背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

チャーリー・パーカーの半生(7)

2019年07月28日 23時13分20秒 | チャーリーパーカー
 お墓サイトの調査者トム・ネルソン氏は、チャールズがアディと再婚した時期を1916年頃だと推測しているが、これは確かなことではない。ネルソン氏は、1930年の国勢調査でチャールズ(当時41歳)の結婚した年齢が27歳と書いてあるのを見て、1930年から14年(41歳マイナス27歳)を引いて1916年と算定している。しかし、27歳というのはチャールズの初婚の年齢であり(PDFでアップしてある書類を見て確認した)、先妻のイーディスと結婚した時の年齢である。それと、チャールズの1930年当時の年齢の41歳というのが、それまでの書類を見ると、どうも疑問で、なぜか2歳ほど若く年齢を誤魔化しているようなのだ。したがって、チャールズがアディと結婚したのは1916年以降1920年以前であることは間違いないと思うが、正確な年月は分からない。
 同じ1930年の国勢調査で、アディ(当時32歳)の初婚の年齢は18歳と書いてある。これも不可解である。アディは墓石に1891年8月21日生まれと刻まれているし、1910年のオクラホマ州の住民調査では、アディ・ボクススリーBoxley(娘時代の旧姓)は18歳とある(これが正しい)。この時、彼女は白人の家で住み込みの家政婦をやっていた。20年前の調査で18歳だったならば、1930年時点では38歳になっていたはずだ。したがって1930年の国勢調査で32歳と申告したのは真っ赤なウソで、7歳もサバを読んでいる。誕生日の8月21日はそのままにして、生年を1891年ではなく、1898年にしてしまったのだ。
 まあ、女性が年齢を偽称するのはよくあることだし、自己申告の通り18歳(本当は25歳)で結婚したとすると、結婚年が1916年になり、ネルソン氏の推測とぴったり合うのだから面白い。しかし、これはチャールズとの結婚がアディにとって初婚だったとしての話である。
 
 戻って、1925年のカンザス州の住民調査(3月初めか?)によると、戸主チャールズ・パーカー・シニアに関する記録は以下の通りである。
 誕生地=テネシー州、性別=男性、年齢=37歳、人種=黒人、配偶者=アディ・パーカー。職業=コック、勤務先=鉄道。住所=852番地(フリーマンFreeman通り)。同居家族=アディ・パーカー(28歳)、チャールズ・パーカー(4歳)。
 
 チャーリー・パーカーは、1920年8月29日に当地で生まれてから1925年春(4歳の頃)までずっとフリーマン通り852番地の家に住んでいた。父チャールズは、当時、鉄道会社のコックとして働いていた。同居家族に異母兄ジョン(10歳)はいない。この三つのことが明らかに分かる。
 母アディは、異母兄ジョンもいっしょに育てたといったニュアンスで話していたが(「チャーリー・パーカーの伝説」)、ジョンは、祖母エラ・パーカーの家でずっと育ったというのが事実だった。
 パーカーの伝記作家の多くは、ジョンは父チャールズが母と別居した時、父といっしょに連れて行かれたように書いていて、それまでジョンはチャーリーと同じ家で兄弟として育ったとしていた。が、これはアディの話を信じたために起きた誤解だった。
 パーカー一家は1925年~30年の間にカンザス州側のカンザス・シティ(ワイアンドット郡)からミズーリ州側のカンザス・シティ(ジャクソン郡)に転居した。チャーリー・パーカー本人は、7歳の時にミズーリ州側に引っ越したと言っている。とすると、転居したのは、1927年秋から1928年の夏前のことになるだろう。しかし、転居した理由は分からない。チャーリーの学校のためか、父チャールズの仕事のためなのか、そのどちらなのかもしれない。
 1930年の国勢調査についてチャールズ(シニア)とアディの年齢のことはすでに触れたが、パーカー一家は、この時点ですでにミズーリ州側のカンザス・シティに転居していた。住所は、西34番通り109番地である。(まず、ここに引っ越して、ミズーリ州側のカンザス・シティ内でまた引っ越すのだが、そこがオリーヴ通り1516番地である)
 また、これで新たに分かったのは、チャールズ(シニア)の職業がアパートの管理人(janitor)になっていて、鉄道会社のコックは辞めてしまったことだ。チャーリー・パーカーは9歳、誕生地がなぜかミズーリになっているのが解せない。同居家族にジョンはいない。

 お墓サイトにあるチャールズ・パーカー・シニアの追跡調査はここまでである。
 そして、ネルソン氏は、チャールズ・シニアの没年を、1939年末か40年と推定している。
 母アディが言うように、彼が死んだのは、チャーリーが17歳の時だったとすれば、1937年後半から1938年前半になるはずである。しかし、この推定は、何か別の根拠に基づいているようだ。「シカゴにいたチャーリーに連絡をとり、葬式に連れて帰った」というアディの別の発言を根拠にしているのかもしれない。チャーリー・パーカーが母と妻子を残し、家出同然にカンザス・シティを出て、初めてシカゴへ行くのは1938年秋で、その後カンザス・シティに帰ったり、またシカゴに行ったりを繰り返していたからである。1939年はニューヨークにしばらく居て、またシカゴに舞い戻ったようなので、父チャールズの死をその頃だと考えたのかもしれない。とすると、チャーリーが19歳の時になる。

 チャールズ・パーカー・シニアに関して、ほかに述べられていることを、ここに書いておこう。
 アディの話では、彼は酒飲みで、料理が得意で、学識があった(a good scholar)。
 チャーリー・パーカーは、「教養ある人だったことは確かだ。二、三の外国語を話すことができた」(”He sure was a well-tutored guy. He spoke two , three languages.”)と言っている。
 ラッセル著「バードは生きている」には、別居後は「シンジケートの手先の賭博師として日向を歩くことはない男になっていた」と書いてある(ただし、この記述の真偽は不明)。
 また、レベッカの話では、チャーリーと結婚した日(1936年7月25日)に、父チャールズとジョンがオリーヴ通り1516番地の家へお祝いに来て、一緒に食事したという。その時が、レベッカが義父に会った最初で最後だったようだ。「黄ばんだ顔にダーク・ブラウンの目が映える男の人で、髪は横分けにして撫でつけていた」(「セレブレイティング・バード」)というのは、レベッカが義父チャールズ・シニアを見た時の印象だろう。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿