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巴人春秋(四・五・六)

2005-05-05 09:34:55 | 巴人関係
(四) 巴人と淡々と羅人
                                             
一二七 風声水音都の不二(ふじ)を扇かな---前書き「羅人万句 題寄扇祝」                                                      
山口羅人(らじん)(一六九九~一七五二)は近江守山の生まれ、上京後、京都で書肆(書店)を営んでいた。別号、蛭牙斎(しつがさい)・御射山翁(みさやまおう)。享保六年(一七二一)の頃淡々門に入門したが、同十二年、児嶋大圭(たいけい)等と共に淡々と対立したが、後に、淡々の一方的な優勢の下に和解している。その後、元文二年(一七三七)に、羅人は一日万句興行を行い、巴人のこの句はその時のお祝いの句であろう。万句とは百韻(百句からなる連句)百巻のことであり、一日万句興行とは一日にこの百韻を百巻完成させることである。この万句興行は宗匠となる立机披露の時に行われ、羅人が立机するその興行と理解される。巴人のこの句も「都の不二」(比叡山)に、「都に二人といない大宗匠」ということを掛けているのだろう。「風音」は「比叡下ろしの風音」、そして、「水音」は鴨川の水音と、そして「扇」に「仰ぎ見る」を掛けていると、技巧的な句作りでもある。
 巴人と羅人との親交がどれほどのものであったかはこれはという記録も残されていないのだが、巴人の跡を継ぐ与謝蕪村に、「三俳人図」画賛があり、そこには「みな人のひるねのたねや秋月」(貞徳翁)、「これはこれはとばかり花のよしの山」(貞室)と共に、羅人の「雪の日やあふみのかねも聞ゆなる」の句が記載されている。この蕪村の、「貞徳・貞室・羅人」の三俳人の関係は、羅人が、晩年に、松永貞徳(ていとく)を慕ってその追善集『明心集(めいしんしゆう)』(明心居士貞徳百万回忌追善集)を編んでおり、その流れに羅人かあるということを、蕪村は承知してのものなのであろう。そして、この羅人の『明心集』は羅人の没後に刊行されるのであるが、その序は、半時庵(淡々)が草しており、羅人はその晩年まで淡々との親交を重ねていたということを物語っているようなのである。しかし、この『明心集』は一句の趣向のみを重視する淡々流に反発してのものとも理解され、表面では関西俳壇の総宗匠のような実力者の淡々に従っていながら、その内心は作家としての活動よりも点者・判者の宗匠としての活動に終始している淡々とは一定の距離を置いていたということも察知することができるのである。
 この淡々と羅人との関係は、それはそのまま淡々と巴人との関係においても等しくいえるようにも思われるのである。即ち、淡々と巴人とは、淡々がまだ渭北(いほく)の号を称していた元禄十三年(一七〇〇)の、共に、二十代の頃以来の付き合いであるが、巴人が京都に移住して以来、巴人は淡々の門でその主たる俳諧活動をしていたのであろうが、積極的に淡々の高弟として淡々のその「浪花ぶり」の俳諧を唱導したような形跡はない。むしろ、羅人のように淡々に反旗を翻したということはないけれども、内心は、淡々の高点付句集に見られる付合いを軽視した都会的な人事句とは異質の、より祇空に近い、芭蕉その人への接近というような色調が巴人の生き方あるいは句作りにも表出しているように思われるのである。
 これらのことは、蕪村の安永三年(一七七四)刊行の『むかしを今』(巴人の三十三回忌追善集)の序で「俳諧のみちやかならず師の句法に泥(なづ)むべからず、時に変じ時に化し、忽焉として前後相かへりみざるごとく有べし」の、蕪村の師匠としての巴人の「俳諧の自在」の立場が、何よりも淡々と巴人との関係を如実にいいあらわしているように思えるのである。そして、淡々もこのような巴人の立場を十分に承知しており、巴人の「このうへに何か都の華(はな)の春」の句を見て、淡々は「惜(おしい)哉ことし巴人ハ旧府に帰べし」と予言したという(几董著『新雑談集』)。即ち、巴人のこの句の「このうへに」というのは、「これ以上に(淡々らの関西俳壇・京都俳壇)から学ぶものはない)」という巴人の内心の気持ちを吐露したとも理解されるのである。いずれにしろ、淡々・羅人・巴人の三人は、彼らが活躍した、所謂、享保俳諧史を彩る主要な三俳人ということについては異論がないところであろう。
                                             
(五) 巴人と雁宕  
                                             
 八八 云伝(ことづて)よ我(わが)知(しる)人は若楓---前書き「雁宕が京より帰る」                                                
夜半亭宋阿(早野巴人)門というのは、巴人の江戸時代の流れと京都時代の流れとの二つの流れがあって、その江戸時代の中心となるものが、(砂岡)雁宕(がんとう)一派である。ここには、雁宕と一緒に『夜半亭発句帖』を編んだ箱島阿誰(あすい)と(中村)大済(たいさい)や、同じく、この『夜半亭発句帖』の「懐旧」の部に登場してくる風篁(ふうこう)・高峩(こうが)・桃彦(とうげん)・田洪水(でんきよう)・淅江(せきこう)などがいる。これらの俳人は何らかの意味において雁宕と関係の深い人達で、雁宕の家は結城野旧家で、結城十人衆の一つといわれる伊佐岡家の分家で、代々俳諧を楽しみ、代豪商の家でもあった。
 雁宕は、氏は砂岡(いさおか)。生年は未詳で安永二年(一七七三)七月の没。下総国(茨城県)結城の人。別号、二世茅風庵(ちふうあん)など。父は我尚(がしよう)で、父と共に始めは佐保介我(かいが)に師事していたが、後に、巴人門に入りその関東の代表的な俳人して活躍し、巴人没後には、蕪村が身を寄せて、蕪村のその後の成長を期した俳人でもあった。雁宕は血気盛んな俳人で、当時の大物俳人・大島蓼太(りようた)が『雪颪(ゆきおろし)』で巴人門と交流のあった江戸座の馬場存義(ぞんぎ)らの『江戸廿歌仙』を批判した折りには、『蓼(たで)すり古義(こぎ)』を著して反駁し、これに、蓼太側が『遅八刻(ちはつこく)』で応酬すると、『一字般若(いちじはんにや)』で応じるなど実作者だけでなく理論家でもあった。しかし、この蓼太と雁宕との論戦は、蓼太らの新興の雪門派(嵐雪系)俳諧の繁栄に対するやや停滞気味の其角系・沾徳・沾洲系の江戸座の羨望と反感とに根ざしており、蓼太側の論評がより正鵠を得ていたということと、それらの論評をとおして蓼太側が本腰を入れて蕉風復帰への口火を切ったということもできよう。
 そもそも、雁宕の師筋の地位にある巴人は其角門ではあるが、同時に嵐雪門でもあり、その晩年の平明な句風は其角の俳風というよりは嵐雪の俳風に近いものとなっており、その面からするならば、嵐雪の雪門俳諧の正当な系譜者である蓼太と巴人の高弟の其角の俳風寄りの雁宕とのこの対立は巴人人の俳風の二面性をも端的に物語るようにも思われるのである。そして、巴人・蕪村・几董と続く夜半亭俳諧は、蕪村の兄弟子のような雁宕の立場から離れて、雪門俳諧の正当な系譜者である蓼太との交流をとおして引き継がれていくのである。そのことは、巴人・蕪村亡き後、江戸在住の蓼太が京都在住の几董に夜半亭三世を名乗らせるその斡旋人になっていることからも、また、几董の編んだ蕪村の追善集の『から檜葉』の次の前書きのある追悼句の「<ことしはのぼれ、今年はのぼらんとおもふも、京師に此叟あればならし、あゝ夜半の我を哭しむるものは夜半亭の主人> ちからなき山の端(は)見たりおぼろ月」からしても明瞭なことであろう。
 さて、この「雁宕が京より帰る」の前書きがある掲出句の下五の「若楓」は、雁宕その人なのであろうか、それとも、「我(わが)知(しる)人」、即ち、巴人の知っている昔なじみの江戸在住の人達なのであろうか。ここは、後者の意味と理解すべきなのであろう。即ち、中国の故事にある「雁の使い」を見立てながら高弟の雁宕に託して、「雁の使い(雁宕)よ、私が知る人は、私が江戸を去る前には若楓のように颯爽としていたが今でもそのように颯爽と元気であって欲しいと祈っている」ということを伝えてよ」という意味なのであろう。巴人は、この句を雁宕に託して、その年の元文二年(一七三七)に江戸に再帰してくるのである。
                                             
(六) 巴人と吏登 
                                             
一三一 宵月夜門に添乳の暑(あつさ)かな----前書き「六月廿七日 深川吏登にて」                                                  
桜井吏登(りとう)(一六八一~一七五五)、別号、乱雪(らんせつ)・雪中(せつちゆ)など。嵐雪門。義兄一世湖十(こじゆう)に従って江戸座で活躍した。享保十七年(一七三三)に嵐雪の別号・雪中庵を継承した。しかし、病弱を理由に隠栖し、延享四年(一七四七)にその雪中庵号をその高弟・蓼太に譲り、閑静な晩年を送った。この吏登は巴人よりも五歳年下で共に嵐雪門の同胞でもある。吏登が嵐雪の雪中庵を継承した享保十七年の頃は巴人は京都に居り、その翌年の享保十八年にはその『一夜松』を刊行する頃で、巴人も吏登もその俳諧活動の絶頂期でもあった。そして、吏登が蓼太にその雪中庵を譲った延享四年は巴人の没後の五年後のことであった。
 この「六月廿七日 深川吏登にて」の前書きのある掲出句が、巴人の京都移住前のものなのか、それとも巴人の江戸再帰後のものなのか定かではないが、巴人と吏登とは嵐雪在世中からの相当に深い関係にあった同士であったということが理解される。この吏登は深川の隠士で、巴人らと違ってほとんど江戸を出ることなく、嵐雪の後を継承して雪中庵二世となったとはいえ、吏登のその人の特異な俳風を主張してその門葉を広げるわけではなく、俳諧は芭蕉の晩年の作風を代表する『炭俵集』を持って所為とし、当時の奇癖と穿ちにその興味の中心を置く江戸俳壇の風潮を良しとはしなかったのである。このことに関して、蕪村の『むかしを今』の序の「師(巴人)やむかし、武江の石町(江戸日本橋本石町)なる鐘楼の高く臨めるほとりにあやしき舎(やどり)して、市中に閑をあま(甘)なひ霜夜の鐘におどろきて、老(おい)のねざめのうき中にも、予(蕪村)とゝもに俳諧をかたりて、世のうへのさがごとなどまじらへきこゆれば、耳つぶしておろかなるさまにも見えおほして、いといと高き翁にてぞありける」に見られる「潔癖脱俗の士」としての巴人とものごとに恬淡として名利の観念に縁のない「深川の隠士」とは、驚くほどその類似性を有しているということなのである。
 そして、このこと以上に、その「潔癖脱俗の士」の巴人門より、今になお芭蕉の次の世代を継ぐとも評されている蕪村の夜半亭俳諧が誕生し、そして、その「深川の隠士」の吏登の門より、その蕪村とほとんど同時代にあって、さらには、芭蕉没後の当時にあって、芭蕉研究並びにその顕彰事業に貢献し、当時の江戸俳壇の浄化に務め、さらには、芭蕉の『炭俵』の洗練された俗談平和の基調の下に俳諧文学を広く普及させた、その蓼太の雪中庵俳諧が不動のものとなったことは、まさに、不可思議な因縁とすら思えてくるのである。
 さて、この掲出の句は、吏登の詫び住まいの光景なのであろうか、それとも、深川の一般的な市井の光景なのであろうか。どちらにも取れなくはないが、晩年の巴人や深川に隠栖している吏登の、その眼に映る、当時の江戸の下町の嘱目の景であることは間違いのないところであろう。そして、こういう目に見える嘱目の景をとおして目に見えない「暑(あつさ)かな」を主題とする句風は、巴人の高弟の蕪村にも、吏登の高弟の蓼太にも等しく認められるものであった。  
 

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