「東井上(ひがしいね)」
田原本の東の端に位置する地域ですが、この一帯も勿論大きく広がる農村地帯です。
大和川の大きく湾曲する地に位置する東井上の集落、ここも集落の中を大和側が通り井上の集落を分断し東と西の井上に成ってしまいました。
川の東側の集落は今も用水が集落を囲む様に流れ、中世の面影を残して居ます。
大和川の西の袂に有る須佐廼男神社は皮の方から入ると入り口を見つけるのに一廻りしなければ分からない程入り組んでいます。
井上と書いてイネと読みます。井上も元は井の辺(イノヘ)が変化したもの。
井は大きな水溜りや池、その周りの集落の意味でしょう。
「西井上(にしいね)」
東井上と大和川を挟んだ反対側の西に位置するのが西井上、元は一つの集落。
古代には大和側は現在より西を流れていたものが、氾濫を繰り返すうちに集落を分断、現代に至ったと考えられます。
大和川流域の集落の殆どは氾濫を繰り返す大和川が、時には壊滅的な大きな災害をもたらしましたが、逆に豊かな土壌を育み、豪農の旧家が立ち並ぶほどの変化をもたらしたのでしょう。
大和川沿いに有る須佐廼男神社も小さいながら歴史を感じさせ、静かに佇む集落を見守って居ます。
「平田」
西井上の直ぐ南に隣接する小さな集落です。
ここに有ったとされる平田善興寺という寺の寺領であったようですが詳細は不明。
現在は堤防と道路の角を少し入った所に春日神社と小さな薬師堂が残って居ます。
「大木」
平田よりさらに南、近鉄田原本駅から見てま東、大和川の西に位置する集落が大木です。
集落には善照寺と仏光寺の二寺が有りますが、集落の東の端、大和川に接して堤防の袂にこじんまりと佇む小さな無住寺が融通念仏宗の「仏光寺」。
しかし、全く寺らしい感じは受けない普通の公民館風の建物です。
明治以降の記録が僅かに残り、創建や伝承等は全く不明ですが、本堂の阿弥陀如来は平安時代後期(12C)の作とされます。
その横に堤防に寄り添うように建つ観音堂には薬師三尊が安置され、室町時代前期の作。
大和側は幾度もその流れを変え、古代は集落の西を流れていたものと推察しますが、氾濫の度、村人が寺仏を持ち出し、仮安置を繰り返して来た様子がうかがえます。
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