桃おやじの歴史散歩

我が町は 記紀に記載の七代孝霊天皇黒田廬戸宮の比定地。
古代史を中心に、奈良の観光や地域情報を気ままに書いています。

#桃おやじ の #歴史散歩 part2 「倭人」。vol-1(写真、挿絵は資料を引用しています)

2018-11-15 11:45:20 | 歴史
春秋戦国時代
紀元前1027年、中国が殷から周に変わります、封神演義の世界ですね。

しかし、周の治世も安定したのは僅かな期間でした。
創建当時 絶大な力を誇った周も200年もすると暴君、暗君が続き、徐々に力宇失っていきます。
紀元前770、周王朝の分裂を期に、春秋時代へと入って行きます。
年代的に倭人が長江流域を南下した時期に匹敵しますね。

この少し後に倭人の国と思われる呉、越が誕生しています。(楚の建国に関しては定かでは有りません)
ただ、同じ倭人でありながら、呉、越、楚、共にかなり仲が悪かったようですね。
春秋時代から戦国時代へと流れ込み(BC400頃」秦が台頭する頃、呉や越が順次滅亡を迎えます。
(一時は覇を唱えた楚は漢と共に周を滅ぼしますが〈項羽と劉邦〉、漢の劉邦の策に敗れ、やがて滅亡の道を辿ります。)
この3国が滅んだ後、移住したのが朝鮮半島であり、古代朝鮮の三韓(馬韓・弁韓・辰韓)だとする説が有り有力視されています。

話を倭人に戻しますが、どうやら、周の時代に入ってから徐々に海洋へ新天地を求めて移住する人たちが数を増していったようです。
特に、呉の滅亡機にその数が増えていますから、呉の太白の記述も的を得ています。

 倭人集団 
中国において弥生文化が発達したのは紀元前8-7世紀だとされます。
丁度 周の権力が弱まり、諸侯の力が増して睨み合いが始まる春秋時代へ入ったころに当たります。
黄河下流域の中原辺りが発祥とされ鉄器の製造と共にかなりのスピードで広がっていったと考えられます。
しかし、中国沿岸部から東シナ海、日本海に散在する平和主義の倭人たちにとってはあまり縁のないものだったのかも知れないですね。

しかし、周の時代が終わり、戦国時代を秦が制覇すると沿岸部への秦の侵攻が始まります。

中国本土を追われた倭人たちは、あるものはそのまま九州へ、
又ある者は途中の島々へ、
さらに多くの人たちは沿岸沿いに朝鮮半島や内蒙古、吉林省、黒龍江省、ウラジオストック、ハルピン、シベリア方面まで逃避を続けたと思われます。

この頃、日本や周辺の島々にたどり着いた人たちによって邑や国が各地に出来上がって行ったと考えられます。
新世紀頃には100ほどの国が出来ていたのでしょう。
3世紀ごろには30ほどに成り、大は琉球王国のような其々に国主、巫女が国を治めていたようです。
各地に大和王国の形態を持った国々が有ったことが多分に歴史家を惑わす結果に成ったと思われます。

 縄文人と弥生人 
少し話がとびとびに成りましたのでこの辺りで少しまとめてみたいと思います。
まず、日本に人が住みだしたのは約3万年前、南方から海流に乗って来たものと考えられます。
その後、中国大陸南部から同じく海を渡ってきた古代人やその後渡ってきた縄文人たちと交雑しながら九州から東北までの沿岸部を中心に日本独自の民族として家族、親族単位が集まってを作って行ったのでしょう。
しかし、約7300年前、鬼界島の大噴火に依って九州から関東までの陸上の生物がほぼ全滅したと考えられます。
*喜界島の大噴火は余りの大きさに殆どが海底に沈み東西約21km、南北約18kmの海底カルデラを形成。現在も活動中で、噴火が起きれば約1億人が被災する可能性が指摘されています。

そのころの人口が約2万人。
その後紀元前2百年位まで、東北を中心に5~20万人の範囲で増減を繰り返していたようです。
周の時代に沢山の縄文人(倭人)が九州や山陰に移住して来ますが、人数的には限られていたようですね。

周末期から秦の時代に入ると、戦乱で追われた倭人たちが集団で移住するようになります。

この頃までの日本人は弥生時代に入ってはいますが「縄文人」の形態を保っていたようです。

後漢に入ると、光武帝の侵攻が激しさを増し、鮮卑や扶余が壊滅状態に。
中国北東部に居た人達(古朝鮮?)が四散、一部は南下を余儀なくされ、朝鮮半島へ。
しかし、数百年の間に酷寒や度重なる迫害、飢えに彼らの風貌は大きく変化したようです。
寒さに耐えられるように目は細く、鼻は低く、体も一回り小さく…と言ったように。
やがて彼らは朝鮮半島から大量に朝鮮半島南部~日本海沿岸へと倭人のエリアを形成していく事に成ります。
この頃日本の人口が急激に増加、2-30万から5-60万に膨れ上がっています。
『日本書紀』では神武天皇が即位以前の己未の年、大和国で恭順に及ばなかった波哆丘岬の新城戸畔(にいきとべ)和珥坂下の居勢祝(こせはふり)臍見長柄丘岬の猪祝(いはふり)という三箇所の土蜘蛛をそれぞれ討ち取らせた。また高尾張邑にいた土蜘蛛を葛(かずら)をあんで作った網を使って討っており、そのことに因んで地名を葛城(かつらぎ)と改めた、と記している。高尾張邑にいた土蜘蛛については、体が侏儒のように小さく手足は長かったと描写されている。


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