
また、神や仙人を目指す神仙思想など様々な分野を含む大衆宗教といっても良い道教は、後に漢を滅亡に導いたとも言われます。

今は殆ど知られていない共栄共存共闘を図る墨家(ぼっか)思想は、共闘する小諸国の滅亡と共に消え去りますが、四散した多民族、特に弱者の中に息吐いて居た物と思われる。

この墨家の思想は弱者の倭人の中に長く強く根付いたのかも知れませんね。

春秋戦国時代末期に呉が滅亡、満州(鮮卑と朝鮮半島の間の広い範囲)に扶余国が誕生、大国では有ったが部族の寄せ集めのような国だったようです。
そしてその頃、呉の末裔が九州に球磨国を作ったと考えられます。

想定の範囲を超えませんが、鮮卑やペルシャ系、モンゴル系、倭人や原住部族を交えた、少数の民族を一つに束ねたのでしょう。

やがて後漢の光武帝によって大国としての扶余国は滅亡しますが、その後縮小されながらも残り続けます。
一方、同じ扶余国王の血を受け継ぐ朱蒙(チュモン)がBC35 新たな王国を建国、後の高句麗(コクリョ)=高麗の始まりです。
この時、同じ扶余系で滅んだ小さな国に「フル王国」が有り、滅亡前に脱出した王子の一行が日本の祖神〈布都=冨都御霊大神〉だと言われます。

 倭人たち
中国大陸の倭人たちは、秦から漢にかけて、動乱期は動乱期で戦火に追われ、秦や漢が国家統一すると外敵として追われ、安住の地を求めて朝鮮半島や蓬莱の国を求めて九州、山陰、北陸まで移住した彼らは、其々に邑や国を作り、自分たちの世界を作って行きます。
大は熊襲や隼人、琉球の様に現在の1県を支配するほど。
小は家族や縁族単位に至りますが、新世紀頃には北陸や中部以西で朝鮮半島南部を含めて百余りに集約されたようです。

少し話が戻りますが、
大陸で起きた大きな流れは鮮卑を初め鳥恒、扶余、把婁、などを壊滅させて行き、吉林省東部~朝鮮半島へと追いつめて行きました。

漸く朝鮮半島近くに留まった彼らはいくつもの小国を作ります。
その中に小さくなった扶余国が有り、この国の第三王子朱蒙(東明聖王)が吉林省の集案を中心に朱蒙王国(後の高句麗)を建国したのがB.C37年。
建国神話には、扶余、高句麗、百済と共通していて、日本の神武東征もこれに類似していて真似たものと考えられます。

この時滅亡した多くの国の一つにフル国という国が有り、その王族の一部が亡命して島根県の浜田へ漂着したとする説がかなり信憑性を帯びています。

高句麗の建国当時、未だ吉林省一帯は荒涼とした原野が広がる酷寒の血でもあったようです。
多種族の倭人系、モンゴル系などが小さな領分を保持していましたが、徐々に高句麗が朝鮮半島方面へ勢力を拡大、朝鮮半島に居た倭人たちが大量に日本へ流れ今度のでしょう、BC100年頃2万人前後だった日本の人口が弥生末期には60万近くと急激に増加しています。

#桃おやじ の #歴史散歩 part2 「倭人」。vol-1(写真、挿絵は資料を引用しています)

2018-11-15 11:45:20 | 歴史
春秋戦国時代
紀元前1027年、中国が殷から周に変わります、封神演義の世界ですね。

しかし、周の治世も安定したのは僅かな期間でした。
創建当時 絶大な力を誇った周も200年もすると暴君、暗君が続き、徐々に力宇失っていきます。
紀元前770、周王朝の分裂を期に、春秋時代へと入って行きます。
年代的に倭人が長江流域を南下した時期に匹敵しますね。

この少し後に倭人の国と思われる呉、越が誕生しています。(楚の建国に関しては定かでは有りません)
ただ、同じ倭人でありながら、呉、越、楚、共にかなり仲が悪かったようですね。
春秋時代から戦国時代へと流れ込み(BC400頃」秦が台頭する頃、呉や越が順次滅亡を迎えます。
(一時は覇を唱えた楚は漢と共に周を滅ぼしますが〈項羽と劉邦〉、漢の劉邦の策に敗れ、やがて滅亡の道を辿ります。)
この3国が滅んだ後、移住したのが朝鮮半島であり、古代朝鮮の三韓(馬韓・弁韓・辰韓)だとする説が有り有力視されています。

話を倭人に戻しますが、どうやら、周の時代に入ってから徐々に海洋へ新天地を求めて移住する人たちが数を増していったようです。
特に、呉の滅亡機にその数が増えていますから、呉の太白の記述も的を得ています。

 倭人集団 
中国において弥生文化が発達したのは紀元前8-7世紀だとされます。
丁度 周の権力が弱まり、諸侯の力が増して睨み合いが始まる春秋時代へ入ったころに当たります。
黄河下流域の中原辺りが発祥とされ鉄器の製造と共にかなりのスピードで広がっていったと考えられます。
しかし、中国沿岸部から東シナ海、日本海に散在する平和主義の倭人たちにとってはあまり縁のないものだったのかも知れないですね。

しかし、周の時代が終わり、戦国時代を秦が制覇すると沿岸部への秦の侵攻が始まります。

中国本土を追われた倭人たちは、あるものはそのまま九州へ、
又ある者は途中の島々へ、
さらに多くの人たちは沿岸沿いに朝鮮半島や内蒙古、吉林省、黒龍江省、ウラジオストック、ハルピン、シベリア方面まで逃避を続けたと思われます。

この頃、日本や周辺の島々にたどり着いた人たちによって邑や国が各地に出来上がって行ったと考えられます。
新世紀頃には100ほどの国が出来ていたのでしょう。
3世紀ごろには30ほどに成り、大は琉球王国のような其々に国主、巫女が国を治めていたようです。
各地に大和王国の形態を持った国々が有ったことが多分に歴史家を惑わす結果に成ったと思われます。

 縄文人と弥生人 
少し話がとびとびに成りましたのでこの辺りで少しまとめてみたいと思います。
まず、日本に人が住みだしたのは約3万年前、南方から海流に乗って来たものと考えられます。
その後、中国大陸南部から同じく海を渡ってきた古代人やその後渡ってきた縄文人たちと交雑しながら九州から東北までの沿岸部を中心に日本独自の民族として家族、親族単位が集まってを作って行ったのでしょう。
しかし、約7300年前、鬼界島の大噴火に依って九州から関東までの陸上の生物がほぼ全滅したと考えられます。
*喜界島の大噴火は余りの大きさに殆どが海底に沈み東西約21km、南北約18kmの海底カルデラを形成。現在も活動中で、噴火が起きれば約1億人が被災する可能性が指摘されています。

そのころの人口が約2万人。
その後紀元前2百年位まで、東北を中心に5~20万人の範囲で増減を繰り返していたようです。
周の時代に沢山の縄文人(倭人)が九州や山陰に移住して来ますが、人数的には限られていたようですね。

周末期から秦の時代に入ると、戦乱で追われた倭人たちが集団で移住するようになります。

この頃までの日本人は弥生時代に入ってはいますが「縄文人」の形態を保っていたようです。

後漢に入ると、光武帝の侵攻が激しさを増し、鮮卑や扶余が壊滅状態に。
中国北東部に居た人達(古朝鮮?)が四散、一部は南下を余儀なくされ、朝鮮半島へ。
しかし、数百年の間に酷寒や度重なる迫害、飢えに彼らの風貌は大きく変化したようです。
寒さに耐えられるように目は細く、鼻は低く、体も一回り小さく…と言ったように。
やがて彼らは朝鮮半島から大量に朝鮮半島南部~日本海沿岸へと倭人のエリアを形成していく事に成ります。
この頃日本の人口が急激に増加、2-30万から5-60万に膨れ上がっています。
『日本書紀』では神武天皇が即位以前の己未の年、大和国で恭順に及ばなかった波哆丘岬の新城戸畔(にいきとべ)和珥坂下の居勢祝(こせはふり)臍見長柄丘岬の猪祝(いはふり)という三箇所の土蜘蛛をそれぞれ討ち取らせた。また高尾張邑にいた土蜘蛛を葛(かずら)をあんで作った網を使って討っており、そのことに因んで地名を葛城(かつらぎ)と改めた、と記している。高尾張邑にいた土蜘蛛については、体が侏儒のように小さく手足は長かったと描写されている。