背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

チャーリー・パーカーの半生 (11)

2019年08月06日 11時16分44秒 | チャーリーパーカー
 アディ・パーカーは、初めて息子が結婚したいと言うの聞いた時のことを、後年(1957年以降)、こう語っている(ライズナー編著「チャーリー・パーカーの伝説」)。
 ある日、チャールズが私のそばへ来て、こう言ったんです。「ママ、ぼく、あの子に惚れちゃったんだよ。もう結婚できる年だよね」 息子はまだ結婚できる年ではなかったかもしれないけれど、身体の方はもう大きかった。私はこう答えました。自分で大丈夫だと感じる時が来たら、結婚してもいいよって。(拙訳)

 チャーリー・パーカーは1935年11月に演奏家組合(ユニオン)に加入し、15歳ですでにプロ・ミュージシャンになっていた(組合員の資格は18歳以上だったが、4歳サバを読み、19歳として加入したいう)。ハイスクールは退学し、自活の道を進み始め、少ないながら収入を得ていた。グリーン・リーフ・ガーデンズというクラブで白人のピアニストに雇われ、その楽団のリード・セクションでアルト・サックスを吹き、数ヶ月間定期出演。その後、トミー・ダグラス楽団に入り、カンザス・シティのナイト・クラブやダンス・ホールで演奏し、サックスの腕を磨いていた。仕事へ行く前には、レベッカに会い、相変わらずデートを続けていた。
 1936年の初夏、6月19日の金曜日の夜、チャーリーはレベッカにプロポーズした。場所は、二人の母校アタックス小学校の入口の階段。二人がしばしば待ち合わせに使うところだった。階段に座って話をしている時に、チャーリーが切り出したのだった。
 その日の夜は、ニューヨークのヤンキー・スタジアムでボクシングのヘビー級の大試合、ジョ―・ルイスとマックス・シュメリングの対戦があり、米国中が沸いていた。「褐色の爆撃機」の異名を持つ黒人ボクサーのジョ―・ルイスは、これまで24勝無敗で快進撃を続けていた。そのヒーローが、ドイツ人の元世界ヘビー級王者・マックス・シュメリングに12ラウンドにKO敗けしたのである。黒人たちにとって忘れられない痛恨の日であった。

 
<ジョ―・ルイス>   <ルイス対シュメリング>>
(ジョ―・ルイスが世界ヘビー級の王者になるのはこの1年後で、以後25回連続防衛の大記録を樹立する。シュメリングとの再戦は1938年7月に行われ、米国対ナチス・ドイツとの世紀の対決と言われたが、1ラウンドにKO勝ちして、雪辱を果たしている)

 レベッカの話によると、国中が騒然としたこの日に、チャーリーにプロポーズされ、嬉しくて、すぐその場で快諾したそうだ。その夜、家に帰って母親に話した時には大喧嘩になって、今度は家内が騒然としたにちがいない。翌朝、レベッカは自分の荷物をまとめると、家を飛び出し、パーカー家へ転がり込むのである。
 そして、その約1か月後の1936年7月25日、二人はアディ・パーカーを伴い、カンザス・シティにある地方裁判所へ赴き、正式に結婚する。花嫁のレベッカは黄色と白のドレス、チャーリーは茶の背広を着ていた。判事がチャーリーに指輪を求めたが、持っていなかった。それで、アディが自分の指にはめていた指輪をはずして息子に渡し、急場をしのいだという。
 チャーリー・パーカーはまだ15歳(一か月後に16歳になる)だった。これは間違いない。一方、レベッカ・ラフィンは、本人の話を信用すれば、16歳だったことになる。しかし、レベッカの実年齢というのは、三度の移り変わりを経て、近年の調査で、この時は18歳だったと確定したようだ。その調査によると、レベッカ・ラフィンは、2018年2月23日生まれで、チャーリー・パーカーより2歳半年上だった。


<レベッカ、結婚後、街の写真屋で撮った記念写真だと思われる>

 チャーリーとレベッカの結婚について、もう少し詳しく述べておこう。
 二人は教会では結婚式を挙げず、ミズーリ州ジャクソン郡(カンザス・シティがある行政区)の裁判所で、判事の前で宣誓し、結婚した。
 米国の結婚および戸籍制度というのはよく分からないのだが、どうやら年齢とか住所とかは自己申告して、婚姻届に署名すれば、結婚が成立するらしい。当時の米国の結婚に関する法律についても不詳で、州によっても違うと思うのだが、男子も女子も18歳以上になれば結婚できたようだ。ただし、男子は21歳未満の場合は保護者の同意が必要だった。レベッカはこの時18歳を越えていたので、問題なかったが、チャーリーは、本当は15歳なのに、18歳以上であると偽っていた(チャーリーは20歳、レベッカは19歳、と申告したという説もある)。それで、母のアディが二人に付き添って、同意の署名をしたのだろう。が、それにしても、アディ自身、息子の年齢を2歳あまり上にして、虚偽の申告(あるいは誓約)に加担したのだから、共犯者である。レベッカの母ファニーは、立ち会わなかったようだが、異議は申し立てず、否応なく黙認したのだろう。現在はどうだか知らないが、当時の米国の公的な申請というのは、いい加減だったと思わざるをえない。結婚する時に、出生証明書とか戸籍謄本とかは不要で、誓約して自己申告すれば、それで通ったのである。


<結婚証明書>

 チャーリー・パーカーとレベッカ・ラフィンの結婚証明書の写しの画像が、ギディンス著「セレブレイティング・バード」に載っている。レベッカが所有していたものだと思うが、写しの日付を見ると、1961年7月25日とある。結婚した日付は、1936年7月25日であるから、ちょうど結婚25周年にあたる日に発行されたわけだ。もちろん、パーカーは亡くなっていたが、多分レベッカが銀婚式を一人で祝おうと思って、取り寄せたのだろう。
 この結婚証明書には、「チャールズ・パーカー・ジュニアは21歳未満、レベッカ・ラフィンは18歳以上」になっていて、「チャールズ・パーカー・ジュニアの母アディ・パーカーがこの結婚に同意する」と記してある。


チャーリー・パーカーの半生 (10)

2019年08月04日 22時56分38秒 | チャーリーパーカー
 レベッカの母ファニーは、道徳心の強い女性だった。娘がチャーリーと仲良くしているのを知って、注意するようになった。最近色気の出てきた娘が年下の少年と肉体関係を持って、子どもをはらみでもしたら、大変だと思ったにちがいない。レベッカに対しファニーは、一階のチャーリーの部屋に入って二人きりになることを、禁じた。下の娘たちにも、そんなところを見かけたら、教えるようにと命じた。
 ファニーは、チャーリーの品行が良くないことも気になっていた。人づてに聞くと、学校の成績も悪いそうだし、ぐうたらな不良少年だとしか思えなかった。ファニーはレベッカに、チャーリーのことを悪しざまに言うようになった。黒人の俗語で「汚らわしい嫌なヤツ」を意味する「ドブネズミ」(alley rat)とまで呼ぶようになった。それでもレベッカがチャーリーの肩を持って、交際を続けているので、何とかしなければと思っていた。
 ある日、チャーリーの部屋にレベッカが彼と二人だけでいるところを妹が目撃して、ファニーに告げ口した。ファニーは怒って、レベッカをきつく叱った。
 
 チャーリーの母アディは、二人の交際に反対ではなかった。息子がレベッカに夢中になっているのも知っていたし、自分が息子をかまってやれないだけに、放任していた。レベッカのことも気に入っていたようだ。
 後年、レベッカは、その頃のアディとチャーリーの母子関係について、こう語っている。(Stanley Crouch “Bird Land: Charlie Parker, Clint Eastwood, and America”1989 から引用。筆者のスタンリー・クラウチは、1980年代にレベッカを探し出し、彼女に初めてインタビューを試みた黒人の評論家である)
 「アディはいつも彼の思いのままにさせていたけど、深い愛情みたいなものは欠けていたように感じました。不思議でした。あれだけ息子のことを自慢して、彼のために働いて、何でも与えていたのに、二人の心は通じ合っていなかったようでした。彼は与えられるだけで愛されていなかった。彼には心の渇きがあるように思えて、そういう感じがひしひしと伝わって来て、私の気持ちも動かされたんです」(拙訳)

 1935年6月、レベッカはリンカーン・ハイスクールを卒業した。
 卒業式の日、チャーリーは、学校のオーケストラでバリトン・ホーンを演奏していた。それを見て、レベッカは初めて彼が実際に楽器をやっているのを知って驚いたという。それまでデートをして、いろいろな話をしたのに、そんな話は一度も出なかったからだ。演奏壇からチャーリーはレベッカの方をちらちら見ていた。そして、その日の祝賀会で、二人はダンスを踊った。

 チャーリーは、今度こそ学校を中退しようと決心を固めた。昨年の夏前、落第が決まって、1年生をもう一度やらなければならなくなった時、退学しようと思った。しかし、レベッカに説得されて、退学は断念した。彼女といっしょに登校し、学校が終われば、デートできる楽しみがあったからだった。彼女がいるから学校に通っていたわけで、彼女がいなくなってしまえば、学校に行く意味もなくなっていた。それに、今年もまた落第で、三年目の1年生をやらなければならない。
 ハイスクールを中退して、レベッカと結婚しようとすれば、自活の道を考えなければならない。チャーリー・パーカーがプロのミュージシャンを目指そうとしたきっかけは、案外単純で、早くレベッカと結婚したかったことだった、と私には思えてならない。
 レベッカは、ハイスクールを4年で卒業すると、カンザス・シティの公立図書館に就職した。夕方仕事が終わると、チャーリーと会って、デートを続けた。
 チャーリーは、学校の先輩ローレンス・キーズのバンド”ディーズ・オヴ・スウィング“(間もなく”テン・コーズ・オヴ・リズム Ten Chords of Rhythm”と改名したようだ)に入って、アルト・サックスを吹いていた。が、一日11時間から15時間、猛然とサックスの練習に励むようになったのは、この頃からだろう。1935年秋、15歳になったチャーリー・パーカーは、人生の目標を定め、それに向かって走り始めていた。
 1936年の春、ラフィン一家が、2年そこそこでアディ・パーカーの家の二階を引き払い、引っ越すことになった。母ファニーは、娘とチャーリーの仲を無理やり引き裂こうとした。
 しかし、レベッカは母親にチャーリーとの交際を禁じられたにもかかわらず、密会を続けた。妹たちも協力するようになり、二人のデートを取り持つ役を務めた。


チャーリー・パーカーの半生(9)

2019年08月03日 17時53分55秒 | チャーリーパーカー
 アディ・パーカーが夫と別居して、カンザス・シティ(ミズーリ州)の黒人居住地区、オリーヴ通り1516番地に借家を見つけて、チャーリーと二人だけで暮らし始めたのは1932年の夏であった。二階建ての古い木造家屋だが、一階は居間と2部屋と台所、二階にも3部屋ある広い家で、アディは、家計の足しにしようと考え、二階を全部、人に又貸しした。
 チャーリーはこの家から1年間小学校へ通って卒業し、1933年9月、13歳でリンカーン・ハイスクールへ入学した。(パーカー研究者の近年の調査でハイスクール入学の時期は1933年9月にほぼ確定したようだ。また、卒業した小学校は、クリスパス・アタックス校なのか、チャールズ・サムナー校なのかで、1980年代半ばからずっと論議されてきたようだが、これも近年の調査で、オリーヴ通りへの転居時期も含め、結論に近いものが出ている。これについてはまた回を改めて、書きたい)
 チャーリーはハイスクールに入って初めのうちは真面目に勉強していたが、次第にやる気をなくしていった。良い先生がいなかったからだというが(母アディの話)、小学校の高学年の時からサボり癖がついて、学校の集団生活にも嫌気がさしていたのだろう。リンカーン・ハイスクールは、ミズーリ州側のカンザス・シティでは唯一の黒人限定のハイスクールであり、一学年に数百人いるようなマンモス校で、老朽化した校舎と教室の中に、生徒たちはすし詰め状態だった。また、校則も厳しかった。無断の遅刻・欠席はきつい注意を受け、出席日数が足りなければ、進級できなかった。チャーリーは、教室での勉強に興味を失くし、ただ音楽の授業とバンドの練習だけを楽しみに登校していた。
 母アディは、昼間の仕事が終わって夕方帰ると、夕飯を作ってチャーリーと食事をし、夜8時過ぎになると、電信電報局の清掃の仕事へ出て行った。夜勤で帰宅するのは早朝だった。チャーリーは、独り家に取り残されたが、そのうち夜な夜な、街へ出て、映画を見たり、ナイト・クラブやダンス・ホールの店先に佇んで、中から流れて来る音楽に耳を傾けていた。


<チャーリー・パーカー10代半ばの頃>

 そんな頃、家の二階にいた間借り人が引っ越して、それと入れ替わるように、近所に住んでいた黒人の家族が引っ越してきた。ラフィン一家で、その次女がレベッカがであった。
 レベッカ・ラフィン Rebecca Ruffin は、チャーリーに初めて会った引っ越しの日のことを、50年近く経った後でもはっきり憶えていて、後年、インタビューでこのように語っている。
1934年の4月10日、14歳の時でした。両親が離婚して、母が子ども全員を連れて、近所にあったアディ・パーカーの家の二階へ引っ越したんです。母のファニー、兄と姉と、私と、妹が三人いました。その日、私たちが家財道具を二階へ運び上げるのを、アディとチャーリーは階下で、階段の手すりにもたれながら、眺めていました。チャーリーはニッカーポッカ―をはいていて、なんだか子どもっぽかった。女の子とあんまり接したことのない、うぶな子みたいで、私の方をじっと見ているのね。その時、私に惹かれてる感じがして、そのうちきっと私を選ぶんだろうなあ、って直感しました
 ただ、その時レベッカは、荷物運びを手伝おうともしないチャーリーに腹を立て、「お母さん子の甘ったれ」で「ひどい怠け者」だという印象を持ったという。
 一方、チャーリーは、女の子が5人も二階に住むことになって、当惑と期待が入り混じった気持ちになったにちがいない。なかでもレベッカを一目見て、気に入ってしまったようだ。
 レベッカは、黒人なのに肌の色が小麦色で、顔立ちも可愛く、瞳はきらきら輝き、艶のある髪を二つ分けにして、両側を束ねて留めていた。彼女は、肉体的にも少女期から一人前の女にさしかかる頃で、思春期を迎えたチャーリーに、異性への目覚めを急に起こさせる結果になった。


<レベッカ15歳の頃>

 レベッカの家族が二階に住むようになって、チャーリーの日常生活は一変した。レベッカは、チャーリーと同じリンカーン・ハイスクールの生徒だった。チャーリーは1年生、レベッカは3年生だった。妹が3人いて、13歳のオフェリアはチャーリーと同じ1年生、11歳のネオマと7歳のドロシーは小学生。それで、チャーリーは、毎朝レベッカと妹たちと集団登校するようになった。これで、遅刻も欠席もなくなり、学校へ行くことが楽しみになっていた。
 そのうち、学校が終わると、チャーリーはレベッカと二人で寄り道をして帰ることも多くなった。フード・ショップで買い食いしたり、ウィンドー・ショッピングをしたり、映画館へ入って西部劇を見たり、半年も経たないうちに二人はすっかり恋人同士になってしまった。


チャーリー・パーカーに関する文献・資料(4)

2019年07月31日 14時34分21秒 | チャーリーパーカー
 先日アマゾンで注文したライズナー編著「チャーリー・パーカーの伝説」の原書”Bird: The Legend of Charlie Parker”(Edited by Robert Reisner, 1962) が手元に届いた。初版本は1962年にニューヨークの出版社から発行されたが、この本は、ダ・カーポ出版(Da Capo Press)という出版社が1975年に再版した本のペイパー・バック版である。現在あちこちを拾い読みしている。



 片岡義男が訳した日本語版と比較しながら読むと、日本語ではどうしても意味が伝わらなかった部分も分かって、納得が行く。原文を意訳している箇所、訳者がどうやら文意を読み取れなくて誤魔化して訳している箇所、明らかに誤訳だと思われる箇所も分かってくる。大して重要でない部分は良いのだが、パーカーの研究に関し貴重な発言だと思われる部分、伝記を書く上で重要な箇所は、正確さが問われる。不適切な和訳は、問題である。

 一例を挙げよう。ハイスクール時代のバンド・リーダーで、チャーリー・パーカーの10代の頃を知っているローレンス・キーズの談話の冒頭部分。原文はこうだ。

 Bird went to Crispus Attucks public school and then to the old Lincoln High School. We had a school band of which I was the leader. Alonzo Lewis was our music teacher, and it’s to his credit that he saw the promise in Charlie’s playing and said so. Bird played baritone horn in the band, but off the stand he was fascinated with the piano, and he used to bother me to show him the chords. I was three years older than him. I was a sophomore, and he was a freshman.

 片岡訳はこうだ。下線と(注の番号)は私が付けたもので、不適切だと思う訳文・訳語である。
 「バードはクリスパス・アトゥックス公立学校へいき、そのあと、昔からあるリンカーン・ハイスクールに入った。スクール・バンドがあり、私がリーダーだった。アロンゾ・ルイスが私たちの音楽の先生で、チャーリーの演奏のなかに可能性を見出してきみは見込みがあると言ったのは、この先生の手柄だ(1)。このスクール・バンドでは、バードはバリトン・サックス(2)を吹いていたが、スタンドをはなれたところではピアノにひかれていて、コードを教えてくれと私にうるさくつきまとっていた(3)。私は彼よりも三つ年上だった。私は三年生(4)で、彼は一年生だったのだ」

 (1)意訳だが、「きみは見込みがあると言った」と訳したのはやや疑問。原文では、ルイス先生がチャーリー本人に直接言ったかどうか分からない。「きみは」は不要だと思う。強調構文を直訳していて、to his credit を「この先生の手柄だ」と訳しているが、「手柄」という訳語はどうなのだろう。ルイス先生は「さすがに偉い、目が高い」といった意味だと思う。
 (2)「バリトン・サックス」は誤訳。「バリトン・ホーン」が正しい。サキソフォーンとホーン(ホルン)は違う楽器なのだ。私は以前この訳語を見て、おかしいなあと思っていた。これはチャーリー・パーカーが最初に演奏した楽器に関わる重大なミスである。
 (3)誤訳ではないが、適訳とはいえない。片岡訳は、全般的にひらがなが多すぎる。意識的にそうしているのだろう。また、英語をそのままカタカナにしていて、意味が分りにくいことばも多い。「スタンド」というのは、「バンド・スタンド」つまり「演奏壇」のことだが、off the stand は「演奏壇を離れると」「バンドで演奏していない時」といった意味だと思う。「うるさくつきまとっていた」という訳文は強すぎて、「邪魔くさい」イメージが加わってしまう。bother a person to do は「人に~してくれと言って困らせる、面倒をかける」といった意味だが、ちょっと厄介なことを頼むまれて面倒に思う程度にすぎない。
 (4)「3年生」は誤訳。なぜこんな簡単な英語の訳語を間違えたのか、まったく疑問だ。sophomoreは、4年制の学校で「2年生」のこと。freshman → sophomore → junior → senior という順に進級するのは常識ではないか!

 私ならこう和訳したいと思う。
 「バードは、クリスパス・アタックス公立校から、古いリンカーン・ハイスクールに入った。このハイスクールには、私がリーダーをやっているスクール・バンドがあった。アロンゾ・ルイスが音楽の先生だった。先生はさすがに目が高く、チャーリーの演奏に将来性を見出し、有望であると言ったのだ。バードはこのバンドでバリトン・ホーンを演奏したが、バンドを離れると、ピアノに魅力を感じていた。だから私はいつも彼にせがまれ、コードを教えたものだ。私は3歳年上だった。私は2年生、彼は1年生だった」


チャーリー・パーカーの半生(8)

2019年07月30日 16時25分42秒 | チャーリーパーカー

<アディ・パーカー 何歳の時かは不明>

 チャーリー・パーカーの母のアディという女性は、察するに、女傑というか、大変な肝っ玉かあさんだった。夫に逃げられ、息子がハイスクールに入ってから約2年間は、昼も夜も働きづめで、金を稼いだ。日中は白人の家で家政婦をやり、夜遅くから翌朝までは公営の電報電信局の大きなビル内の清掃をしていた。彼女と息子チャーリーが住んでいた家は、黒人居住区のオリーヴ通り1516番地に建っていた木造の二階屋で、借家だが二階を全部知り合いに又貸しして、家賃を取っていた。自分と息子は、一階に住んでいた。一階には居間と台所と寝室が2部屋あり(2LDK)、居間には夫が残していったピアノがあったという。
 で、アディは睡眠時間まで削って、いったい何のためにこんなに一生懸命働いていたかというと、息子を医者にするための教育費と、持ち家を買うための資金を蓄えていたのだ。
 しかし、第一の目的は果たせず、息子のチャーリーは学校をさぼりまくり、勉強どころではなくなって、彼女の夢は潰え去ってしまう。だが、第二の目的は10年後に果たすことができた。同じオリーヴ通りを少し下ったところの1535番地に、立派な2階建ての家を買ったのである。1943年のことだった。その時からずっと、いつかこの家で、息子チャーリーとその家族たちと一緒に暮らすことを思い描いていたのだという。だが、この希望もかなわずに終わってしまう。


<カンザス・シティ(ミズーリ州)・オリーヴ通り1516番地の現在>

 アディ・パーカーの前歴を調べてみたので、書いておこう。

 アディの旧姓は、ボクスリーBoxley が正しいようだ。チャーリー・パーカーの出生証明書にはベイリー Baileyと書いてあり、他の公式書類には、Bayley, Boyleyと書いたものもあるようだ。がこれは、筆記体で書いた文字の読み違い、転記ミスであろう。また、アディ Addie という名は、アデレイドAdelaide の略称らしい。けれども、一般にはAddieで通し、公式書類もすべてこの名で署名していたようだ。墓石にもAddie Parker と刻まれているので、まあ、この正式名らしき名前は、あってないようなものだろう。Charlie の正式名Charles とは訳が違うと思う。
 それと、アディの誕生地であるが、テキサス州のヘンプステッド Hempstead あるいはオクラホマ州のマッカレスター McAlester のどちらかのようだ。彼女の一族はオクラホマ州マスコギー Muskogee 出身で、アディはチョクトー族の血が4分の1混っていたと書いた本もあるようだが、これも真偽不明である。伝記作家がひねり出した根拠薄弱な推測かもしれない。チョクトー族Choctawというのは、北米の先住民(いわゆるアメリカ・インディアン)で、当時オクラホマ州に多くいたようで、アディがオクラホマ州出身で、顔つきや体形も少しインディアンに似ているところがあるので、そんな説を持ち出したのだろう。

 アディは、20代の時、オクラホマ州からカンザス州へ移って来て、チャールズ・パーカーと出会い、結婚した。その時、本当は25歳だったのだが、18歳だと偽った。そして、1898年8月21日生まれをその後もずっと通し、22歳でチャーリーを産んだことにしていた。チャーリー・パーカーは母の実年齢を知っていたらしく、1950年5月のインタビューでは、「彼女はとても活発で……62歳なんだけど、看護学校を卒業したばかりだ。老けてはいないし、動作もきびきびしている」と話している。1950年で62歳としたら、1888年生まれになって、10歳も年寄りになってしまうが、これはいったいどうしたわけなのだろう? アディは、働きながら看護学校へ通って、62歳(?)で、介護婦の資格を取り、カンザス・シティの大病院に就職する。その後、10年ほどここで勤めて引退したようだ。

 これは余談だが、アディは夫チャールズが家を出た後、愛人が出来て、彼を時々家へ招き入れていたという。ある日、チャーリーは、母がベッドでその男といっしょに寝ているのを目撃してしまう。その時、母は苦しまぎれに言い訳したそうだが、ショックだったにちがいない。チャーリーがハイスクールに通っていた頃で、その後、母がその男と寝室にいる時、チャーリーは居間で独りポツンとしていたという(レベッカの話)。そして、多分この愛人だと思うが、アディは1940年頃、その男と同棲するようになったらしい。新たに家を買ったのは彼と新居で暮らすためだったのかもしれない。
 そして、チャーリー・パーカーが死んだ後、アディはアウグストゥス・ダニエルという77歳の人(どうやら以前の愛人と同一人物らしい)と、1963年5月に正式に結婚している。しかし、結局彼とは離婚したようだ。
 アディが亡くなったのは、1967年4月21日である。彼女は最愛の息子の隣りに埋葬されたが、その墓石には、1891年8月21日という正しい生年月日が刻まれている。


<カンザス・シティ(ミズーリ州)のリンカーン墓地にある母子の墓>
 
 次回は、チャーリー・パーカーの初恋の女性で最初の妻になったレベッカ・ラフィンについて書きたいと思う。