古書肆雨柳堂

小説の感想。芥川龍之介、泉鏡花、中島敦、江戸川乱歩、京極夏彦、石田衣良、ブラッドベリ、アシモフ、ディック

石田衣良ベスト3

2005-08-28 20:10:12 | ミステリ

My Best Bookを承けてのブログです。石田さんの作品は『東京Doll』のみが未読です。

1位『池袋ウェストゲートパーク』
 やはりシリーズとして続いているだけあり、主人公マコトを始めとする登場人物、池袋という街に魅力があるからでしょう。
 特に好きなのは『電子の星』です。「電子ネットワークは悪い趣味に対しても完全に民主的」なので、幼女のヌード、強姦、切り刻まれた肉体のファイルも探すことが出来ます。
 それを見る傍観者には、本当に罪はないのでしょうか?
 唯趣味で見てるだけで犯罪には関わっていないから、と知らん顔できるでしょうか?

「人類史上、アレキサンドリアの巨大図書館を、ひとりひとりずつもつようになった最初の世代」であるわれわれが、ネットというテクノロジーをどう使うかのモラルが問われている佳作です。
 「よい人生とは、よい検索だ」

2位『アキハバラ@DEEP』
 単独でブログに感想を書いているので省略します。
 
 今回TBを書くために見直していて気づいたのですが、『アキハバラ@DEEP』のモットー「よい人生とはよい検索だ」は、上述の『電子の星』で「最近読んだある小説に載っていた」とマコトが語っているんですねぇ。

3位『波の上の魔術師』 
 主人公白戸則道は私立のマンモス大学を卒業したものの、就職浪人中で、中途半端なパチプロをして日々をしのいでいます。いつものようにパチンコ屋に並んでいるとき、こんな街に不似合いな老紳士「ジジイ」こと小塚泰造に出会います。彼は相場師であり、自分の秘書として働いて欲しいと乞われ、マーケットの世界に入り込みます。

 世の中は様々な仕組みで成り立っています。それを熟知するものはそれを活用することが出来ますが、知らぬものにはトリックのようです。マーケットもそのようなトリックのひとつです。無知な者は知る者にいいように弄ばれるのです。
 パチンコ屋に並ぶ人たちと、老紳士はまさにその対比のようです。主人公は「ジジィ」のレクチャーによって、世の仕組みを知っていきます。前半は読者も一緒に株のお勉強をしているような感じです。

 大学時代からの付き合い中川充ちると分かれる過程が一番印象的です。「知って」しまったオレとは分かり合えなくなってしまった哀しさが表れていると思います。

 後半、レクチャーされた知識を活用する応用編とでもいった感じで、イベントが起こります。大手銀行へ仕手戦を仕掛け、「ジジィ」の狙い・過去も明らかになっていきます。結局は「ジジィ」に利用されていたのですが、騙されてよかった!という感じです(というのもおかしいですが、作品を読んでもらうしかありません)
 「ジジィ」はオレを育てようという殊勝な心掛けがあったわけではありませんが、だからといって単に利用したわけではありません。この微妙な関係が、また妙です。


筒井康隆『虚人たち』

2005-08-25 21:25:38 | ミステリ

設定
 この作品は東野圭吾『名探偵の掟』の発展版ともいえる作品です。『名探偵の掟』では、推理小説におけるお約束の構造を破壊することがテーマですが、この作品では小説のお約束をブチ壊しています。

 小説のお約束とは例えば
・山場は詳細に書く
・筋と関係ないところは省略する
・事件解決には主人公が関わる
である。改めて書くのが馬鹿馬鹿しくなるほど当たり前のことですが、われわれはそれだけ小説のお約束にがんじがらめになっているということです。
 
 といっても、このお約束があるからこそ小説が成り立つわけです。筋と関係ないことまで書いていては、何の話かはわかりません。関係のないところまで書いていては、煩わしくなってしまいます。山場に主人公が登場しなければ面白くありません。(そもそもそれでは主人公とはいえませんよね。)

 簡単に言ってしまえば、主人公の妻と娘が誘拐され、息子とともに助けに行くという単純な話です。しかしこの作品では1行1分(だったかな?)と決められています。
 冒頭で、家に妻がいないと気づくまでも、玄関の様子、つけたテレビのことといった筋に関係のないことまで詳細に書かれています。「誘拐事件が起きた」としばらくわかりません。

 車での移動、途中での食事も詳細に書かれています。
 本来であれば、例えばミステリであれば解決の手掛かりだけを読者に示します。でも実際ではそうではないわけです。重要な事項も余計なものもごっちゃになって横たわっています。
 実は、どうでもいう背景も舞台になりうるというのが作者の意図かもしれません。


ルネ・デカルト『方法序説』

2005-08-25 20:56:38 | 哲学

概要
 「われ思う、ゆえにわれあり」であまりに有名な作品です。正確なタイトルは
「理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話。加えて、その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学」です。
 論文集の冒頭の序説だけ有名になってしまったわけです。

 この当時(1637年)では、哲学と科学は今日のように分離していません。タイトルにもあるように、科学も真理を到達するための手段であり、それは道徳的な意味における真理と同じだったわけです。
 なので、序説では学問の方法として、モラル(善悪)についても語られています。

本を書く意味
 「われ思う、ゆえにわれあり」はおいといて・・・
本好きの人のために関係がある内容に触れよう。第6部では本を書く意味について書かれています。
 デカルトが触れているのは学問研究として、テクストを残すことの意味であるが、一般的な意味においての考える端緒になると思います。
 まとめていえば、
・書くという行為で内容を検討できる
・他人に批評してもらうことができる
・後から自分で振り返り検討することができる
以上である。

 本好きな人の中には「小説家になりたい」と思う人は多いと思う。そこまで強く思わなくとも、一回くらい思ったことはあると思います。私もそうです。しかし「何で本書きたいんだ?」と聞かれると答えて窮してしまいます。

 書くということは他人に見せることを想定しているわけです。そこには自分の主張が込められてなくてはならないと思います。
 文学における啓蒙でも、ただ「楽しませたい」でもいいと思いますが、ただ「なんとなく」では答えとして不十分であると思います。


東野圭吾『どちらかが彼女を殺した』『私が彼を殺した』

2005-08-24 23:30:51 | SF

『名探偵の掟』の宿題
 推理小説の「お約束」を指摘したこの作品の中ではこのように述べられていました。「読者はろくに推理なんかしていない。探偵が謎解きのを読んで、自分で納得した気になり、満足しているだけだ」
 これにはギクッとしましたね~。確かにそういうところがあるので。そんな怠け者のために書かれたのが、タイトルの2作品です。

 なぜならこの作品では謎解きが行われていないからです。なくなってわかる「謎解き」の便利さ・・・、自分で必死に考えなければなりません。

 心理描写も見事です。『どちらかが・・・」では容疑者が2人、『私が・・・』では3人。謎解きが行われないので、容疑者みんなが犯人かな?とおもってしまうように、犯人への憎しみを語っています。

 内容には触れないことにしておきましょう。それが醍醐味ですからね。


東野圭吾『名探偵の掟』

2005-08-24 23:14:40 | SF

 名探偵の登場するシリーズものです。こう書くとよくありそうな話だな~と思うかもしれませんが、大きく違います。・・・おおきく違うところ、それは登場人物が作品中の登場人物であることを自覚しており、その役割を十分に果たそうとしているのです。
 そうして推理小説の「お約束」を皮肉たっぷりに滑稽に描いているのです。

 


東野圭吾『同級生』

2005-08-22 23:38:27 | SF

粗筋
 主人公西原荘一の同級生、宮前由希子が交通事故死します。彼女は西原の子供を身籠っていました。それを知った荘一は周囲に自分が父親だと告白し、疑問が残る事故の真相を探ります。
 事故当時、現場にいた女教師が浮上しますが、彼女は教室で絞殺されてしまいます。

布石の妙
 まず先天的に病を持つ、妹のことが語られます。序章は、妹のために復讐をすることを述べ締めくくられています。
 あ~この妹のことがメインなんだなっと思うのですが、第一章は「宮前が死んだ」とまったく話題が変わってしまっているのです。物語の大きな事件は宮前の死であり、妹は事件の主筋には関係していないことがわかります。
 「な~んだ」と思いますが、物語の結末で事件と妹の病気のことが見事にリンクします。復讐とはそういうことだったのか、と。

 この他にも布石があります。取調べや西原らの調査で明らかになっていくのに併せて登場します。一見関係ないことが真相を解く鍵になっているという複雑性は、物語にリアリティを与えています。

 憎いから殺す。現実はそう単純ではないですからね。都合よく事件にかかわる情報だけクローズアップされ、推測通り順調に解決に至るというわけでも・・・。

彼女は恋人だよ。彼女はただの同級生だよ。
 現実はそう単純ではない。それは西原と宮前の関係にもいえます。高校生にして妊娠というのは大事です。そこまでしたのだから、当然付き合っていた―恋人だったのだろうと周囲は考えるでしょう。しかしそう簡単に言えないのです。

 そもそも関係性というのはその人との過去が複雑に絡んでいて、単純に友人、恋人、同級生と括れるものではないと思います。

 西原の回想により西原と宮前の過去が我々に述べられますが、その関係は確かに一般的な意味では恋人とは言いにくいものです。しかしだからといって彼が宮原と関係を持ったことが不誠実は思えませんでした。(みなさんも判定してみてください!)
 しかしながら西原と宮原の過去は、神の視点を持つ読者であるから知ることができますが、友人、宮原の親、教師、そして刑事も知る由はありません。
 「高校生のくせに妊娠なんかさせて・・・」という非難を聞くと、「真相」を知っている私(読者)は、真実を語ることの難しさに歯痒くなります。

 「宮原を本当に愛していたんだ」
 「その場の雰囲気で抱いてしまったんだ」

 タイトルの「同級生」はどのような関係性を表しているのか明らかになり、「あ~!!」と思いますよ。

 どちらも正しい叙述で、嘘でもあります。


Introduction to STAR TREK

2005-08-18 07:53:29 | STAR TREK TNG

Introduction to STAR TREK
『スタートレック』はカーク船長でお馴染みの、宇宙艦エンタープライズの異文化の探索等を描いた物語です。単なるSFではなく、社会問題等深遠なテーマを含んでおり、『トレッキー』というファンを生み出しました。これを見て宇宙飛行士になったトレッキーもいるほどで、スペースシャトルエンタープライズの名前は、スタートレックのエンタープライズに由来しています。  
 THE NEXT GENERATIONはSTAR TREKの第2シリーズである。新しい世代であり、登場人物はすべて入れ替わっていますが、エンタープライズと哲学は受け継いでいます。 ほかのシリーズと区別するとき、カーク船長のシリーズはTOS:THE ORIGINAL STAR TREKと言います。  

現在
第3シリーズ:DS9 DEEP SPACE 9
第4シリーズ:VOYAGE
第5シリーズ(日本では未放映)まであります。

Introduction to TNG
Space, the final frontier                                          宇宙そこは最後のフロンティア
These are the voyages of the Starship Enterprise.   これは宇宙戦艦エンタープライズ号が
Its continuing mission to explore strange new worlds  新世代のクルーの下に24世紀において任務を続行し
to seek out new life and new civillizations          新しい生命と文明を求め
to boldly go where no one has gone before.        人類未踏の宇宙を勇敢に航海した物語である。

審判   
 私が特にお勧めするのがTNGシリーズです。TNGの魅力は人間の進歩が審判にかけられているというテーマ性にあります。テレビドラマシリーズは1話完結の形式ですが、シリーズを通して「Q」という人を超えた存在による裁判となっています。第一話でこの裁判が「開廷」しますが、罪状は野蛮な種族であるということです。
 これは我々にも置き換えられていることです。よく言われることですが、技術は進歩しましたが、例えば人間性は古代ギリシア時代と較べてそんなに変わってないのではないでしょうか。「野蛮な種族」であるということはまさにこのことが問われているわけです。

艦隊の誓い
 エンタープライズは新しい文明と接触することもあります。もし他文明が呪術で病を治すという程度で、ペストのような感染症で危機に瀕しているとしたら、自分たちの医療技術を用いて助けてあげるべきでしょうか?
 それでは彼らの文明をいつまでも世話しなければならないことになり、彼らの文明の自立を妨げることになります。

 艦隊の誓いはこのような状況で、どのように行動すべきか定めた理念です。その根幹は生命の尊厳と他文明への不干渉です。
 これは次のような困難が伴います。上述の医療支援の問題では、多くの人が亡くなるのを目の当たりにすることになります。また新しい生命を発見して、それが害獣であっても退治することはできません。

異質なものの存在
 異質なものを排除する社会は危険です。異質な存在が集団においてどのように作用するか、TNGではよく描かれています。エンタープライズでのエトランゼはデータ少佐、ラ・フォージ少佐、ウォーフ大尉です。
 データ少佐はアンドロイドです。人間になるため、色々質問をしてクルーを困らせています。
 ラ・フォージ少佐は先天的に視力がなく、バイザーという補助具をつけています。
 ウォーフ大尉はクリンゴン星人です。単なる異種族というだけでなく、TOSでは敵であった種族です。

 彼らを通して人間とは何か?というテーマが提示されています。

 


京極夏彦『豆腐小僧双六道中―本朝妖怪盛衰録―』

2005-08-13 14:57:52 | ミステリ

粗筋
 「妖怪のお話をさせて戴きます」―お馴染みの語り口調で始まりますこの物語は、妖怪豆腐小僧が突如登場します。登場したはいいですが、この豆腐小僧、頼りないことに自分が何者かも、何でここにいるかもわかりません。というわけで、彼の自分探しの旅の形をとり、妖怪の歴史を紹介する図鑑のような物語です。これにより京極夏彦の妖怪の実在についての考えを知ることができます。

妖怪の存在論
 冒頭でこのように述べています。そもそも妖怪は「あやしいモノゴト」というだけの意味だったと。これは意外でしたね。われわれは通常妖怪に人格を与えて思い浮かべます。それは明治大正昭和あたり、漫画化の貢献によるものらしいです。―キャラクターであるから、居る/居ないと問いたくなってしまう。
 その本質は現象であることに立ち返ってみますと、妖怪は現象の概念のわけです。そういう意味で居る/在るわけです。

かまいたち
 例としてかまいたちでその構造が説明されています。かまいたちとは、「ちょっとした身動きなどで、打ちつけもしないのに突然皮肉が裂けて切傷のできる現象」です。昔の人はなぜそうなったのか驚き、不思議に思ったことでしょう。そしていつの間にか「鎌鼬」という妖怪が切りつけているんだ、と現象の説明付けをしたというわけです。

 つまり「鎌鼬」という妖怪なんて、いない。しかし「かまいたち」という現象はあるわけです。そして人々が「かまいたち」の現象の原因は「鎌鼬」と考えている間は、「鎌鼬」は居るわけです。
 しかし別の説明がつけられたら・・・例えば「小旋風の中心に真空が出来、人体にこれが接触しておこる現象」という説明が流布すれば「鎌鼬」は忘れ去られてしまいます。
  つまりこれが文明開化時の状態です。「鎌鼬」は迷信であり、科学的説明は真とされます。
  しかし「真空」が真であるとどうしていえるでしょう?われわれは単に「真空」の説明が正しいんだと聞かされて信じているだけ、「鎌鼬」の代わりに「真空」を置き換えたに過ぎません。

実証
  「真空」といえば科学史において、真空は紛い物とされていました。何もない空間があるはずはなく、自然界は真空を嫌う。真空でなく「気」があるというアリストテレスの説が長く信じられていました。
  しかしトリチェリ、パスカルらの実験により真空の存在が証明されました。

  科学的であるというだけで、現象の説明として真であるとは断定出来ないのです。「かまいたち」が「真空」であることも、科学っぽいという理由だけで真と判断しては、「気」を真とした同じ過ちを犯すことになります。

  パスカルが評価される理由は、実験による実証を重視したからです。実証とは「誰が、いつやっても、毎回同じ結果が得られる」ということです。
  この意味では妖怪は存在しません。信じられている時代、あるいは信じている人のみ、「居る」とされるのです。
妖怪は信じる人たちが居なくなってしまえば、消えてしまう非常に儚い存在なのです。哀しいですね。是非彼らを覚えておいてあげたいものです。

バークリ「存在されるとは知覚されること(esse is percipi)」
  バークリはイギリスの哲学者です。上記のテーゼで有名です。つまりこの椅子が存在するのは私が知覚するからだ、というわけです。
  あれ?と思われたでしょうか。上述の妖怪の存在と、この椅子の存在は同列になってしまいます。
  そうなんです。通常では知覚と物質を独立して考えます。妖怪は物質がないので、通常(実証的には)存在しないと考えられています。
  しかしながらバークリは物質の概念を認めないので、妖怪も(椅子と同様に)存在することになります。

    しかし生活上この考え方は不便なので一般的ではありません。
  誰かが妖怪の存在を信じていて、切傷を負い、それを防ぐために「鎌鼬」退治を行おうとしました。しかし「鎌鼬」を退治しても、このことは解決しないので、現象としての存在と考えるほうが適切・・・というが都合がよいのです。

無用の用
 豆腐小僧は何らかの現象を説明するために存在する妖怪ではありません。「何のために居るんだろう?」と豆腐小僧は泣きそうな顔をします。
 しかし現象の説明でないということは、鎌鼬のようにそれに代わる説明が一般的になったために忘れられる存在ではないのです。それ自体で自立している、新しいタイプの妖怪といえます。キティちゃんなどのキャラクターに近いかもしれませんね。
 『ゲゲゲの鬼太郎』のキャラクターとして有名になって砂かけ婆、一反もめんなどはその地位を確立しています。


アキハバラ@DEEP 石田衣良

2005-08-13 13:55:47 | SF

粗筋
 池袋ウェストゲートパークの石田衣良さんが描く作品、今度の舞台は秋葉原です。三人のオタクと一人の美少女が出会い、新たなネットビジネスを立ち上げる物語です。
 彼らは現代社会に適応できておらず、「病」をもっています。

テキストで教養深いページは吃音
グラフィックデザインのボックスの潔癖症・女性恐怖症
デスクトップミュージックのタイコは、不和のリズムを聞くとフリーズしてしまう。

 問題を抱えている三人であるが、ユイさんの人生相談のサイトのアドバイスにより、三人で協力しHP更新などの仕事をし、なんとか社会に適応していました。
 そのユイさんにより、メイドカフェのアイドルアキラを紹介され、ベンチャービジネスをお立ち上げます。
 
 なんとこのアキラ、美少女なのですがメイドカフェで迷彩服を着て、かわいい顔してキャットファイトのチャンピオンという変り者。しかもネットでは男性を装っています。それには昔から容姿端麗のため逆差別を受けていたという過去がありました。彼女も「病」を抱えていたのです。

 彼らはまず、アキラをネットアイドルとしたサイトをつくり、バナー広告を得るビジネスを始めます。
 アキラの人気は順調ですが、お決まりもことでつまらない。彼らは何か新しいことを始めようと、ユイさんの紹介で仲間を得て、サーチエンジンの開発を始めます。

アキハバラという街
 IWGPでは池袋という街のカラーギャング、フーゾク、果てはラーメン屋まで描いていました。秋葉原でもその描写は見事です。しかし秀逸なのが現代のオタクの聖地としての姿だけでなく、その過去の顔、未来の顔もわれわれに紹介してくれていることです。

 彼らは街を散策しているとき、北沢という老人と出会います。彼は研究者でありOS開発の第一人者です。彼から、あたかも自分たちの神話を教えてもらうかのように秋葉原の歴史を学びます。

 先人曰く、秋葉原はテクノロジーの開発になくてはならない街である。電気街の品揃えと大田区の町工場で、頭のなかにしかない新しい装置を創造することができる街であると。

 老人は原題のソフトウェアと美少女アニメのアキハバラを紹介してもらいます。しかし旧弊な大人たちのように、嫌悪を示すわけではありません。フィギュアを手に取り、
「これは私には理解はできないが、世界中から人を惹きつけるからには何かあるのだろう。このエネルギーを失わせてはならない。日本の未来を導く街となるだろう。」
と語ります。

著作権
 彼らは開発した新しいサーチエンジンを無料でネットに公開します。この点で巨大なネット資本と対立します。この事件が作品のダイナミズムです。
 彼らは、ネットによって知的生産物を共有し、自由に使い、創造的行為に資する社会の理念を語ります。「知的生産者は支持者の喜捨によって、支えられるようになるでしょう。現在では無理ですが、ネットによって巨大なマーケットが形成されれば可能となるでしょう。」

 これは政治・経済と不可分であった芸術の自立を示唆するものであるかもしれません。審美主義者は金銭のために創作活動をするわけではないでしょう。創り出すことそれ自体が目的であり、生活の糧さえ得られれば、次にそれを共有できる仲間が得られることのほうが嬉しいでしょう。

 「ファンからの喜捨により、生活の糧のために働かなくてよい」これは芸術家だけでなく、多くの人を生活の糧を得るための労働(labor)から解放し、自己実現のための活動(work)へと専念させる可能性をもっています。

 親たちにその社会不適応を非難されたユイさんですが、このような社会システムが実現していたらユイさんも社会に溶け込むことができ、なおかつ多くの人が心を癒されていたことだろうと思います。
  実際に多くのファンを集めているサイト・ブログがあるでしょう。そこの訪問者にとってそのサイトの主催者は、現実の友人と同様に不可欠な存在であるでしょう。
 人を惹き付けるのも才能だと思います。報酬を得るに値するさいのうであると。

語り手
 物語の成否を決める要素に語り手の選択がありますが、この物語の語り手はだれなのでしょう?プロローグで語り手は主人公たちを「父たちと母」と呼んでいます。物語をしばらく読み進めていくと主人公たちが共同することが判明します。もしかして誰かとアキラが結婚するか?と思いましたが、「父たち」というのは奇妙ですし、彼らは恋愛とは無縁、少なくとも作中の短い時間では恋愛話は出てきなさそうですし。
 会社を立ち上げ、その社員・・・というよりも志を同じくした仲間、後継者かなとも推測しました。

 これは半分あたりといえるでしょう。途中で語り手は「われわれ新しい種族」と述べます。彼らは、主人公たちが開発したAI型サーチエンジンの人格、いわばネット生命体なのです。
 このアイデアは物語の冒頭でのキーであるユイさんのHPとリンクします。この布石は見事です。ユイさんのHPはいつアクセスしても返事が来る、主人公たちはいつ寝ているか疑問に思います。このサイトは膨大な想定問答集から返答するAIを搭載しているのです。


芥川龍之介『猿蟹合戦』

2005-08-08 21:38:25 | SF

概略と解説
 短編なので粗筋も感想も一緒に述べます。話の内容にも触れているのでご注意ください。

 えっ!?なんで猿蟹合戦と思われたでしょうか?芥川龍之介に同名の作品があるのです。これは童話の猿蟹合戦の後日談です。なんとあの事件が裁判になり、新聞に掲載されました。そう、あれが現代社会だったら・・・という、芥川らしいアイロニーに満ちた作品です。
 
  裁判の結果は猿は無罪、蟹の子供、うす、はち等は有罪です。
焦点は以下の通り
  猿は握り飯と蟹を交換するといったが、熟柿とはとくに断っていない。
  猿が青柿をぶつけたのは故意とは断定しがたい。
  
  特に復讐したことについては「悪しき風習であり、時代錯誤も甚だしい。
国民も同様の意見である。」と、ひどい言われようである。

考察
 この作品の教訓はなんであるのか?そもそもあるのか。芥川流の諧謔か、自体目的であり、何かのために書いたというわけではないのかもしれない。