「植物だって生きているんだから菜食主義なんておかしい、肉だって感謝して食べればいいんだ」と思う方へ。
あなたが人肉食主義者に会ったときに、豚や牛だって生きているんだから人間を食べないのはおかしい、人間の肉だって感謝して食べればいいんだ」と言われたらなんと答えるのでしょうか?
或は、「猫肉を食べない」「犬肉を食べない」人に向かって、「犬猫も生きているんだから、牛や豚と同じように感謝して食えばいいんだ」と思うのでしょうか?
各人に線引きがあります。その線の位置が少し違うのです。
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上の発言は、kawauso999さんの記事からのを引用です。この記事、特に最後の「各人に線引きがあります。その線の位置が少し違うのです。」という言葉にハッとさせられました。
わたしが以前『「ベジタリアン」という言葉の問題点』で指摘したように、わたしが気になっているのが「菜食と肉食」という二極分化。肉食の正当性を問われた肉食者がdefensive(防衛的)になったり攻撃的になったりする傾向があるのは、「菜食 vs. 肉食」という二極化された枠組みの中で食志向を捉えているからではないでしょうか?戦争やチーム・スポーツのような二極化の枠組みで考える議論では、「非難&攻撃 vs. 防御&反撃」という生産性のない議論に終始しがちのような気がします。平和主義者を自認する”菜食者”が多いようだけれど、「肉食をやめて菜食を!」というような「菜食と肉食」という二極化枠組みで食志向を判断していると皮肉にも、「菜食 vs. 肉食」という対立土壌を無意識のうちに作り出しているように感じます。菜食者が「肉食をやめて菜食を!」と言うときの前提にあるのは、"善(菜食)"と"悪(肉食)"ですからね。
しかし、食志向というのは肉食と菜食の二種類だけではありません。ご存知のように、世界中に存在する食志向というのは様々です。こららの食志向を大きく二つに分類すると肉食と菜食に分かれるのかもしれないけれど、このとき「肉を食べるか、食べないか」を分類基準にしているから、肉を食べることの是非を巡って”肉食者”と”菜食者”の間で不毛な摩擦が起きるのだと思います。
そこでわたしが提案したいのが、”パラダイム・シフト"。「菜食 vs. 肉食」という枠組みで食志向を捉えるのではなく、例えば”肉食者”は”肉食者”としての枠組みの中で自分の食志向について考える事が可能です。一口に”肉食”と言っても、肉食には様々な形態があります。「菜食 vs. 肉食」という枠組みで肉食の是非を考えるだけではなく、「肉食をする」という前提の下に以下のような問いについて考えることも可能です。
「牛、豚、鶏の肉は市場に出回っているのに、なぜ人間や犬猫の肉は市場に出回っていないのか?」
「工場制畜産で生産された肉が健康面、倫理面、環境面で問題なら、家族経営で生産されたオーガニック・ミートならOKなのか?卵だったら放し飼いで生産されたのはOKか?」
「現代社会で肉を食べるのと、昔、例えばネイティブ・アメリカンが狩をしてその肉を食していたのとでは、肉食の文化的な意味、それに環境や健康への影響などについて違いがあるのか?」
これらの問いのように、"肉食者"が肉食自体について考えることが可能です。このような思考方法を取ったほうが、自分の食生活に対してもっと生産的なアプローチができるような気がします。
以上、食志向について考える場合、「菜食 vs. 肉食」、つまり、どちらが(より)善でどちらが(より)悪かという単純な二極分化から脱却して思考枠組みを変えること、つまり”パラダイム・シフト”をお勧めします。「菜食 vs. 肉食」という枠組みだけで考えていると、自分(味方)の食志向の正当性と他者(敵)の食志向のあら捜しに終始してしまいがちになるような気がします。
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あなたが人肉食主義者に会ったときに、豚や牛だって生きているんだから人間を食べないのはおかしい、人間の肉だって感謝して食べればいいんだ」と言われたらなんと答えるのでしょうか?
或は、「猫肉を食べない」「犬肉を食べない」人に向かって、「犬猫も生きているんだから、牛や豚と同じように感謝して食えばいいんだ」と思うのでしょうか?
各人に線引きがあります。その線の位置が少し違うのです。
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上の発言は、kawauso999さんの記事からのを引用です。この記事、特に最後の「各人に線引きがあります。その線の位置が少し違うのです。」という言葉にハッとさせられました。
わたしが以前『「ベジタリアン」という言葉の問題点』で指摘したように、わたしが気になっているのが「菜食と肉食」という二極分化。肉食の正当性を問われた肉食者がdefensive(防衛的)になったり攻撃的になったりする傾向があるのは、「菜食 vs. 肉食」という二極化された枠組みの中で食志向を捉えているからではないでしょうか?戦争やチーム・スポーツのような二極化の枠組みで考える議論では、「非難&攻撃 vs. 防御&反撃」という生産性のない議論に終始しがちのような気がします。平和主義者を自認する”菜食者”が多いようだけれど、「肉食をやめて菜食を!」というような「菜食と肉食」という二極化枠組みで食志向を判断していると皮肉にも、「菜食 vs. 肉食」という対立土壌を無意識のうちに作り出しているように感じます。菜食者が「肉食をやめて菜食を!」と言うときの前提にあるのは、"善(菜食)"と"悪(肉食)"ですからね。
しかし、食志向というのは肉食と菜食の二種類だけではありません。ご存知のように、世界中に存在する食志向というのは様々です。こららの食志向を大きく二つに分類すると肉食と菜食に分かれるのかもしれないけれど、このとき「肉を食べるか、食べないか」を分類基準にしているから、肉を食べることの是非を巡って”肉食者”と”菜食者”の間で不毛な摩擦が起きるのだと思います。
そこでわたしが提案したいのが、”パラダイム・シフト"。「菜食 vs. 肉食」という枠組みで食志向を捉えるのではなく、例えば”肉食者”は”肉食者”としての枠組みの中で自分の食志向について考える事が可能です。一口に”肉食”と言っても、肉食には様々な形態があります。「菜食 vs. 肉食」という枠組みで肉食の是非を考えるだけではなく、「肉食をする」という前提の下に以下のような問いについて考えることも可能です。
「牛、豚、鶏の肉は市場に出回っているのに、なぜ人間や犬猫の肉は市場に出回っていないのか?」
「工場制畜産で生産された肉が健康面、倫理面、環境面で問題なら、家族経営で生産されたオーガニック・ミートならOKなのか?卵だったら放し飼いで生産されたのはOKか?」
「現代社会で肉を食べるのと、昔、例えばネイティブ・アメリカンが狩をしてその肉を食していたのとでは、肉食の文化的な意味、それに環境や健康への影響などについて違いがあるのか?」
これらの問いのように、"肉食者"が肉食自体について考えることが可能です。このような思考方法を取ったほうが、自分の食生活に対してもっと生産的なアプローチができるような気がします。
以上、食志向について考える場合、「菜食 vs. 肉食」、つまり、どちらが(より)善でどちらが(より)悪かという単純な二極分化から脱却して思考枠組みを変えること、つまり”パラダイム・シフト”をお勧めします。「菜食 vs. 肉食」という枠組みだけで考えていると、自分(味方)の食志向の正当性と他者(敵)の食志向のあら捜しに終始してしまいがちになるような気がします。
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こちらでもベジタリアンに対して、「植物だって生きているんだから菜食主義なんておかしい、肉だって感謝して食べればいいんだ」という考え方を持ってる人によくあいます。耳を傾けてくれる人には説明をしますが、大体は怒って耳を傾けません。Freekみたいな扱い方をされたりします(KFCのボイコット運動が特にそうです) 世界中がベジタリアンになる事は不可能かもしれません。だったら、少しでも動物達が痛みを知らずに天国へ行ける環境を作って行って欲しいとも思います。だから活動続けてるんです。肉食社会がどれだけ環境を汚してるかもあると思います。
「単純な二極分化」という表現が今までの僕にはなかったので、これからは積極的に使わせていただきますね。