「歴史」
田原本は、古くは十市郡田原本村。
田、原、本、何れも低地低湿地を表す言葉です。
古代、沖積地に出来た唐古 鍵の横を流れる水流がいつしか寺川と成って、顔を出した低湿地に人が住み始め、集落を形成、他の今迄紹介した地域と共に弥生時代に発達した物でしょう。
律令以来条里制で区切られ、多や村屋、鏡作或は皇家の屯倉と言った領地以外の殆どは、後に興福寺、春日大社、東大寺の荘園に成って居ます。
田原本村に集落が出来たのは古墳時代4C始めごろと考えられます。
田原本の北に位置する田原本保育園で見つかった羽子田遺跡を始めとする周囲の発掘調査で色々な事象が解って来て居ます。
又、絵図や他の町内各集落の歴史などと照らし合わせて、平野家当時の掘割や当時の様子も残されて居ます。
古代は近隣と共に豊かな土壌と水の便を合わせた豊かな農村地帯であり、多くは皇家や貴族の屯倉や荘園と成ってその財力を潤し、中世は興福寺等の荘園でありながら、僧兵の立場を取って免租や労役免除の恩恵にあずかって益々その勢力.財力を強め、中世以降も浄照寺の門前町、平野家の城下町、又、古代は下ッ道(中世に中街道)や伊勢街道などの交通の要所に当り、今里の浜の水運による交易と相まって、大和の大阪とまで言われる程の豊かさを呈した商業地域でもあります。
歴史と共に、田原本には数々の逸話も残って居ます。
「津島神社と町民広場」
田原本駅から南東へおおよそ50m、少しくねくねと廻りますが、大きな広場に出くわします。
広いスペースを確保した町民広場と中程から東に広がる社叢を有する津島神社。
町民広場は初恵比寿、祇園祭、盆踊りや十六市など色々なイベント(別項にて紹介)に活用され、普段は町民の憩いの場に成って居ます。
其の東に鎮座するのが津島神社。
神仏分離以前には「祇園社」。7月中旬、「槍の五千石平野は光る…」の田原本音頭にうたわれる祇園祭は、中和(奈良県中部)一の夏祭りとして、近隣市町村から大勢の見物客が訪れます。
「ぎおんさん」で親しまれる祇園祭ですが、隆盛の時は1週間ほど続けて行われ、館山や山車など盛大に取り行われ、その繁栄ぶりを譽示していましたが、今は7月17日に近い土、日の2日に成って居ます。
現在の祭神は、素戔鳴命、櫛名田姫命ですが、もともとは田原本村の産土神で、祇園精舎の守護神、牛頭天王を祀っていた様です。
天治2(1125)年の棟札の模写が有る事からも、かなり古くからあったと考えられます。
明治2年、神仏希釈に伴い、田原本城主平野氏の出身地尾張津島にちなみ津島神社と改称。
又、摂社の恵比寿神社では、毎年正月10日に「えべっさん」が盛大に行われ、ホイ籠も町内を練り歩きます。
<img src="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/96/53e242e58832bec7c73d7ec773a7a74d.jpg" border="0">
他の摂社には、品陀別命を祀る八幡神社、豊受大神を祀る豊受神社、春日神社、事代主神社、厳島神社、市杵島媛神社が情緒深げに佇んで居ます。
田原本は、古くは十市郡田原本村。
田、原、本、何れも低地低湿地を表す言葉です。
古代、沖積地に出来た唐古 鍵の横を流れる水流がいつしか寺川と成って、顔を出した低湿地に人が住み始め、集落を形成、他の今迄紹介した地域と共に弥生時代に発達した物でしょう。
律令以来条里制で区切られ、多や村屋、鏡作或は皇家の屯倉と言った領地以外の殆どは、後に興福寺、春日大社、東大寺の荘園に成って居ます。
田原本村に集落が出来たのは古墳時代4C始めごろと考えられます。
田原本の北に位置する田原本保育園で見つかった羽子田遺跡を始めとする周囲の発掘調査で色々な事象が解って来て居ます。
又、絵図や他の町内各集落の歴史などと照らし合わせて、平野家当時の掘割や当時の様子も残されて居ます。
古代は近隣と共に豊かな土壌と水の便を合わせた豊かな農村地帯であり、多くは皇家や貴族の屯倉や荘園と成ってその財力を潤し、中世は興福寺等の荘園でありながら、僧兵の立場を取って免租や労役免除の恩恵にあずかって益々その勢力.財力を強め、中世以降も浄照寺の門前町、平野家の城下町、又、古代は下ッ道(中世に中街道)や伊勢街道などの交通の要所に当り、今里の浜の水運による交易と相まって、大和の大阪とまで言われる程の豊かさを呈した商業地域でもあります。
歴史と共に、田原本には数々の逸話も残って居ます。
「津島神社と町民広場」
田原本駅から南東へおおよそ50m、少しくねくねと廻りますが、大きな広場に出くわします。
広いスペースを確保した町民広場と中程から東に広がる社叢を有する津島神社。
町民広場は初恵比寿、祇園祭、盆踊りや十六市など色々なイベント(別項にて紹介)に活用され、普段は町民の憩いの場に成って居ます。
其の東に鎮座するのが津島神社。
神仏分離以前には「祇園社」。7月中旬、「槍の五千石平野は光る…」の田原本音頭にうたわれる祇園祭は、中和(奈良県中部)一の夏祭りとして、近隣市町村から大勢の見物客が訪れます。
「ぎおんさん」で親しまれる祇園祭ですが、隆盛の時は1週間ほど続けて行われ、館山や山車など盛大に取り行われ、その繁栄ぶりを譽示していましたが、今は7月17日に近い土、日の2日に成って居ます。
現在の祭神は、素戔鳴命、櫛名田姫命ですが、もともとは田原本村の産土神で、祇園精舎の守護神、牛頭天王を祀っていた様です。
天治2(1125)年の棟札の模写が有る事からも、かなり古くからあったと考えられます。
明治2年、神仏希釈に伴い、田原本城主平野氏の出身地尾張津島にちなみ津島神社と改称。
又、摂社の恵比寿神社では、毎年正月10日に「えべっさん」が盛大に行われ、ホイ籠も町内を練り歩きます。
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他の摂社には、品陀別命を祀る八幡神社、豊受大神を祀る豊受神社、春日神社、事代主神社、厳島神社、市杵島媛神社が情緒深げに佇んで居ます。