青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

愚かさの美学  (上)

2008年09月22日 | 人生設計

いやはや、とんでもないことになってきたものだ。
「事故米、汚染米」を食べさせられる事になった。これまでは偽装食肉に偽装食品、汚染食品で悩まされた上にである。それに多くの幼い子供たちの命も、奪われている。粉ミルク汚染疑惑も、拡大の様相を示している。
一方の政府の取り組みは、まるで人事みたいに腰が重い。政界は、総裁選挙でお祭り騒ぎだし、迫り来る総選挙ということで「国替え」とか言って、まるで国政選挙をおもちゃにしているようなアンパイである。
その上に世相は、「栄光」を目指すとか、「メダルを取る」こととか「視聴率を挙げる」とか、「ホームラン、ヒット、点数を取る」、あるいは「イベント」などをして客集めをするなど、評価を挙げることに一生懸命になっている。
そしてそう言う事を私達は、「美学」と思っているようだ。
だがそうした事は、「愚かさの美学」と言わなければならない。
今日現在、汚染米や事故米を食べさせられるようになったのは、私達が「自前の力」で「生きよう」としていかない事にある。人やモノに「拠りかかって生きよう」とすべきではない。
しかし今日の社会構造、経済構造は、他の人やものに寄りかかることらよって、成り立っている。それ故に、人が作ったものや仕組みなどには、それが汚染されていても偽装されていても捏造されていても、それを受け取らざるを得なくなっている。そしてそうする事で、私達は「美的、文化的」生活を営まれると思っているのである。
こうした愚かさの実態が、「愚かさの美学」としてまざまざと次々に明らかにされつつある。

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