われらしんじんのこども

真人幼稚園の子どもたちの日々の様子や、
  楽しいエピソードなどをお伝えしています。

詩『十五歳になったきみに』

2009-03-09 17:11:30 | Weblog
 皆様いかがお過ごしですか。
 先週から卒園式の練習も本格的に開始されている年長組ですが、連日のように元気の良い返事や式の中でうたう歌などが運動場に鳴り響いております。年中組や年少組の子どもたちはそんな年長組の様子を間近に感じながら、園全体が一つの大きな節目を迎えようとしていることを静かに感じ取っているようにも思われます。練習とはいえ入場から退場まで一時間近い時間を、しんとした静謐の中で集中力を保ちながらおこなっている姿はやはり見事というほかありません。
 そんな彼らに私たちが教えるべき事柄はいよいよ残り少なくなっているなと、しみじみ思うこの頃であります。

 さて少し個人的な話になりますが、先週、主任の千秋先生のご子息がめでたく中学を卒業されたそうです。月日のたつのは早いものですね。真人幼稚園を元気に卒園していったのがつい昨日のことのようです。しんじんの大先輩として、今後の更なる飛躍を心から願っています。
 そんなことなどを考えながら卒園式の練習風景を見るとはなしに見ていて、ふと気付いたのです。そうか、あの時卒園した子どもたちはみんな今年、十五歳の春を迎えたのか、と。そしていま目の前で式の練習をしているこの子どもたちも、あと十年もたてば十五歳になるのだなあ、と。そう思ったら急に胸が熱くなってきました。幼児期から少年少女へと移り変わり、やがて思春期を迎え大人になっていく彼らの姿を、その時間と道のりを想像せずにはいられないのです。
 人生の上にはいくつかの節目というものがありますが、十五歳という年齢もその一つかもしれません。皆様はどう思われますか? 少なくとも私自身にとって十五歳はあらゆる意味で特別な年でした。自分自身の十代後半のことを思い出すと、胸が熱いというよりもむしろ息苦しいような切ないような、複雑な気持ちになります。それはどのような観点から見ても、滑稽でほろ苦く、美しさとは常に対極にあり、ハッピーエンドとは程遠いアンチクライマックスな青春残酷物語なのでありました。それがあんまりかなしかったので、私は詩を書き始めたのかもしれません。今になって考えると、そんな気もします。せっかく生まれてきたので、せめて自分が生きていた証拠をなんらかの形で残さずにはおれなかったのでしょうか。とにかく、心に突き刺さる稲妻のような言葉を求めて日々さすらっておりました。いずれにしても、多感な十代を乗り越えて、今の私があります。誰もが一度は通る道です。
「艱難辛苦、汝を玉にす」。
 このしんじんの子どもたちにもやがてそんな時代が訪れますが、どうか大きな夢を持ち、自分を信じて素晴らしい青春時代を過してもらいたいと心から思います。
 
 そんな、いつか十五になるであろう子どもたちと、今まさに十五であるかつての子どもたちと、その昔一度は十五だった自分のために書いた詩を今日はここに記します。六年前の「しおりしんじん」に掲載した詩ですが、あらためて捧げたいと思います。

『十五歳になったきみに』
       まえだ かん

十五歳になったきみに
ひとこと伝えたい。
きみに会えてよかった、と。
どうしてこんなことを言うのかというと
たぶんぼくには
十五歳になったきみに
してあげられることは何もないだろうと思うからだ。
それはかつて十五歳だったぼくが
まわりの誰をも必要としていなかったのと
ほぼ同じ意味あいにおいて。
だからぼくは
きみのために
このままずっと黙っていようと思う。
よけいな手出しはすまいと思う。
遠いところからずっときみを見ていようと思う。
かつて十五歳だったぼくは
まわりの大人たちに対して少なくともこう思っていた。

「ぼくは大丈夫です、ほんとうに大丈夫です」と。
 
それはぼくなりの声高らかな独立宣言でもあった。
もちろん口に出して言ったわけではない。
心の中でただボソボソと呟いていただけだ。
十五歳になったきみも
もしかしたらそんなことを考えているんじゃないか? 
もしそうだとしたら
きみはもう
自分のことは自分でやらなくてはならない。
本当の意味での独立を果たすために
自分の足で歩き始めなくてはならない。
 
十五歳になったきみは
どんな場所を歩いているのだろう? 
そこは明るい場所かも知れない。
あるいはじめじめと暗い場所かも知れない。
いま、きみのいる場所はどんなところですか?
たくさんの友だちに囲まれているのでしょうか。
泣いたり、笑ったり、けんかしたり。
何かに夢中になったり、何かに打ちのめされたり、あきらめたり。
それともひとりで公園の芝生に寝転んで
吸い込まれそうな青空に
いつまでも心を奪われているのでしょうか。
十五歳になったきみは
あるいは恋をしているかも知れない。
開きかけた教科書なんか机の引き出しに放り込んで
さあ、恋文をしたためよう!
(こいぶみという言葉もあるのだよ、世の中には)
間違っても恋をメールで打ち明けてはいけない。
それはただの連絡だ。報告だ。手続きだ。
恋は自分の肉体を通して
燃え盛る焔のように語らなくてはならない。
書くのが面倒なら声に出してみればいい。
声は空気を震わせ
沈黙を突き破り
やがて誰かの心を震わせるだろう。
もちろんうまく伝わることもあるし
うまく伝わらないことだってある。
それでも恋は素晴らしいものだ。
恋をすると
人はさびしさや悲しみを知ることができる。
人間はみなひとりひとりだけど
決してひとりぼっちじゃないということに気づく。
それはほとんど奇跡に近い。
奇跡はいつもいつも起こるわけではない。
十五歳になったきみには
奇跡をつかまえることができる。

十五歳になったきみは
自分の未来について考えるだろう。
自分の未来について考え
恋する人の未来について考え
親やきょうだいの未来について考える。
それは人間がどこから来てどこへ行こうとしているのか
過去と未来のひとつの繋がりを
ぼくらはみんな知りたいと願っているからだ。
けれども十五歳のきみにはもう
未来は永遠に続くものではない
ということもわかっているはずだ。
無限に続いていくように思える時間にも
必ず終わりがあることをきみは知っている。
それはとても厳しい事実だ。
だから何をやっても意味がない、という人もいる。
終わりが来ることに耐えられない、という人もいる。
生きている今さえよければいい、という人もいる。
いずれにしてもぼくらはそれを受け入れなくてはならない。
何が正しくて何が間違っているか
どんな生き方を選べばよいのか
それはぼくにもわからない。
せっかく生まれてきたのだから
人生は楽しいほうがいいに決まっている。
ユーモアは生活を豊かにする。
笑いのない人生は出汁をとり忘れた味噌汁のようなものだ。
人生は楽しむべきものである。
でもいつもいつも楽しいことだけが
人生の醍醐味ではないということもぼくにはわかった。
ぼくらの心には光と闇がある。
人を思いやる心もあれば、憎しみの心もある。
燦々と太陽の降り注ぐ日もあれば、どしゃ降りの日もある。
喜びで満たされる日もあれば、ぽっかりと大きな穴の開く日もある。
どんな歓喜の渦の中にあっても
人の哀しみは消え去りはしないものだし
絶望の深い淵に佇んでいても
朝の訪れない夜はない。
だから未来は
ぼくらが自分で作っていくものだ。
そこにはいろんな生き方があっていい。
いろんなひとがいろんな創意工夫をすればいい。
いろんなスタイルを持った人々がいつも自分らしく生きてゆける
そんな懐の深い世の中になればいい。
人はどんな生き方をしてもいいのだよ、本当は。
たったひとつの生き方しかできないなんて
ほかにはもう生きる道がないなんて
それではあんまり寂しいじゃないか! 
それではあんまりつらいじゃないか!

十五歳になったきみに
何度でも伝えたい。
きみに会えてよかった、と。
どうしてこんなことを言うかというと
じつはぼくは知っているんだ。
たぶんきみはぼくのことを
いつか忘れてしまうだろうということを。
いまのきみはまだ子どもかも知れないけれど
やがて十五歳になり、そして大人になる。
大人になると、人はいろんなものを忘れてしまう。
何もかも全部を憶えていては生きていけないものなんだ。
忘れてしまうしかないことだって、たくさんあるんだ。
そう、このぼくだって。
これまでの短い人生のうえにも様々なことが起こった。
たくさんの人に出会い、すれ違い、別れてきた。
いろんなことを知り、憶え、忘れてきた。
嬉しいことがあった。
悲しいこともあった。
胸つぶれるような思いもした。
死んでしまいたくなるようなことだって、確かにあった。
それでも、やがてあらゆるものは通り過ぎていく。
そして歳をとればとるほど、人は忘れっぽくなる。
それは決して悪いことではない。
忘れるのは良いことでさえある。
だからきみがぼくを忘れてしまっても
それはそれで仕方がないことだと思う。
しかしそれとはべつに
ぼくらにはぜったい忘れてはならないこと
というものもあるはずだ。
自分らしく、(あるいは人間らしく)あり続けるために
失ってはならないものもあるはずだ。
きみがどこでどんなふうに暮らしていても
それを見失ってはいけないよ。
たとえば
きみがいまひとりぼっちだと感じていても。
誰も自分のことをわかってくれないからといって
放り投げて捨ててしまったり
自分の足で踏みつけたりしてはいけない。
いつも上手にできなくたっていいじゃないか。
ぼくらはロボットじゃないんだから。
気持ちをうまく言葉にできないときは
無理にしゃべらなくたっていいじゃないか。
誰もが誰とでもわかりあえるわけじゃないんだから。
世間は広い。そしていろんな人がいる。
ひどいことを言う人もいる。
ひどいことをする人もいる。
きみの一番大切なものが
心ない人々に奪われそうになったら
その小さな胸にしっかり抱いておくんだ。
でも生きていると
かならずきみの言葉に耳を貸してくれる人がいる。
きみのことをまるごとぜんぶ受け止めてくれる人がいる。
きみに生き続ける勇気と力を与えてくれる人がいる。
今はいないかもしれない。
でもどこかにきっといる。
いつか、そのひとを見つけるんだ。
 
十五歳になったきみに
ぼくは、たくさん伝えたい。
ありがとう。
さよなら。
いま、きみに会えてよかった! 




 

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