BLOG夜半亭

「HP夜半亭」などのトピックス的記事

早野巴人の句(十句鑑賞)

2006-01-01 13:06:57 | 巴人関係
早野巴人の句(十句鑑賞)

(その一)

○鳥既に闇(くらが)り峠年立つや

蕪村の俳諧の師の早野巴人の句である。巴人は、
其角と嵐雪に師事した。延宝四年(一六七六)、下野
(栃木県)那須郡烏山に生まれた(延宝五年説もあ
る)。早くから江戸に出て、芭蕉が没する元禄七年(
一六九四)の頃には、「竹雨」の号での初見の句も
見られている。寛保二年(一七四二)、六十七歳で没
する。掲出の句は、『夜半亭発句帖』の中の一句で
ある。季語は「年立つ」。「闇り峠」は京阪と奈良を結
ぶ生駒山中の峠の名前である。現代俳句の「写生・
写実」を中心に据えての鑑賞は、「何の鳥かは知ら
ないけれども、あの夕方見た鳥は、もう、生駒山中
の闇り峠辺りを飛んでいるのであろうか。そして、そ
の峠を越えた頃には、新しい年を迎えることになる
のであろうか」とでもなるのであろうか。しかし、巴人
の時代、即ち、其角の流れを汲む「江戸座」の俳諧、
そして嵐雪の流れを汲む「雪門」系の俳諧の時代に
あっては、単純に、「写生・写実」を中心に据えての
鑑賞だけでは、不十分のようなのである。当時の俳
諧の一つの基調として、縁語などを駆使した「比喩
俳諧」が顕著に見られ、その一つに「省略(抜け)」
などを巧みに取り入れての滑稽句が盛んに横行し
ていた時代なのである。そして、この巴人の句にも、
仕掛けが施されていて、その「省略(抜け)」の技法が
施されているようなのである。ずばり、この句の上五
の「鳥既に」の「鳥」は、「借金取り」の「(掛け)とり」の
「鳥」のようなのである。即ち、早野巴人の作句の心
には、「借金取りの『掛けとり」人は、今頃、あの生駒
山中の闇り峠あたりをうろついているのであろうか。
そして、この奈良の都に辿り着く頃は、新年になって
いて、その借金の支払いは、また、その年の大晦日
と言い訳することができるわい」というようなことが、
その作句の心らしいのである。もうこうなると、「古俳
諧の鑑賞などというのは、どうにも、手も足も出ない」
という感じすらしてくるのである。しかし、蕪村に「自在
なる心」を植えつけた巴人は、こういう句だけではなく、
それこそ、万華鏡のような多彩の世界を見せて呉れる
のである。

(その二)

○ 舟に問へば古里がよし花の春

この巴人の句には、「其明るとしも京にて」の前書きがある。この前書き
から、この句は、巴人が京都に移住した翌年、享保十三年(一七八二)
の作ということになる。平明な句で、また、取りたてて、巴人の傑作句
というわけでもない。ただ気になるのは、上五が、「舟に問えば」と、字
余りの句ということである。そうなのである。この句は、『伊勢物語』の、
在原業平の、東下りの、「名にし負はば いざこと問はん 都鳥 わが
思ふう人は ありやなしやと」の「本歌取り(本句取り)」の句なのである。
この業平の歌が、『名にし負ふば」・「わが思ふ人は」と「六・七・五・八
・七」と字余りの二箇所ある句なのである。巴人はそこに目が行ってい
るのであろう。そして、それが故に、「舟に問へば」と字余りにしている
のであろう。それだけではなく、業平の歌は、「京都の都人が京都を懐
かしがって」詠んでいるのに対して、この巴人の句は、「江戸の人・巴
人が京都の都人の船頭に、江戸を懐かしがって」、それで一句としてい
るのである。完全な、在原業平の歌に対するパロデイの一句なのである。
一見、平明のような、この句も、どうして、どうして、仕掛けのある句という
ことになる。当時の俳諧師というのは、博学・博識の権化のような人種
でもあったのだ。とにもかくにも、「字余り」・「字足らず」というのは、俳句
技法の一つであるということは、心しておく必要があるようなのである。

(その三)

○ 星を見るなら夕暮の海

この巴人の句は、五・七・五の発句(俳句)ではなく、七・七
の十四音字の、連句の付け句の「短句」のそれである。
この句は、元文四年(一七三九)の『俳諧 桃桜』の中の、
嵐雪追善の「右」の巻に所収されている。その「名残の裏」の
四句目のものである。その前後の句と併せて記載すると次の
とおりである。

  白髪迄かせきわたりの黒羽折
   星を見るなら夕暮の海
  玄峰居士匂ひのこりて花の雲

この挙句の前の「花の句」の「玄峰居士」は嵐雪の別号である。
その「花の定座」の前の一句、「星を見るなら夕暮(れ)の海」、
何とも雰囲気のある簡潔・直截的な句である。こういう七・七句
の短句は、もう、連句の世界でしか見られなくなってしまった。
「川柳」の世界では、この「七・七」句を作句する柳人を見かける
ときがある。その柳人の一人に、「川柳六大家」の一人・前田
雀郎がいた。この雀郎の「海の句」に次の一句がある。

 七月の海を思へば晴れてゐる

この雀郎の句は、雀郎の傑作句の一つであろう。
巴人も雀郎も「海なし県」の野州(栃木県)に生まれた。
江戸時代の早野巴人と大正・昭和時代の前田雀郎が、共に、
「海の句」の、素晴らしい作品を残していることに、限りない
共感を覚えるのである。

(その四)

○ 炭窯や鹿の見て居る夕煙

巴人の『夜半亭発句帖』の中の一句である。この句には「炭」という前書き
が付与されている。秋の「鹿」の句というよりも、冬の「炭窯」(『夜半亭
発句帖』では「窯」は異体字)の句ということになる。
この句について、ドナルド・キーン氏が次のような英文・訳を付して、その著
「日本文学の歴史8(近世篇2)」で紹介している。
The charcoal kiln-/ A deer watches/ The evening smoke. 
キーン氏はさらに巴人に関連して「『写生』があるかどうかは、明治期に入る
と、俳句の優劣、とくに中興俳諧の作品の優劣の物差しとして重要視されるよ
うになった。早野巴人(はやのはじん・1667~1742)のような二線級の作家が
かなりの追随者を持つようになったのも、その句に写生があるからであった」
(前掲書P319)と述べている。  
このキーン氏の、巴人(の句)に「写生がある」ということを単純にそのまま
鵜呑みにすると、句意そのものがおかしくなってしまうことにたびたび遭遇す
るのである。即ち、当時は比喩(「あることを見立てたり,例えたりすること」
を句の中味にしている)俳諧が横行していた頃であり、巴人の句を理解するとき
にも、単に何かを写生したりしているというよりも、何かを比喩しているのでは
ないかということを常に念頭において接する必要があるということである。
ここでは余り深入りせずに、単純に、巴人の平明な写生的な句と理解しても、1
「鹿が炭窯を眺めている夕暮れの絵画的な句」と理解するか、それとも、2「鹿が
炭窯を眺めている夕暮れの新奇な光景の句」と理解するかとの、二通りの理解では、
この句が画家でもある蕪村の句であるならば、1のような理解となってこようが、
変幻自在の俳諧師・巴人の句となると、2の理解の方がより妥当のように思えてく
るのである。もう一つ、キーン氏は,巴人を「二線級の作家」としているけれども、
現代における巴人研究のパイオニアの潁原退蔵(えはらたいぞう)氏の「夜半亭巴
人」(「潁原退蔵著作集第十三巻」所収)の「巴人は巴人として俳諧史上重要な地
位を保つものではない」(P169)などの影響によるものと理解できるし、芭蕉と蕪
村との間を結ぶ時代(享保の時代)の、その当時の「一線級の作家」との評価をして
も、けだし誤りではないように思われるのである。
(この句については、かって、「炭窯や鹿の見て居る夕べかな」の句形で鑑賞してい
たが、その句形は誤りであることを付記しておきたい。)

(その五)

○ 鳴(なき)ながら川飛(とぶ)蝉の日影かな

巴人の代表作の一つであろう。この句については、夜半亭
二世・蕪村が夜半亭一世・巴人とその高弟の一人である夜
半亭三世となる高井几董の父・几圭の画像を描き、そして、
夜半亭三世・几董の賛によるものが、几董編著の『其雪影』
に収録されている。巴人像というのは、唯一、この蕪村の描
くものという貴重なものであろう。この句については、明治時
代の子規以降で、論の人として名高い大須賀乙字の数少な
い門弟の一人の内藤吐天が、次のような鑑賞をしている。
「夏の日が閑かに湛へた野川の景趣である。岸辺の木蔭に
とまってゐた蝉が、ヂヂッと鳴きながら、きらりと耀いて飛ん
で行ったといふのである。澄明な光の世界を過る一匹の蝉
は、燦爛として白金の光と化する。それにしても、あくまでも
閑寂な、東洋的な光の世界である。」(『俳句講座(日本俳句
研究会)』)
堀口大学等がその訳詩を発表していた「パンテオン」にも、
その名をとどめている俳人・内藤吐天の、この「東洋的な光
の世界」という鑑賞は、この句の鑑賞にふさわしいように思
われる。巴人には、このような現代俳句にも通ずる一群の作
品の世界があり、それがまた何ともいえない魅力となってい
る。

(その六)

○ 夏川や流れるもののみなうつくしき

高井几董編著『続明烏』の中の巴人の句である(「夏川
の流れるものの」の「の」は原本は反復記号)。巴人の
句は、その十三回忌に編纂された、砂岡雁宕らの『夜半
亭発句帖』所収の二百八十七句が、現在、主として、巴
人の句として、鑑賞されるのが通常である。そして、この
句は、その『夜半亭発句帖』に収録されてはいず、ひっそ
りと、『続明烏』(その三百十四句目)に、巴人の晩年の
号の「宋阿」の句として収録されている。
前回に取り上げた、『夜半亭発句帖}』収録の「鳴ながら
川飛蝉の日影かな」は、これまた、前回に取り上げた几
董の『其雪影』では、「啼ながら川こす蝉の日影哉』の句
形で収録されている。『夜半亭発句帖』の「川飛ぶ」よりも
『其雪影』所収の「川こす」の方が、その「川」が「小さな川」
のイメージからしても、よりイメージが鮮明化するように思え
るのである(従って、前回のこの句の鑑賞については、こ
のことを付記する必要があろう)。
さて、今回の「夏川や流れるもののみなうつくしき」、何とも
リズムの美しい、そして、句意も平明な句であることか。こ
の句は、「河合森(ただすのもり)にて」の題の中に収録され
ている一句で、京都の下加茂神社の作ということになろう。
そして、この「流れるもの」とは、「禊ぎに用いられた形代
(かたしろ)の人形など」を指しているのであろう。それらの
ことを抜きにしても、現代俳句にも通ずる平仮名多用の余韻
のある一句ということがいえよう。 そして、こういう、巴人の傑
作句も、全く、取り上げられることなく、往々にして、その駄句
の方が、より多く鑑賞されているということは、やはり、心に
とどめておく必要があるように思えるのである。

(その七)

○ 落(おち)鮎や水に酔(よひ)たる息づかひ

この句には「落鮎」との前書きがある。巴人の故里の
栃木県那須郡烏山町の那珂川河畔に巴人句碑として、
この句が建立されている。詩人の草野心平の書による
ものである。しかし、詩人・心平が巴人のこの句を選
句したのではなく、烏山町は俳句の盛んな所で、その
長老格の人が選句して、書をよくした心平にその揮毫
をお願いしたというのが、その真相ということである。
さて、その烏山町の昭和時代の俳人が、『夜半亭発句
帖』の中から、この句を選句した背景は、那珂川は烏
山のシンボルであり、そして、その那珂川は鮎で知ら
れており、そんなことから選句したのであろうが、こ
の句の前書きにある「落ち鮎」は、産卵の後、死に絶
えるのであるが、その「息づかひ」の把握に惹かれて、
この句を選句したように思えるのである。そして、そ
の「生き物の悲しみ」としての「落ち鮎」と昭和の蛙
の詩人として名を馳せた草野心平とを結びつけると、
この句は、「落ち鮎」の句として、傑出した句のよう
に思えるのである。そうした鑑賞の後、この句が、巴
人の時代に盛んであった「見たての句」として理解す
ると、詩人・心平は揮毫しなかったのではないかと思
えてくるのである。その「見たての句」としての鑑賞
は、「落ち鮎は産卵期で腹を赤くしており、それが酔
って、そして、その息づかひ」に着目しての句という
理解なのである。確かに、比喩俳句全盛の巴人の時代
にあっては、そのような鑑賞がその一面なのかも知れ
ないが、草野心平の詩をよく知る一人として、「この
産卵の後、海に行き、死んでゆく、その落ち鮎」の句
として、この句を鑑賞したいと・・・、そのような思
いを抱かせる一句なのである。

(その八)

○ 広庭に淋しくまはる一葉かな

季語は「一葉」(ひとは)で秋。句意は「広い庭を風に吹かれる
ままに、大きな桐の一葉が、淋しそうに走り回っている」。
巴人の句としては数少ない叙景句の一つである。巴人には、時に、
比喩句などの技巧的な句ではなく、掲出句のような客観写生的な
句を見ることができる。そして、こういう句が、巴人を俳諧の師
とした蕪村が、より多く、後に、自分のものにしていったという
ことを、蕪村の句に接していて、思い知るときがある。

 広庭の牡丹や天の一方に 蕪村

巴人が「桐一葉」なら、蕪村は「牡丹」と、その「桐の一葉が地
上を走り回っている」なら、蕪村の「牡丹は天空の一方に」と、
蕪村のこの句は、巴人の掲出の句を意識しているに相違ない。
そして、十七音字と極めて短い詩形においては、不意に、心の片隅
にあった他の人の句などが思い起されてくることがしばしばある。
この蕪村の句なども、蕪村の好きな牡丹を飽かず眺めていながら、
蕪村は巴人のこの桐一葉の句を思い浮かべていたに相違ない。

(その九)

○ 晋化去りぬにほひ残りて花の雲  嵐雪
○ 玄峰居士匂ひのこりて花の雲   宋阿(巴人)
○ 花の雲三重にかさねて雲の峰   蕪村

この三句は、蕪村の「宋阿の文に添ふる辞」からの抜粋
である。宋阿は早野巴人の晩年の号。掲出の句の「晋化」
は「晋子」の号を持つ「其角」のこと。「玄峰居士」は
晩年の禅に傾倒した「嵐雪」のこと。この嵐雪の句は、
其角の「白雲や花に成りゆく顔は嵯峨」の句に想いを馳せ
ての嵐雪の其角への挨拶の一句。そして、この夜半亭一世
・巴人の句は、それらの其角・嵐雪の句を偲んでの巴人の
嵐雪への挨拶の一句。そして、夜半亭二世・与謝蕪村は、
芭蕉・其角・嵐雪の流れの夜半亭一世・巴人に想いを馳せ
ての挨拶の一句。この三句を並列して鑑賞するとそれぞれ
がそれぞれに呼応しあって、俳諧の本質の一つである「挨
拶」(存問性)ということに思い至る。この「存問(ぞんも
ん)」は晩年の高浜虚子がよく用いたもので、「日常の存
問が即ち俳句である」と喝破した。嵐雪・巴人・蕪村、そ
して、現代俳句に大きく影響を及ぼしている虚子もまた一
つの巨峰であろう。

(その十)

○ 風薫る家に入間の里の馬鹿

この巴人の句には、「京なりける人の許(もと)にまねかれて」の
前書きが付与されている。この前書きを頼りにして、文字通りに
解釈すると、「かって京都に住んでいた人に招かれて、その人の
家を訪問しましたが、その家は初夏の風薫るように爽やかなので
すが、その家の主は狂言『入間川』に出てくるよう、逆さ言葉を
使い、どこか、その狂言の『入間の里の馬鹿』うような趣でした」
とでもなるのであろうか。とにかく、狂言「入間川」のパロディ化
で、意味の取りづらい、いわゆる、難解句という雰囲気である。
さて、この句の謎解きは、逆さ言葉の「入間言葉」にある。ずばり、
この句の「馬鹿」は、その反対の「利口・賢人」と、この句の作者
・巴人は「ひねって」、この句を作っているようなのである。
即ち、この句の句意は、「風薫るような爽やかな家の、その主は、
実に、その家の主にふさわしいような爽やかな七賢人の一人のよう
な賢人そのものでした」というのが、この句の全体像のようなので
ある。そして、こういう句は、現代においては、「俳句」の世界で
はなく、より多く、「川柳」の世界のものであろう。いや、現代の
「川柳」の世界でも、ここまでの、「言葉遊び」の「遊び心」を持
って、作句している人は皆無なのではなかろうか。この「遊び心」
というものを、この「遊び心」に根ざす「豊かさ」というものを、
現代人は何処かに置き忘れてしまったような、そんな気がしてなら
ないのである。



最新の画像もっと見る