カリフォオルニア大学バークリー校でジャーナリズムを教えているMichael Pollan教授の最新作、『The Omnivore's Dilemma(雑食者のジレンマ)』という本を下宿先の方から強引に(?)借りました。で、まず読んでみたのが第17章、『The Ethics of Eating Animals(肉食の倫理)』。この章は、肉食と動物の扱いに関するわたしの次のような疑問点をかなり明快にしてくれました。
1. 人間が動物を殺すこと自体は「悪」か?現代アメリカの食肉処理場(slaughterhouse)における動物の扱いが倫理違反だとしても、例えばネイティブ・アメリカンが以前行っていたバッファロー狩りも「悪」か?
2. 『人間と猫の気持ちは一致する?』で言ったように、人間がいいと思うことは動物にとってもいいのか?
3. 『ベジタリアンへ質問』で述べたイチゴと豚肉の選択、ベジタリアンはそれでもイチゴを選択すべきなのか?
この章の結論、つまりPollan教授の肉食のスタンスは、「人間が動物を殺してその肉を食べること自体は『悪』ではなく、動物を人道的に育てて殺すことは進化を含めた自然界のworking(作用)の一部であり、むしろ望ましい」ということ。効率主義に則った現在の食肉生産方法は問題外だけれど、動物を殺してその肉を食べること自体は「悪」ではないのです。と言うと、動物の権利主張者から非難轟々?
Pollan教授によると、動物の権利主張者の問題点は、人間社会用に作られた道徳観を自然界にも適用しようとしていること。「人間が動物を殺すのは悪」というのが道徳だとしても、お互いに食う食われるの食物連鎖(food chain)で成り立っているのが自然界。牛や豚などのいくつかの動物が家畜化したのは、人間が無理やり家畜にしたのではなく、進化の結果。それらの動物が、家畜になる方が野生のままでいるよりもサバイバルできるということが本能的に(?)分かったからだそうです。こうして、人間がそのような家畜に食べ物やprotection(住みかなど)を与え、家畜は人間に乳や卵、それに肉を与えるという交換条件が成立。つまり、自然界における共存関係が成立したのです。このような交換条件の下、北アメリカでは絶滅しかかった野生の狼とは対照的に、牛、豚、鶏、犬、猫などの家畜は繁栄したのだとか。つまり、牛、豚、鶏などが家畜となってその肉を人間に提供すること自体は、自然淘汰というか進化の結果であって、その方が野生のままでいるよりも種としてサバイバルできるのだそうです。このような自然界の成り立ちを無視して「人間が動物を殺すのは悪」という道徳観が自然界においても通用すると思うのは、人間中心主義的な考え。偏狭で、自然界から分離した都会で生まれたイデオロギーだそうです。
とは言ったものの、Pollan教授は「どんな肉でもどんどん食べてもいいよ」と言っているわけではもちろんありません。条件付で肉食はOKという言うか、自然界のバランスを維持するには肉食は望ましい場合もある、と主張しています。肉食というと、肉の生産過程から目を背けて肉を食べ続けるか、完全な肉断ちをして菜食主義になるか、の二者選択の傾向が強いけれど、Pollann教授は第3の選択肢を提供していると言えるのかもしれません。
わたし自身はこの章を読んでも、じゃあ『ビジタリアンへ質問』で紹介したオーガニック・ポークを食べよう、とは思いません。どんな肉だって「動物の死体」は食べる気はしないし、工場制畜産反対という倫理面や環境面だけではなく、健康面からも肉を食べようとは思いません。
それに、いくら家畜動物を食べることは「悪」ではないとは言え、なぜアメリカでは特定の家畜動物(牛、豚、鶏)は食べ、他の家畜動物(犬、猫、馬)は食べないようになったのか、ということはPollan教授は説明していません。牛、豚、鶏の肉を人間が食べることが自然界の共存のルールに則っているとするならば、なぜ犬や猫などの肉を食べるのがタブーなのでしょうか?
自分で人道的に育てた家畜動物を殺して食べることは、自然界のルールに則った正当な行為になるのか?たとえ正当だとしても、「自分で動物を殺すなんて、そんな残酷なことしてまで肉を食べようなんて思わない!」なんて言ってられるのは、自然界からかけ離れた都会(町)に「のほほん」と住み、野生動物から危害を加えられる心配がないから?もし以前のネイティブ・アメリカンのように肉食が必要かつ、自然界のバランスの面からも望ましい場合には、動物を殺すこと自体は残酷でもなんでもないのでしょう。
わたしは肉食をするつもりはないけれど、肉食の要/不要は時や場所によるのであって、場合によっては自分で動物を殺して食べることが生命体中心主義の観点からは望ましい時もあるのかな、と思いました。人間の道徳観念は、自然界の法則には通用しないのですね。
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1. 人間が動物を殺すこと自体は「悪」か?現代アメリカの食肉処理場(slaughterhouse)における動物の扱いが倫理違反だとしても、例えばネイティブ・アメリカンが以前行っていたバッファロー狩りも「悪」か?
2. 『人間と猫の気持ちは一致する?』で言ったように、人間がいいと思うことは動物にとってもいいのか?
3. 『ベジタリアンへ質問』で述べたイチゴと豚肉の選択、ベジタリアンはそれでもイチゴを選択すべきなのか?
この章の結論、つまりPollan教授の肉食のスタンスは、「人間が動物を殺してその肉を食べること自体は『悪』ではなく、動物を人道的に育てて殺すことは進化を含めた自然界のworking(作用)の一部であり、むしろ望ましい」ということ。効率主義に則った現在の食肉生産方法は問題外だけれど、動物を殺してその肉を食べること自体は「悪」ではないのです。と言うと、動物の権利主張者から非難轟々?
Pollan教授によると、動物の権利主張者の問題点は、人間社会用に作られた道徳観を自然界にも適用しようとしていること。「人間が動物を殺すのは悪」というのが道徳だとしても、お互いに食う食われるの食物連鎖(food chain)で成り立っているのが自然界。牛や豚などのいくつかの動物が家畜化したのは、人間が無理やり家畜にしたのではなく、進化の結果。それらの動物が、家畜になる方が野生のままでいるよりもサバイバルできるということが本能的に(?)分かったからだそうです。こうして、人間がそのような家畜に食べ物やprotection(住みかなど)を与え、家畜は人間に乳や卵、それに肉を与えるという交換条件が成立。つまり、自然界における共存関係が成立したのです。このような交換条件の下、北アメリカでは絶滅しかかった野生の狼とは対照的に、牛、豚、鶏、犬、猫などの家畜は繁栄したのだとか。つまり、牛、豚、鶏などが家畜となってその肉を人間に提供すること自体は、自然淘汰というか進化の結果であって、その方が野生のままでいるよりも種としてサバイバルできるのだそうです。このような自然界の成り立ちを無視して「人間が動物を殺すのは悪」という道徳観が自然界においても通用すると思うのは、人間中心主義的な考え。偏狭で、自然界から分離した都会で生まれたイデオロギーだそうです。
とは言ったものの、Pollan教授は「どんな肉でもどんどん食べてもいいよ」と言っているわけではもちろんありません。条件付で肉食はOKという言うか、自然界のバランスを維持するには肉食は望ましい場合もある、と主張しています。肉食というと、肉の生産過程から目を背けて肉を食べ続けるか、完全な肉断ちをして菜食主義になるか、の二者選択の傾向が強いけれど、Pollann教授は第3の選択肢を提供していると言えるのかもしれません。
わたし自身はこの章を読んでも、じゃあ『ビジタリアンへ質問』で紹介したオーガニック・ポークを食べよう、とは思いません。どんな肉だって「動物の死体」は食べる気はしないし、工場制畜産反対という倫理面や環境面だけではなく、健康面からも肉を食べようとは思いません。
それに、いくら家畜動物を食べることは「悪」ではないとは言え、なぜアメリカでは特定の家畜動物(牛、豚、鶏)は食べ、他の家畜動物(犬、猫、馬)は食べないようになったのか、ということはPollan教授は説明していません。牛、豚、鶏の肉を人間が食べることが自然界の共存のルールに則っているとするならば、なぜ犬や猫などの肉を食べるのがタブーなのでしょうか?
自分で人道的に育てた家畜動物を殺して食べることは、自然界のルールに則った正当な行為になるのか?たとえ正当だとしても、「自分で動物を殺すなんて、そんな残酷なことしてまで肉を食べようなんて思わない!」なんて言ってられるのは、自然界からかけ離れた都会(町)に「のほほん」と住み、野生動物から危害を加えられる心配がないから?もし以前のネイティブ・アメリカンのように肉食が必要かつ、自然界のバランスの面からも望ましい場合には、動物を殺すこと自体は残酷でもなんでもないのでしょう。
わたしは肉食をするつもりはないけれど、肉食の要/不要は時や場所によるのであって、場合によっては自分で動物を殺して食べることが生命体中心主義の観点からは望ましい時もあるのかな、と思いました。人間の道徳観念は、自然界の法則には通用しないのですね。
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と言うことは、ライオンは草食から肉食へ進化した、ということなんでしょうか?現在肉食でもずっと肉食のままとは限らないかもしれませんね。
Pollan教授は基本的に肉は食べるようですよ。この章を読んで、「じゃあ、工場畜産ではなくて家族牧場でできたオーガニックの肉なら食べてもいいんだ」と思う人はいるかもしれませんね。
Tomさん、
>「都会で育ったイデオロギー」という部分は、かなり心にぐさりときて、確かにそうかもと狼狽せずにはいられませんでした<
わたしもそうです。都会のエアコンが効いたコーヒー・ハウスで悠々としているから、「動物殺して食べるなんてサイテー」なんて言ってられるのかな、と思ったりします。
>動物にも感情はあります。自分、愛するパートナー、子が何者かに食べられようとしている恐怖は想像を絶します。ただ、ライオンとシマウマの関係はもっと純粋で崇高なものを抱かずにはいられません<
Pollan教授は、「pain」と「suffering」の区別をつける必要がある、とおっしゃってます。動物にはpainがあってsufferingがないけれど、人間は言語能力があるためにsufferingする、みたいなことを言ってます。言語能力はsufferingを緩和する効果もあるそうですが・・・。何はともあれ、「食物連鎖でシマウマがライオンに殺されるのなら、人間がシマウマ殺してもいいじゃない」と言うのはちょっと違うかなと思います。
>エスキモーの人に代表されるように、周りに植物が育たない環境で生活している人は肉食をするしかないかもしれません<
「地産地消」が理想なら、エスキモーが食べるのは肉しかないのかも・・・。
>皮肉なことに人間が肉食を始めたことが、人間をそこに移住させた可能性があります<
さすがTomさん、鋭いですね。Pollan教授も、ニューイングランド地方に人が住めるようになったのは肉食のおかげだと言っています。岩がゴロゴロしていて丘が多く、食物が育つ環境ではないそうですね。
この章を読んでもわたしの食志向は根本的には変わりませんが、自分の志向がどこでも誰にでも当てはまるわけではないのかも、とは思いました。
また教授曰くの「動物を人道的に育てて殺すことは進化を含めた自然界のworking(作用)の一部であり、むしろ望ましい」という倫理観もまた、人間のつくりあげたものでしかありません。感情がないと決めつけているのも解せませんね。
しかしまあ確かに自分の思考や志向がいつも正しくどういうケースにでも当てはまると考えるのは大変危険ですよね。そういう意味からすると一考の価値はありますし理解はできました。ほとんど同意はできませんでしたが。
この記事を読んで数日間、新しい側面から物事を考えることができて良かったし、こういう問題についてはなかなか議論に値するような新しい発想も少ないですからね、考えるのは楽しかったです。
全く余談ですが。
以前しんのすけさんがウチのブログのコメント欄でご紹介くださったアレッポの石鹸、最近使っていますよ。じゃんぐる石鹸が品切れで、良いチャンスなのでアレッポにしてみました。近所で入手できるし、デカイし安いし、しかも洗い上がりもステキですね。気に入りました。ありがとう!
ボージーさんがおっしゃる通り、特にこのような高度な論議の場合には、わたしが適当にまとめた記事を鵜呑みにするよりは、まずご自分で本を読まれたほうがいいと思います。「動物を人道的に育てて殺すことは進化を含めた自然界のworking(作用)の一部であり、むしろ望ましい」というのは、わたしがこの章の結論をわたしの言葉でまとめたものなので、実際教授が言ったものではありません。何をどう言ったかというのは、それを言った文脈というのがあるので、その文脈も汲み取って教授の主張を評価するのがいいと思います。
ただはっきり言えるのは、肉食に関して「動物の扱いなんか知るか!」と言って肉を食べ続けるか、肉を避けるかという両極端の選択だけではなく、その間の曖昧な部分もある、ということ。それにこれは、「肉食したい人が肉食を正当化しようとしているだけ」と言って切り捨ててしまうだけの本ではないと思います。Pollan教授の言う事に賛成/反対に関わらず、動物愛護の視点から菜食をしている方でも、というかそういう方こそこの本は一読に値すると思います。
>この記事を読んで数日間、新しい側面から物事を考えることができて良かったし、こういう問題についてはなかなか議論に値するような新しい発想も少ないですからね、考えるのは楽しかったです<
こういうコメントを頂けるとうれしいです。他の多くの記事も賛成/反対に関わらず、読んでくださった方が考えを深めてくださればいいと思っています。
アレッポの石鹸、わたしは日本でしか使用しないので懐かしいです。ただこの石鹸、外国製なので輸送コストはかかってますけれど・・・。
stさん、
ネイティブ・アメリカンも、バッファローの肉だけではなく皮なども使えるものはすべて使用していたそうですね。このような動物に対する扱いというのは、現代のようにエアコンの効いた建物で悠々として焼肉を食べるというスタンスとは、動物を食べるという行為自体は同じでも意味合いはまったく異なると思います。
自然と共存しながら、必要な分だけ肉を食べると言うのは、私も絶対NOとはいえないかもしれません。
しんのすけさんと一緒で
>どんな肉だって「動物の死体」は食べる気はしないし、工場制畜産反対という倫理面や環境面だけではなく、健康面からも肉を食べようとは思いません。
私も結局そこに行き着いてしまいます。
わたしもこの本を読んでそう思いました。視点、時、場所などによって状況は変わるので、自分の立場から一方的に「肉食は悪」と決め付けるのはフェアではないと思いました。
いるかさんもそうだと思いますが、わたしも肉を食べなくても生きていける状況にあるのは、ある意味で幸せだと思います。