桃おやじの歴史散歩

我が町は 記紀に記載の七代孝霊天皇黒田廬戸宮の比定地。
古代史を中心に、奈良の観光や地域情報を気ままに書いています。

「千代、本光明寺」 奈良県田原本町千代

2017-09-02 21:09:38 | 地域
千代
田原本町千代地城は、西は寺川、東は国道二十四号線を挟んで味間や笠形、伊与戸、大木と複雑に接する。
国道24号線の千代北交差点付近から千代南交差点付近。北は坂手、南は橿原市までの割と広い地域に成ります。
旧八条村(城下郡路東十八条一里から同二里付近に位置していて、十八条の「十」を略した村名)と阿部田村が合併してできた大字で、南千代(約120戸)、千代公苑(50戸弱)から成り、県道、国道わきには工場や商業施設が立ち並ぶ新旧入り混じった所です。

また、和銅以前は五歩(坪)をもって一代とし、二千五百歩を五百代、五千坪の地域を千代(ちしろ)といった記録から、古代の条里制の遺構とも受け止められています。

南千代(旧集落)のほぼ中央より南寄りに本光明寺を始め、妙稱寺、明善寺、春日神社等が集中して居ます。

其の中、春日神社と並び立つのが本光明寺、元は一緒だったのでしょう門の中は神社と行け行けに成って居ます。

真言律宗無量山「本光明寺」

旧磯城郡多村八条中垣内(はっちょう なかかいと)の勝楽寺から名前を本光明寺に改称。

中の仏像は、天理市森本町に有った物を、西大寺を経て、この寺に移したとされます。
「本尊は空海座像」で室町時代の作 

昔、庄屋が有る日、蛇を殺そうとした時旅の層が通りかかり、「そんな殺生はおやめなさい」と戒めました。
庄屋は腹を立て、僧の下あごを鎌で切りつけ傷を負わせました。
僧は「お前の仕業は七代祟るぞ、代々片目の子が生まれ、八代目に漸く祟りは消えるだろう」と言って何処かへ消えたそうです。
すると、庄屋の片目が急に痛みだしたので、大師堂へ行ってお祈りをすると、本尊の太子像が下顎から血を流していた。
さては大師様が化けて居られたのかと、一生懸命信仰する様に成ったそうです。

因みに安置されて居るお大師さんの像のあごに傷跡が今も残っています。

国重文の十一面観音立像(174㎝)は平安中期の桧の一本作り。
薬師如来座像は平安中期の作とされます。

春日神社

横の春日神社にも謂れが有り、本殿横の千代社が式内社千代神社に批定。

天長年中(824~834)に洪水で流出、同町大安寺の森市神社の境内に祭られているそうです。

流出後、春日神社を祀り、千代神社を末社として残した事から、境内社が式内社で本殿は普通の神社と言う本末転倒の結果に成った様です。


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