釈尊にまつわる、次のような話があり、そして教えがあった。手元には教本がなく覚えているだけなので、言葉に間違いがあるかもしれないが、こんな内容であった。
若い母親が、可愛がっていた子供を亡くしている。そのために母親は、合う人ごとに「子供を生き返らせてください」と頼み込んでいた。人々は「死んだ者は生き返るはずがないのに」と、この母親は気が狂ってしまったと思って見ていた。母親は釈尊にも、「子供を生き返らせて下さい」と頼み込んだ。釈尊は驚いたことに、この母親の願いを聞き届けると応えている。ただし、条件を付けられている。
「どこかの家から、粟の実を貰ってきなさい。しかし
そこの家で亡くなられた人がいない、家から貰ってきなさい」
母親は釈尊の言葉に従えば子供が生き返ると思い、さっそく家々を訪ねて粟の実を貰いに出かけました。しかしどの家からも亡くなった人がいない家は無い。どんなに捜し求めても、無いのです。そのうち母親は、「生あるものは必ず死す」という「無常な世」ということに気が付いた。
この事は私達にとっても、身に凍みる事といえる。過ぎ去った過去のことをあげつらい問題にし、争ったりしている。そして相手を「これでもか、これでもか」と、まるで地獄へ追い落とすようにまで攻め立てている。これまでの過去に、こちらが酷い目にあったかもしれない。しかし、だからこちらも相手に対して鬼畜のごとくになってもよいのだろうか。「報復、復讐」更には「制裁」に「訴訟」へと、何処までも相手を追い詰めていくことだけが、取るべき道なのだろうか。 釈尊の「無常」の教えというものを、噛み締めなければなるまい。
若い母親が、可愛がっていた子供を亡くしている。そのために母親は、合う人ごとに「子供を生き返らせてください」と頼み込んでいた。人々は「死んだ者は生き返るはずがないのに」と、この母親は気が狂ってしまったと思って見ていた。母親は釈尊にも、「子供を生き返らせて下さい」と頼み込んだ。釈尊は驚いたことに、この母親の願いを聞き届けると応えている。ただし、条件を付けられている。
「どこかの家から、粟の実を貰ってきなさい。しかし
そこの家で亡くなられた人がいない、家から貰ってきなさい」
母親は釈尊の言葉に従えば子供が生き返ると思い、さっそく家々を訪ねて粟の実を貰いに出かけました。しかしどの家からも亡くなった人がいない家は無い。どんなに捜し求めても、無いのです。そのうち母親は、「生あるものは必ず死す」という「無常な世」ということに気が付いた。
この事は私達にとっても、身に凍みる事といえる。過ぎ去った過去のことをあげつらい問題にし、争ったりしている。そして相手を「これでもか、これでもか」と、まるで地獄へ追い落とすようにまで攻め立てている。これまでの過去に、こちらが酷い目にあったかもしれない。しかし、だからこちらも相手に対して鬼畜のごとくになってもよいのだろうか。「報復、復讐」更には「制裁」に「訴訟」へと、何処までも相手を追い詰めていくことだけが、取るべき道なのだろうか。 釈尊の「無常」の教えというものを、噛み締めなければなるまい。
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