古書肆雨柳堂

小説の感想。芥川龍之介、泉鏡花、中島敦、江戸川乱歩、京極夏彦、石田衣良、ブラッドベリ、アシモフ、ディック

筒井康隆『虚人たち』

2005-08-25 21:25:38 | ミステリ

設定
 この作品は東野圭吾『名探偵の掟』の発展版ともいえる作品です。『名探偵の掟』では、推理小説におけるお約束の構造を破壊することがテーマですが、この作品では小説のお約束をブチ壊しています。

 小説のお約束とは例えば
・山場は詳細に書く
・筋と関係ないところは省略する
・事件解決には主人公が関わる
である。改めて書くのが馬鹿馬鹿しくなるほど当たり前のことですが、われわれはそれだけ小説のお約束にがんじがらめになっているということです。
 
 といっても、このお約束があるからこそ小説が成り立つわけです。筋と関係ないことまで書いていては、何の話かはわかりません。関係のないところまで書いていては、煩わしくなってしまいます。山場に主人公が登場しなければ面白くありません。(そもそもそれでは主人公とはいえませんよね。)

 簡単に言ってしまえば、主人公の妻と娘が誘拐され、息子とともに助けに行くという単純な話です。しかしこの作品では1行1分(だったかな?)と決められています。
 冒頭で、家に妻がいないと気づくまでも、玄関の様子、つけたテレビのことといった筋に関係のないことまで詳細に書かれています。「誘拐事件が起きた」としばらくわかりません。

 車での移動、途中での食事も詳細に書かれています。
 本来であれば、例えばミステリであれば解決の手掛かりだけを読者に示します。でも実際ではそうではないわけです。重要な事項も余計なものもごっちゃになって横たわっています。
 実は、どうでもいう背景も舞台になりうるというのが作者の意図かもしれません。


ルネ・デカルト『方法序説』

2005-08-25 20:56:38 | 哲学

概要
 「われ思う、ゆえにわれあり」であまりに有名な作品です。正確なタイトルは
「理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話。加えて、その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学」です。
 論文集の冒頭の序説だけ有名になってしまったわけです。

 この当時(1637年)では、哲学と科学は今日のように分離していません。タイトルにもあるように、科学も真理を到達するための手段であり、それは道徳的な意味における真理と同じだったわけです。
 なので、序説では学問の方法として、モラル(善悪)についても語られています。

本を書く意味
 「われ思う、ゆえにわれあり」はおいといて・・・
本好きの人のために関係がある内容に触れよう。第6部では本を書く意味について書かれています。
 デカルトが触れているのは学問研究として、テクストを残すことの意味であるが、一般的な意味においての考える端緒になると思います。
 まとめていえば、
・書くという行為で内容を検討できる
・他人に批評してもらうことができる
・後から自分で振り返り検討することができる
以上である。

 本好きな人の中には「小説家になりたい」と思う人は多いと思う。そこまで強く思わなくとも、一回くらい思ったことはあると思います。私もそうです。しかし「何で本書きたいんだ?」と聞かれると答えて窮してしまいます。

 書くということは他人に見せることを想定しているわけです。そこには自分の主張が込められてなくてはならないと思います。
 文学における啓蒙でも、ただ「楽しませたい」でもいいと思いますが、ただ「なんとなく」では答えとして不十分であると思います。