破戒・・・読むまでは「破壊」と思っていましたが、そうではないのです。
主人公丑松(うしまつ)は何の戒めを破ったかというと、父の「自分がだということをばらすな」ということです。そう、これは差別を扱った話なんですね~
時は明治、四民平等になりという差別も建前上はなくなったのですが、依然として差別はありました。丑松は今までなんとか秘密を知られることなく、小学校の先生として町の人間からも学もあり、品格も良く、生徒にも人気があり、尊敬されております。しかし、自分がということがばれれば、全てを失うことになるだあろう・・・出自を秘密にしていることをこころ苦しくおもいながら、恐々として日々を送っておりました。
本人には何の罪もない、うまれによって差別を受ける・・・読んでいてその不条理さに腹立たしくなりますが、現代でも差別の構造は形を変え残っているでしょう。
例えば親のことで子がイジメを受けるなどです。例えば親が犯罪を犯し、それが報道や噂で知られると、「人殺しの子」などとイジメをうけます。
また、秘密にしているということで言えば同性愛者なども丑松と同様に自らを偽る苦しみに耐えているのでしょう。
子供は無知であるから仕方ないにしても、親もそれを助長する・・・親と子は独立した人格と知っているばずなのに・・・
丑松には猪子連太郎という尊敬する思想家がいます。彼もですが、『われはなり』とカミングアウトし、差別撤廃を訴えているのです。
意外なのが、「に学問はムリ」と考えられていた当時にあって、それにも負けず学問で身を立てた猪子も丑松も、は不浄と考えていることです。
作品の佳境において、丑松は自分の教え子たちに自分の素性を告白します。そこでも「もみんなと同じ、平等な存在」と訴えるではなしに、卑しい者でありながらそれを隠し、教壇にたっていたことの許しを乞うのです。
このことから、結局『破戒』はの差別撤廃を訴えていないと批判されています。しかし、『破戒』のテーマの重点は秘密を秘匿せざるを得ない個人の苦悩にあったのではないでしょうか。
そうすると、差別問題だけでなく、誠実に生きることとはというテーマをもって、蘇ってくるのように思います。
この作品は近代文学の担い手となった小説家たちが現代日本にいたらどう生きたか?という仮定の下、作家たちの思想と文学を新たな視線で描いたものである。
・・・「文学」というとおカタイイメージあるが、高橋さんはそれをぶっ壊す。文豪たちがAVを借りたり、渋谷で援助交際したり、ブルセラショップに入ったりするのである。ぶっちゃけ過ぎである。
そもそも文学とは既成概念や権威を破壊するものであるのに、「文学」が権威付けられているとは本末転倒である。高橋さんはふざけているのでなく、この本質を訴えているのである。
AV監督田山花袋
そのなかから一つのエピソードを取り上げよう。これは『蒲団』を問う作品であり、企画モノのAVレーベルが『蒲団』をAVのモチーフするというものである。
ADが『蒲団』を調べ、「これそのまんま、AVじゃん」と漏らすことから始まり、ついには花袋自らAVの監督を行う。
AV業者は、花袋に対し、芳子を想い、師としての立場と悩むシーンでオナニーをさせようとする。師の立場を利用して、芳子を押し倒してやっちゃえばいいじゃないですか、と言う。
花袋はそれは違うという。
なにが違うのか?
『蒲団』は自然主義の本旨である「露骨なる描写」が評価された。とくに性の直截な叙述が注目された。曰く、事実をそのまま描くと。
芳子をモノにしようと思っていた主人公である。オナニーもしたであろう。
ようは、若い女性をモノにしようとした中年男の話である。フーゾクに行って説教しようするおっさんと同じである。それを新旧両思想対立、行動と自意識の葛藤という悩みに置き換えているのは、カッコつけである。「露骨なる描写」を貫ききれていない。
作者自身、懺悔でも教訓でもなく、ただ事実を提示したのみといっている。それならばいっそ、AVのほうが「露骨なる描写」といえるのではないだろうか。
1.『蒲団』の特徴
その小説的構造の特徴は、主人公竹中時雄の外面と内面が画然と分裂し、他の作中人物は夢にも知られぬ主人公内面の世界に、読者がはじめから詳しく立ち会ってゆくという叙述になっている点に、まず求められるであろう。
粗筋は、妻子も社会的地位ある文学者竹中時雄のもとに、神戸の子女芳子から師事したいというファンレターが寄せられる。旧弊を脱しようとする竹中には、三児の母となりもはや女では妻に魅力を感じなくなっていた。竹中は器量もよく、「新しい女」として自立しようとする芳子にローマンスの夢をひそかに抱き、芳子の父に対しては監督者としての仮面を被り、弟子入りを認める。
しかし芳子には若い恋人がおり、すでに処女でもなかった。竹中は終始自分のホンネを吐露できないまま、芳子は実家に返されてしまう。
竹中の外面は若い恋人たちから見ればその考え方や生き方を理解し、指導する「温情なる保護者」、芳子の父の側から見れば分別ある師であり、信頼すべき監督者である。
しかしその内面は、外面のきれいごととはおよそかけはなれた中年男の醜悪なエゴイズムや暑苦しい性的関心が渦を巻く世界なのであり、作者はそれを露悪的にあばき出してゆくのである。
2.『蒲団』の文学的位置
『蒲団』は自然主義の代表、私小説の先駆けとされる。
文学における自然主義文学は、理想化を行わず、醜悪瑣末なものを忌まず、現実をあるがまま写しとるを本旨とする。花袋自身、この作品は読者を不愉快にさせようとわざと醜事実をみせたのでも、懺悔でも教訓でもない。ただ人生において発見した事実を読者の前にひろげただけである、と述べている。
『蒲団』の新しさは、ただそれだけでなく社会的体面を損なうリスクを省みず、自己内部に向け、それを勇敢に暴露したことによってもたらされた。