背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

チャーリー・パーカーの半生(4)

2019年07月21日 15時35分07秒 | チャーリーパーカー
 チャーリー・パーカーは、子どもの頃から独りぼっちで、愛情に飢えて育ったようだ。6歳まで一緒に育った二つ年上の異母兄ジョンは、父母の仲が悪くなると、父に連れて行かれ、どこかへ養子に出されてしまったのではないかと思う。9歳の時両親が別れて、チャーリーは母一人子一人の暮らしになるのだが、ハイスクール時代、母アディは朝から夜までは働きに出て、ほとんど家に居なかった。昼間は裕福な白人の家で家政婦を、夕方からは会社の掃除婦だった。チャーリーに不自由な思いや貧しい家の子のような思いはさせまいと懸命に働いていた。新聞配達をやろうかというチャーリーの申し出もはねつけた。家族がたくさんいる貧しい黒人家庭では、上の子どもたちがアルバイトして家計を助けるのは普通で、それで家族のきずなが深まり、暖かい家庭が形成されるのだろうが、チャーリーの家はいつも寂しく寒々としていた。小学生の頃は、夜一人で本を読んだりしていたが、ハイスクールに通うようになると、誰もいない家に帰っても仕方がなく、学校の帰りは寄り道をして夕暮れ時から夜まで繁華街をうろつくことが増えていった。
 13歳の頃、母の仕事が夜勤なった。ウェスタン・ユニオン電信電報局の掃除婦の仕事で、営業時間終了後から翌朝まで、オフィスをすべて清掃するのだ。給料が良く、母は就職した。それで、チャーリーは夜中ずっと独りになった。


<母アディ・パーカー>
 
 チャーリーはカンザス・シティの歓楽街、とりわけ12番通りとヴァイン通りが交差する辺りにたむろする人たちの中に交じり、ナイト・クラブから流れるジャズを外で聴くようになった。休憩時間に店から出てくるミュージシャンとも顔見知りになり、使い走りなどをやっているうちに、裏口からクラブの中へ時々入れてもらうようになった。バンドスタンドの陰でホットなジャズを聴き、ジャズにのめり込み、自分もプレーヤーになりたいという思いを強くしていく。
 スクールバンド”ディーンズ・オヴ・スィング”のリーダー・ローレンス・キーズと親友のロバート・シンプソンとチャーリーの三人が、お互いの家へ行ってレコードやラジオでジャズを聴いたり、音楽の話をしたり、そしてもちろん、いろいろな曲の練習をしたりして過ごすことも多くなった。ローレンス・キーズは、「三人ともただ音楽が興味の中心だった。デートとか女のこととかの話は一度もしたことがない。三人にはそれぞれ女の子がいたのだが、音楽とはまったく別の問題だった」と語っている(「チャーリー・パーカーの伝説」)。

 チャーリーのガールフレンドは、レベッカ・ラッフィン Rebecca Ruffinといった。同じリンカーン・ハイスクールの生徒である。黒人の割りに肌の色が薄く、髪の長いこの美しい女の子にチャーリーは一目惚れしてしまう。レベッカもチャーリーのことが好きになり、ハイスクールの2年目から二人は付き合うようになる。チャーリー・パーカー、13歳、顔にニキビができ始める思春期であった。チャーリーにとってレベッカは初恋の女性だったのかもしれない。


<レベッカ・ラフィン>


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