自民、乙武洋匡氏擁立で最終調整 参院選「目玉候補」に
気を付けろよ。
自民党の言いなりに成り下がって、今後の将来を棒に振るなよ。
自民党というものは、その総裁である安倍晋三というものは、自分の利用価値のあるものしか用いない。
利用価値がなくなれば、遠慮会釈もなくトカゲの尻尾霧のように、切り捨てていく。
同じ利用価値を持つものならば、国民のための利用価値になられることを望み、願っている。
http://news.goo.ne.jp/article/asahi/politics/ASJ3H7GCPJ3HUTFK00Y.html
大学まで教育無償化や地方分権強化を規定 おおさか維新、憲法改正原案が判明
我々国民は、とかく何事も政府や政治家に任せてしまっている。
こういうことは国がとか、政府が前面に出てなどと、国や政治家に期待をかけてしまっている。
それというのも、選挙で選んだからとして任せたがっている。
だがそれは、この政府や政治家がいいようにしていいという具合に彼らは受け取ってしまい、それで法案や税金の使い道などを自分の都合のいいようにしてしまっている。
このために社会保障費は減額されるとか、公務員給与や政党交付金は私しようということになって増額される。大企業や富裕層への配分が増やされたりする。
民主主義というものは、もともと政治が国民の声を聴いて国民に従うべきもの。
それが今の民主主義は、国民を政治に従わせるものになっている。
こういうものだから、政治には期待すべからず、だ。
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/politics/sankei-wst1603150040.html
甘利氏療養、さらに2カ月=自民説明
この療養費は、全額公費でやるようだ。
議員辞職させないために、税金泥棒政権は、ここまで極まれり。
http://news.goo.ne.jp/article/jiji/politics/jiji-160315X184.html
首相「改憲を公約に」 参院選3分の2目標も改めて表明
改憲派は、現憲法は理想主義だと言っている。
では自民党案の改憲草案は現実的かというと、これも理想主義でしかない。
それどころかこの改憲草案は、限りない危険性をはらんでいる。
平和には、軍隊もいらないし、兵器も必要としないもの。それが自民党の改憲案には羅列されている。それが積極的平和主義だというなら、国家が破壊される主義ということにしかなっていない。
平和を願い願望するなら、すでに平和が完成してしまっているという気になって生きていくということにこそ、真の平和主義がある。平和が完成してしまっているのだから、軍隊も兵器も必要とはしない。ただ横道にぶれることなく、この平和を保つように生活していけば良いことになる。
理想であるにしても、その理想に向かっていくべきこそ大切なことである。
http://news.goo.ne.jp/article/asahi/politics/ASJ3G31TRJ3GUTFK001.html
首相「改憲を公約に」 参院選3分の2目標も改めて表明
人間が思い描き、願望とするものは、ただの夢に過ぎない。
この夢というものは、移ろいやすい。一所に、留まっていることがない。あちらへうろちょろ、こちらへうろちょろして、いったい何をしようとしているのかわからなくなる。それが自分でもわからないような状態になる始末になっている。
それは何故かというと、自然の摂理に、定理に、理念に沿わないものになっているからだ。
信仰とは、神仏を崇めることとされてしまっていて、我々人間とは別のところに置いている。しかし真の信仰とは、この自然の摂理と定理と理念の中で我々が生かされていることと知り、この自然の摂理と定理と根理念とに共鳴していくことにある。
人間が人間中心になって、何もかもを思い通りにしようとするのが、今の人間の姿になっている。しかしそういうように、人間の思い通りにはならない。むしろ人間のほうが、自然の摂理に低利に理念に従っていかなければならない。
この人間のほうが、自然の摂理と定理と理念に従っていこうとすることに、信仰への誘いがある。
どんなに人間の我がままを通そうとしても、栄枯盛衰の通りに人間の思いなどは崩れていく。
http://news.goo.ne.jp/article/asahi/politics/ASJ3G31TRJ3GUTFK001.html
我々人間という生き物は、「定、楽、我、浄」に混迷する生き物でしかない。「定」とはいつまでも定まっていること、「楽」とは楽を求め不都合を嫌うこと、「我」とは自分がいつも中心になり利己的になりたいこと、「浄」とは自分や自分が属するものが善であるとすることである。人間はこうした思いから離れられないために、自分ばかりか周囲も世の中全体も混乱させていく。
東日本大震災5年目の追悼式で、安倍首相はこんな内容の言葉を述べている。
「我が国の原子力規制院の基準は、世界最高水準の厳しい基準であるから、これに合格した原発は再稼働しても安全であり安心である」と述べている。ここには、また安全神話の再来がある。
この世には絶対安全安心も、完全というものはあり得ない。何事も変化していき、疲弊していき、劣化していく。それが自然の摂理であり定理であり条理である。
医学が進歩して病気治療が進んできているというけれども、では絶対に死なないで済むかというと、それはできない。どんなに科学技術が発達しても、これはできない。
第一科学技術の発達で、自動運転自動車が市場に出されるというけれども、争いや戦争、いじめや虐待や殺人事件を起こさないように、人間の心と精神を短期間に善心にさせてしまえる工夫もできはしない。この人間の心と精神を善心に変えさせられるものは、信仰による外はないのだが、人間というものは欲に目がくらみ、富ばかり追い求めるという生き方ばかりしている。それを政治が後押ししている。