中国大陸と朝鮮半島
新世紀前後から日本の歴史に大きく関わってくるのが朝鮮半島。
確かな年代は不明ですが、前漢末期~後漢の初期ごろ、中国北東部(旧満州。現内モンゴル、吉林省、黒竜江省当たり)に有った鮮卑や扶余国と中国の秦や漢の侵攻。
紀元前226年に中国を統一した秦も、始皇帝亡き後、統一後僅か20年で楚の攻略に失敗し、逆に楚の項羽に依って滅亡する事に成ります。
項羽に協力したのが秦に近い劉邦ですが、秦を倒した後、両社の講和会談が決裂、一旦故郷へ帰ろうとする項羽軍を劉邦軍が包囲し、項羽軍の故郷、楚の歌を歌って、項羽軍を降伏させた、四面楚歌は有名である。
項羽と共に秦を倒し、楚の項羽を降伏させた劉邦は漢王朝を設立、それまでの文字を持たなかったり、砂字や異形文字を用いるなど、バラバラだった表現、伝達を文字の統一(漢字)によってさらに強固な漢王朝の礎を築いた。
前漢時代、しばらくは、世界的に安定期に入り、人々は融合や再編、小競り合いを繰り返しながらも、しばし安寧の時期が続く。
春秋戦国時代からさまざまに発展した思想が、現代社会にまで強く影響を及ぼしているのは言うまでも有りませんが、とくに古代には強大な影響を与えたものと思われる
【孔子】BC. 551~BC. 479 (儒家の始祖)儒教
【孟子】BC. 372~BC. 289 (儒家)儒教
【筍子】戦国末期、に代表される王道楽土等を説く儒教。
【老子】BC. 406~BC. 531 (道家の始祖)道教
【荘子】戦国時代、一説にBC. 369~BC. 286に代表される道徳を説く道教。
【墨子】春秋戦国時代初期、一説にBC. 468ころ~BC. 376ころ神を信じ、博愛主義を唱える墨家(ぼっか)
仏教と、儒教、道教の中国3大宗教は現代に至るまで人々に大きな影響を与え、王道を説く儒教は特に為政者にもてはやされ一時は儒教や他の思想を凌ぐほどでした。
また、神や仙人を目指す神仙思想など様々な分野を含む大衆宗教といっても良い道教は、後に漢を滅亡に導いたとも言われます。
今は殆ど知られていない共栄共存共闘を図る墨家(ぼっか)思想は、共闘する小諸国の滅亡と共に消え去りますが、四散した多民族、特に弱者の中に息吐いて居た物と思われる。
この墨家の思想は弱者の倭人の中に長く強く根付いたのかも知れませんね。
春秋戦国時代末期に呉が滅亡、満州(鮮卑と朝鮮半島の間の広い範囲)に扶余国が誕生、大国では有ったが部族の寄せ集めのような国だったようです。
そしてその頃、呉の末裔が九州に球磨国を作ったと考えられます。
想定の範囲を超えませんが、鮮卑やペルシャ系、モンゴル系、倭人や原住部族を交えた、少数の民族を一つに束ねたのでしょう。
やがて後漢の光武帝によって大国としての扶余国は滅亡しますが、その後縮小されながらも残り続けます。
一方、同じ扶余国王の血を受け継ぐ朱蒙(チュモン)がBC35 新たな王国を建国、後の高句麗(コクリョ)=高麗の始まりです。
この時、同じ扶余系で滅んだ小さな国に「フル王国」が有り、滅亡前に脱出した王子の一行が日本の祖神〈布都=冨都御霊大神〉だと言われます。
倭人たち
中国大陸の倭人たちは、秦から漢にかけて、動乱期は動乱期で戦火に追われ、秦や漢が国家統一すると外敵として追われ、安住の地を求めて朝鮮半島や蓬莱の国を求めて九州、山陰、北陸まで移住した彼らは、其々に邑や国を作り、自分たちの世界を作って行きます。
大は熊襲や隼人、琉球の様に現在の1県を支配するほど。
小は家族や縁族単位に至りますが、新世紀頃には北陸や中部以西で朝鮮半島南部を含めて百余りに集約されたようです。
少し話が戻りますが、
大陸で起きた大きな流れは鮮卑を初め鳥恒、扶余、把婁、などを壊滅させて行き、吉林省東部~朝鮮半島へと追いつめて行きました。
漸く朝鮮半島近くに留まった彼らはいくつもの小国を作ります。
その中に小さくなった扶余国が有り、この国の第三王子朱蒙(東明聖王)が吉林省の集案を中心に朱蒙王国(後の高句麗)を建国したのがB.C37年。
建国神話には、扶余、高句麗、百済と共通していて、日本の神武東征もこれに類似していて真似たものと考えられます。
この時滅亡した多くの国の一つにフル国という国が有り、その王族の一部が亡命して島根県の浜田へ漂着したとする説がかなり信憑性を帯びています。
高句麗の建国当時、未だ吉林省一帯は荒涼とした原野が広がる酷寒の血でもあったようです。
多種族の倭人系、モンゴル系などが小さな領分を保持していましたが、徐々に高句麗が朝鮮半島方面へ勢力を拡大、朝鮮半島に居た倭人たちが大量に日本へ流れ今度のでしょう、BC100年頃2万人前後だった日本の人口が弥生末期には60万近くと急激に増加しています。
新世紀前後から日本の歴史に大きく関わってくるのが朝鮮半島。
確かな年代は不明ですが、前漢末期~後漢の初期ごろ、中国北東部(旧満州。現内モンゴル、吉林省、黒竜江省当たり)に有った鮮卑や扶余国と中国の秦や漢の侵攻。
紀元前226年に中国を統一した秦も、始皇帝亡き後、統一後僅か20年で楚の攻略に失敗し、逆に楚の項羽に依って滅亡する事に成ります。
項羽に協力したのが秦に近い劉邦ですが、秦を倒した後、両社の講和会談が決裂、一旦故郷へ帰ろうとする項羽軍を劉邦軍が包囲し、項羽軍の故郷、楚の歌を歌って、項羽軍を降伏させた、四面楚歌は有名である。
項羽と共に秦を倒し、楚の項羽を降伏させた劉邦は漢王朝を設立、それまでの文字を持たなかったり、砂字や異形文字を用いるなど、バラバラだった表現、伝達を文字の統一(漢字)によってさらに強固な漢王朝の礎を築いた。
前漢時代、しばらくは、世界的に安定期に入り、人々は融合や再編、小競り合いを繰り返しながらも、しばし安寧の時期が続く。
春秋戦国時代からさまざまに発展した思想が、現代社会にまで強く影響を及ぼしているのは言うまでも有りませんが、とくに古代には強大な影響を与えたものと思われる
【孔子】BC. 551~BC. 479 (儒家の始祖)儒教
【孟子】BC. 372~BC. 289 (儒家)儒教
【筍子】戦国末期、に代表される王道楽土等を説く儒教。
【老子】BC. 406~BC. 531 (道家の始祖)道教
【荘子】戦国時代、一説にBC. 369~BC. 286に代表される道徳を説く道教。
【墨子】春秋戦国時代初期、一説にBC. 468ころ~BC. 376ころ神を信じ、博愛主義を唱える墨家(ぼっか)
仏教と、儒教、道教の中国3大宗教は現代に至るまで人々に大きな影響を与え、王道を説く儒教は特に為政者にもてはやされ一時は儒教や他の思想を凌ぐほどでした。
また、神や仙人を目指す神仙思想など様々な分野を含む大衆宗教といっても良い道教は、後に漢を滅亡に導いたとも言われます。
今は殆ど知られていない共栄共存共闘を図る墨家(ぼっか)思想は、共闘する小諸国の滅亡と共に消え去りますが、四散した多民族、特に弱者の中に息吐いて居た物と思われる。
この墨家の思想は弱者の倭人の中に長く強く根付いたのかも知れませんね。
春秋戦国時代末期に呉が滅亡、満州(鮮卑と朝鮮半島の間の広い範囲)に扶余国が誕生、大国では有ったが部族の寄せ集めのような国だったようです。
そしてその頃、呉の末裔が九州に球磨国を作ったと考えられます。
想定の範囲を超えませんが、鮮卑やペルシャ系、モンゴル系、倭人や原住部族を交えた、少数の民族を一つに束ねたのでしょう。
やがて後漢の光武帝によって大国としての扶余国は滅亡しますが、その後縮小されながらも残り続けます。
一方、同じ扶余国王の血を受け継ぐ朱蒙(チュモン)がBC35 新たな王国を建国、後の高句麗(コクリョ)=高麗の始まりです。
この時、同じ扶余系で滅んだ小さな国に「フル王国」が有り、滅亡前に脱出した王子の一行が日本の祖神〈布都=冨都御霊大神〉だと言われます。
倭人たち
中国大陸の倭人たちは、秦から漢にかけて、動乱期は動乱期で戦火に追われ、秦や漢が国家統一すると外敵として追われ、安住の地を求めて朝鮮半島や蓬莱の国を求めて九州、山陰、北陸まで移住した彼らは、其々に邑や国を作り、自分たちの世界を作って行きます。
大は熊襲や隼人、琉球の様に現在の1県を支配するほど。
小は家族や縁族単位に至りますが、新世紀頃には北陸や中部以西で朝鮮半島南部を含めて百余りに集約されたようです。
少し話が戻りますが、
大陸で起きた大きな流れは鮮卑を初め鳥恒、扶余、把婁、などを壊滅させて行き、吉林省東部~朝鮮半島へと追いつめて行きました。
漸く朝鮮半島近くに留まった彼らはいくつもの小国を作ります。
その中に小さくなった扶余国が有り、この国の第三王子朱蒙(東明聖王)が吉林省の集案を中心に朱蒙王国(後の高句麗)を建国したのがB.C37年。
建国神話には、扶余、高句麗、百済と共通していて、日本の神武東征もこれに類似していて真似たものと考えられます。
この時滅亡した多くの国の一つにフル国という国が有り、その王族の一部が亡命して島根県の浜田へ漂着したとする説がかなり信憑性を帯びています。
高句麗の建国当時、未だ吉林省一帯は荒涼とした原野が広がる酷寒の血でもあったようです。
多種族の倭人系、モンゴル系などが小さな領分を保持していましたが、徐々に高句麗が朝鮮半島方面へ勢力を拡大、朝鮮半島に居た倭人たちが大量に日本へ流れ今度のでしょう、BC100年頃2万人前後だった日本の人口が弥生末期には60万近くと急激に増加しています。