我々において、例えば子供を育てる事において、「これこれこうしてやったのだから、後でこれだけの事をして貰わなければならない」と言うならば、その人は大層な人物と言わなければならない。
この世に存在するものは、対価のために「ある」のではなく、この世の役に立つために存在している。
相手は「自分のため」に存在し、自分は「相手やその他のもの」のために存在する。いわば「相互的に役立つ」存在が、この世のものの存在するものの値ともいえる。
ところが我々人間は、何かと「対価」を付けて、その値によって物事を判断する。
普通に「対価」を付けるものとしては、「食料品、生活用具」が主体だったものが、この「対価」の媒体となる「金銭」が、そのもの自体が「対価」としての値打を持つようになってしまった。即ち「金融」である。
この「金融」には、「実態」が無い。我々人間は、こうした「実態」の無いものに取りつかれて、右往左往するようになり、「金融危機、経済危機、金融恐慌」という恐怖を味合う。
又自分の肉体「生命」にも「対価」を付け、「生命保険、損害保険」だけにとどまらず、「臓器移植」や、子供が出来ない時には「人工授精、代理出産」などの道を求める。
これらも、「対価」を付けた事による。即ち、「望み、希望、欲望、未来」などに対して「対価」を付けている事により、その実現を図っている。
だが、こうした「対価主義(別には物質文明ともいう)」は、完成する事はない。
それは、「世界征服、世界制覇、帝国主義」が必ず滅びていくように、「物に値を付ける」こと自体は、この世の摂理としては通用しないものになっている。
それ故に、「対価主義は敗北」する。
この世に存在するものは、対価のために「ある」のではなく、この世の役に立つために存在している。
相手は「自分のため」に存在し、自分は「相手やその他のもの」のために存在する。いわば「相互的に役立つ」存在が、この世のものの存在するものの値ともいえる。
ところが我々人間は、何かと「対価」を付けて、その値によって物事を判断する。
普通に「対価」を付けるものとしては、「食料品、生活用具」が主体だったものが、この「対価」の媒体となる「金銭」が、そのもの自体が「対価」としての値打を持つようになってしまった。即ち「金融」である。
この「金融」には、「実態」が無い。我々人間は、こうした「実態」の無いものに取りつかれて、右往左往するようになり、「金融危機、経済危機、金融恐慌」という恐怖を味合う。
又自分の肉体「生命」にも「対価」を付け、「生命保険、損害保険」だけにとどまらず、「臓器移植」や、子供が出来ない時には「人工授精、代理出産」などの道を求める。
これらも、「対価」を付けた事による。即ち、「望み、希望、欲望、未来」などに対して「対価」を付けている事により、その実現を図っている。
だが、こうした「対価主義(別には物質文明ともいう)」は、完成する事はない。
それは、「世界征服、世界制覇、帝国主義」が必ず滅びていくように、「物に値を付ける」こと自体は、この世の摂理としては通用しないものになっている。
それ故に、「対価主義は敗北」する。
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