桃おやじの歴史散歩

我が町は 記紀に記載の七代孝霊天皇黒田廬戸宮の比定地。
古代史を中心に、奈良の観光や地域情報を気ままに書いています。

田原本町の「歴史」と「津島神社」 奈良 田原本

2017-10-28 19:41:36 | 歴史
「歴史」

田原本は、古くは十市郡田原本村。
田、原、本、何れも低地低湿地を表す言葉です。

古代、沖積地に出来た唐古 鍵の横を流れる水流がいつしか寺川と成って、顔を出した低湿地に人が住み始め、集落を形成、他の今迄紹介した地域と共に弥生時代に発達した物でしょう。

  律令以来条里制で区切られ、多や村屋、鏡作或は皇家の屯倉と言った領地以外の殆どは、後に興福寺、春日大社、東大寺の荘園に成って居ます。

田原本村に集落が出来たのは古墳時代4C始めごろと考えられます。

田原本の北に位置する田原本保育園で見つかった羽子田遺跡を始めとする周囲の発掘調査で色々な事象が解って来て居ます。

 又、絵図や他の町内各集落の歴史などと照らし合わせて、平野家当時の掘割や当時の様子も残されて居ます。

古代は近隣と共に豊かな土壌と水の便を合わせた豊かな農村地帯であり、多くは皇家や貴族の屯倉や荘園と成ってその財力を潤し、中世は興福寺等の荘園でありながら、僧兵の立場を取って免租や労役免除の恩恵にあずかって益々その勢力.財力を強め、中世以降も浄照寺の門前町、平野家の城下町、又、古代は下ッ道(中世に中街道)や伊勢街道などの交通の要所に当り、今里の浜の水運による交易と相まって、大和の大阪とまで言われる程の豊かさを呈した商業地域でもあります。

歴史と共に、田原本には数々の逸話も残って居ます。

「津島神社と町民広場」
田原本駅から南東へおおよそ50m、少しくねくねと廻りますが、大きな広場に出くわします。

広いスペースを確保した町民広場と中程から東に広がる社叢を有する津島神社。

  町民広場は初恵比寿、祇園祭、盆踊りや十六市など色々なイベント(別項にて紹介)に活用され、普段は町民の憩いの場に成って居ます。

其の東に鎮座するのが津島神社。

 神仏分離以前には「祇園社」。7月中旬、「槍の五千石平野は光る…」の田原本音頭にうたわれる祇園祭は、中和(奈良県中部)一の夏祭りとして、近隣市町村から大勢の見物客が訪れます。


「ぎおんさん」で親しまれる祇園祭ですが、隆盛の時は1週間ほど続けて行われ、館山や山車など盛大に取り行われ、その繁栄ぶりを譽示していましたが、今は7月17日に近い土、日の2日に成って居ます。

現在の祭神は、素戔鳴命、櫛名田姫命ですが、もともとは田原本村の産土神で、祇園精舎の守護神、牛頭天王を祀っていた様です。

天治2(1125)年の棟札の模写が有る事からも、かなり古くからあったと考えられます。

明治2年、神仏希釈に伴い、田原本城主平野氏の出身地尾張津島にちなみ津島神社と改称。

 又、摂社の恵比寿神社では、毎年正月10日に「えべっさん」が盛大に行われ、ホイ籠も町内を練り歩きます。
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  他の摂社には、品陀別命を祀る八幡神社、豊受大神を祀る豊受神社、春日神社、事代主神社、厳島神社、市杵島媛神社が情緒深げに佇んで居ます。

「田原本駅とその周辺」 奈良、田原本

2017-10-20 22:00:12 | 地域
">「田原本駅とその周辺」

国道二十四号線千代、坂手、坂手北から西へ約1k弱が田原本の新しい中心地。
中世の寺内町(陣屋町)の西に当たり鉄道の開通と共に発展した当時としては新興地に成ります。

以前、車では道が狭く非常に入り難かったのですが、ロータリーが整備され、県道桜井ー法隆寺線から簡単に入れるようになりました。

田原本駅は二つあって、橿原線の田原本駅と、田原本線の西田原本駅が有り、約50mの間を雨除けも設置され安全に通る事が出来るようになり、街の玄関口の様相を呈して居ます。


広いロータリーには、案内板なども設置され、イベント等ではイルミネーションも飾られ、田原本駅から西田原本駅の間を彩ります。

田原本駅の東出口の正面のすぐ前に「観光ステーション磯城の道」が訪れる人の案内や、ボランティアガイドの人達の取次など、この街の案内役を務めて居ます。

近代的な駅周辺を一歩離れると、新旧入り混じった町並みの不思議な空間に出会う事が出来ます。

「旭町、恵比寿通り、茶町付近」
中世から近世への移り変わりの時期、鉄道が出来 メインに成って行ったのが 駅前から街の中心部へと伸びるこの一帯。
飲食店、精肉店、八百屋、洋服屋、薬局、飲み屋など様々な店が軒を並べているのが特徴です。

陣屋町、門前町として栄えた頃、この付近には田園が広がっていたのでしょう。

鉄道が出来、駅が作られてから急速に表裏が入れ替わった物と思われます。

古い歴史の割には近代的な様相を見せるこの一帯、そんな中にも所々顔をのぞかせる旧家や背割り水路など見る物を楽しませてくれます。

しかし時代と共に2軒あった映画館や、多くの商店が姿を消し寂しさを増す中、地域活性の取り組みも有って、少しづつ新規の開店も有り、僅かながらもにぎわいを取り戻しつつあるようです。

「鏡作神社と唐子.鍵遺跡、黒田廬戸宮」 奈良、田原本

2017-10-19 22:39:27 | 歴史
鏡作神社と唐古.鍵遺跡、黒田廬戸宮

唐子鍵遺跡」に人が生業を始めたのが紀元前4世紀ごろ。
当時3つの小さな集落が農業を営んでいました。

この集落が大きく一つに統合され都市化したのが1世紀中ごろ。

丁度、「饒速日尊(天照国照彦天火明神櫛玉饒速日尊、幼名フル、大歳、大御霊神、(ヤマト)大国主、大物主)」がヤマトに入った時期と一致します。
この頃から「銅鐸」の鋳造が始まったと考えられ、遺跡から鋳造所跡が発掘されています。
用途はともかく「大物主の象徴」であったのでしょう。

この「古代大和王権」から後、都は橿原御所近辺に移り「葛城王朝」が形成されたと思われますが、その間も唐古.鍵は経済の中心として発達を続けたのでしょう。

2世紀後半、「倭の大乱」が勃発。
戦時体制をとった孝霊天皇は黒田に都を移し「(推定現黒田尋常小学校跡)黒田廬戸宮」に遷都。

凡そ2-30年に及ぶ内戦が和解し、「倭迹々日百襲媛(ヤマトトトヒモモソヒメ)」を擁立して倭国と日ノ本を一体化し、名前を「大倭(ヤマト)、日本(ヤマト)王国」と表記。
再び都を唐古.鍵に移したと考えられます(唐古.鍵遺跡の第二次拡張期)。

「比売巫女(ヒメミコ)」となった百襲媛は大物主の妻の肩書を得て「天照」となり女帝として 「倭、日ノ本」統一国家の盟主として唐子鍵の地で政を行ったと考えられます。
後、手狭になった「唐古.鍵」から「巻向」へ「祭祀、政治」の中心を移し以降「磯城(三輪)王朝」へと。

百襲媛(卑弥呼)がその象徴としたのが鏡。

卑弥呼は大物主の象徴の銅鐸を鋳潰し破棄させ、自分が天照で有る象徴として石凝姥命(伊斯許理度売命、イシゴリドメ命)に鋳造させたのが八咫鏡。

石凝姥命は大物主が佐賀より連れて来た(饒速日が大和へ連れて入った随伴者)天糠戸の子供(あるいは孫)に当たり、唐古.鍵遺跡に近い新たな丘陵地に工房を作らせたのが八尾鏡作り神社を中心とする鏡作り4社と考えられます。

これらから、黒田廬戸宮―唐古.鍵―鏡作り野は深い関連性が伺えます。

田原本町旧町南東部「南町、酒井町、材木町、味間町」 奈良県田原本町

2017-10-17 08:48:58 | 地域
田原本町中街道周辺

田原本の旧町の東側を中世の中街道が通り、新旧入り混じった景観を呈して居ます。

特に江戸時代の中街道の通る南町から材木町に掛けて、中世の景観を良く残し、隆盛を極めた頃の田原本を垣間見る事が出来ます。

「樂田寺」 
津島神社の東50m程の所、下ッ道に面して極こじんまりとしたお寺が佇んで居ます。
融通念仏宗雨寶山「樂田寺」、古くは田原本寺、創建は天平29年(729年)。
長い寺歴を持つ古刹ですが、時代に翻弄され、宗派もその時折に変わって今は融通念仏宗に成って居ます。
時代の変遷に伴い、数々の寺宝と言うべきものも多数流出、
平安時代、本尊で有った「十一面観音立像」二体は、一つは現在本誓寺に、もう一つは南坂手の観音堂に、
鎌倉時代の国重文「絹本着色法華経曼荼羅図四幅」は湖西市の本興寺に、室町時代の板絵両界曼荼羅は箸尾の大福寺に、と。
現在は江戸時代の阿弥陀如来座像のほか、県指定の絹本着色善女龍図が蔵されて居ます。

樂田寺を中に、今は少し町内側へ折れまがって居ますが、南方、寺川堤防脇から中学校の横を入ると、
まずは行者堂の粗末な建物に突き当ります(南町)。

大正3年、風邪の大流行を受けて建てられた粗末な建物ですが、素朴な信仰の跡が伺える貴重な遺産です。

突き当って少し西に振って風月堂の旧本店の前を、直ぐに又東へ曲がると、先に紹介した樂田寺の前へ(堺町)。

樂田寺の前を過ぎると、商家の面影を濃く残す鍵岡家が並ぶ材木町に入ります。

旧家の並ぶ道を少し北へ進むと、西に浄照寺の楼門が見える素敵な空間に出会います。

さらに北へ進むと、旧道から広い道筋へと変化、水仙会館から町役場へと続く道ですが、その東側一帯が陣屋町

町役場の建設に伴って、陣屋跡の景観はほとんど失われましたが、役場との境界にわずかにその後を認めり事が出来ます。