釈尊の遺訓である「自灯明、法灯明」の教えは、別には「自帰依、法帰依」とも言い表される。「自己を拠り所として他を拠り所とせず、法を拠り所としなさい」ということである。「自灯明、法灯明」と「自帰依、法帰依」とでは、表現としても解釈としても異なるが、それは個性の表と裏の一体性からくると言えるかもしれない。
私達の基本姿勢としての「幸せなりたい」、この思いは個人一人のものではない。他の人も皆、「幸せになりたい」思いを持っている。人だけでなく、動植物も、鉱物も空気や水においても、みんな「幸せになりたい」思いを持っていて止まない。
このように各々の個性は「幸せになりたい」思いを持っているけれども、その個性が「幸せ」になろうとする時には、相対するものに何らかの犠牲を強いることになる。個性が生きていくために、相手の個性の犠牲が必要だからである。
それはまた、相手の個性が生きてゆくには、私という自己を必要としていると言うことが、当然のこととして受け止めるべきことになる。
「自灯明」と「自帰依」と自意識を持つだけでなく、「法」という「あまねく普遍的に行き渡る」大きな、そして全てを生かしてくれる心と力の中での個性は、利己的に自我意識に捉われたものであってはならなくなる。
自己という個性は、絶対と言っていい程、二つはない。それだけに尊いものでもある。その絶対孤独と言える自己を、「自灯明、自帰依」していかなければならない身ではあるが、他のものも同じ同類と知るならば、思いやりもかけたくなる。食事一つするにしても、頂ける事の有り難さと幸せさを感じないではいられないだろう。
こうした思いやり、それは個性という閉篭りがちな感じなものが、外に出して「愛」になる。
「愛」はまた「受けること、求めること」を期待している言葉の意味合いがあるが、そのためか釈尊は[愛」いう言葉を「自己愛」という意味で使われていたようで、それに変わり他への働きかけを意味する「慈しみ、慈愛」を用いて述べられている。
日木流奈さんの「月のメッセージ」からも、自己の見詰め方、個性の持ち方によって、慈しみの心が養われてゆくことが語られている。
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