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茅舎追想(その二十)

2010-07-26 08:31:22 | 川端茅舎周辺
(茅舎追想その二十)茅舎の『白痴』周辺

 茅舎が亡くなった昭和十六年に刊行された『白痴』という句集は、とにかく、茅舎の句集としては不可思議な句集である。また、その評判も甚だ良くないのはあきれるほどである。
 大変に示唆には富んでいるのだがユニークな『蝸牛俳句文庫一一川端茅舎(嶋田麻紀・松浦敬親編著)』の「解説〈茅舎浄土と茅舎の浄土〉」(松浦敬親稿)では、このような出だしで始まる。

[この本は、二人の対話から生まれた。二人の意見は、『川端茅舎句集』や『華厳』の素晴らしさに対して、『白痴』にはあまりにも駄句が多く、杜撰である事で一致した。『白痴』がそうなった理由として、その「後記」にあるように、何もかも弟子の鈴木抱風子にまかせた事が考えられた。従って、茅舎の病気はそれだけ重く、本当に白痴に近い状態になっていたのだろう、と仮説を立てて、本格的な調査分析に入った。]

 「『白痴』にはあまりにも駄句が多く、杜撰である事で一致した。(中略)従って、茅舎の病気はそれだけ重く、本当に白痴に近い状態になっていたのだろう」とは、これは、どうにも、その指摘がたとえ仮説にしても、茅舎にとっては耐えられないようなものであろう。

 そもそも、この第三句集『白痴』を第一句集『川端茅舎句集』や第二句集『華厳』と比較鑑賞することは、これまた、茅舎にとっては、甚だ心外なことなのであろう。
即ち、その第一句集『川端茅舎句集』や第二句集『華厳』は、茅舎の師事した「ホトトギス」の総帥・高浜虚子の厳選とそのお眼鏡にかなった、謂わば、「ホトトギス」の「花鳥諷詠真骨頂漢」としての俳人・茅舎を世に問うところの、公的な、晴れ着的な、「ホトトギス句集」の一つの「晴れ」の句集という位置付けが可能であろう。
それに比して、この第三句集『白痴』は、全く、「ホトトギス」や「高浜虚子」とは関係なく、その意味では、「花鳥諷詠真骨頂漢」の茅舎ではなく、謂わば、茅舎の、私的な、普段着的な、世に冠されている「花鳥諷詠真骨頂漢」から飛翔して、その後の、一人の、病者の、身内の人に捧げるような、「死に至る三年間」の、赤裸々な、「余生残日録」的な、極めて、「褻(け)」的な句集ということになろう。
この「晴(ハレ)・褻(ケ)」については、柳田国男、そして、復本一郎などの優れた論稿などを目にすることができるが、こと、俳諧・俳句鑑賞に限ってするならば、「晴(ハレ)の句集」には「晴(ハレ)の鑑賞視点」そして「褻(ケ)の句集」には「褻(ケ)の鑑賞視点」が必要であって、これを区別しないで鑑賞すると、甚だ不具合が生ずるということであろうか。
この甚だ不具合の鑑賞のスタートが、『蝸牛俳句文庫一一川端茅舎(嶋田麻紀・松浦敬親編著)』の「解説〈茅舎浄土と茅舎の浄土〉」(松浦敬親稿)での、「『白痴』にはあまりにも駄句が多く、杜撰である事で一致した。(中略)従って、茅舎の病気はそれだけ重く、本当に白痴に近い状態になっていたのだろう」という仮説の結果に他ならない。
この茅舎の『白痴』という句集は、その「序」の、「新婚の清を祝福して贈る」のとおり、茅舎の甥(龍子の次男で継嗣)の清に捧げられた、茅舎にとっては「褻(ケ)的句集」ということになる。この「褻(ケ)的句集」について、「晴(ハレ)的句集」の『川端茅舎句集』や『華厳』と同じ鑑賞視点ですれば、これは、まさしく、「駄句が多く、杜撰である」ということにならざるを得ない。
ここで、『白痴』の冒頭の一句を例に挙げて、この『白痴』という句集が極めて茅舎の句集としては異例であるということを証ししてみたい。

○ 大旱天智天皇の「秋の田」も

季語は「大旱」の「旱」で夏。「秋の田」の「秋」で秋。「秋の田」も「大旱」ということになると、「秋」の句と理解したい。そもそも、この句は、百人一首の、「秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ」(天智天皇)の「本歌取り」の句なのである。
ここには、虚子の「ホトトギス」流の「客観写生」や、秋桜子の「馬酔木」流の「主観写生」の、その「写生」に基づくものではなく、「観念」に基づく、極めて、「遊戯的」な句ということになる。「花鳥諷詠」の「花鳥」(季題・季語)という観点からも、「大旱」と「秋の田」と支離滅裂で、その観点から句作りではない。「諷詠」(五七五の定型・切れ字の効果)という観点からも、俳諧連歌の「や・かな・けり」などの「切れ字」がなく、ここでも、駄句という汚名を冠せられるのかも知れない。
 この句の茅舎の狙いは何なのか? これは、天智天皇の百人一首の「秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ」の「かりほの庵」、即ち、この「かりほの庵」(仮庵の庵=茅舎)の「茅舎」が主題の句であって、この句に託した茅舎の意図というのは、「私こと茅舎は、この残暑で、カラカラ干上がった状態で、せめて、野草に宿る露で身を浄めたい気持ちです」というようなことなのかも知れない。
 とにもかくにも、この句は、俳諧連歌が本質的に有していたところの「笑いと謎」の、その典型的な謎を底に秘めている「謎句」の一句なのであろう。
 こういう句に対して、「花鳥諷詠真骨頂漢」という観点から鑑賞したら、これは、どうにも的外れな鑑賞に陥没してしまうことは自明の理であろう。
 
 ここで、もう一つ、この『白痴』の最後を飾る章「抱風子鶯団子」の全句を挙げて置きたい。

    抱風子鶯団子

   三月廿九日午後三時抱風子鶯団子持参
   先週以来連続して夢枕に現はれたるそ
   のもの目前へ持参
  抱風子鶯団子買得たり
  買得たり鶯団子一人前
  一人前鶯団子唯三つぶ
  唯三つぶ鶯団子箱の隅
  しんねりと鶯団子三つぶかな
  むつつりと鶯団子三つぶかな
  皆懺悔鶯団子たひらげて 

この七句のうちの前の四句は、「尻取り」連句の句作りなのである。「抱風子鶯団子〈買得たり〉」→「〈買得たり〉鶯団子〈一人前〉」→「〈一人前〉鶯団子〈唯三つぶ〉」→「〈唯三つぶ〉鶯団子箱の隅」と、これは「言葉遊び」の句なのである。それに続く、「しんねりと鶯団子三つぶかな」と「むつつりと鶯団子三つぶかな」とは「対句」(似た言葉、文を並べて印象づける方法)の句作りで、これまた、「修辞法」というよりも「言葉遊び」の句なのであろう。そして、最後の、「皆懺悔鶯団子たひらげて」は、「序破急」の三段構成の、「破」の部分の「オチ」ということになり、ここで、この「言葉遊び」は「ゲームセット」ということになる。
このような句について、一句一句鑑賞したら、これはどうにも、「駄句」というよりも、それこそ、「茅舎の病気はそれだけ重く、本当に白痴に近い状態になっていたのだろう」ということになってしまうだろう。
それ以上に、これらの「抱風子鶯団子」の章の、これらの七句は、この「抱風子」こと、当時の茅舎の最も身辺近くに行き来していた愛弟子の「鈴木抱風子」への「挨拶句」のような、二人だけに通用する何かの謎が隠されているような、そんな響きを有しているのである。そして、その謎の十全を解明するという所作は、この二人を除いては、殆ど不可能なのではなかろうか?
これらの、この『白痴』に隠された謎に大胆に挑戦したものとして、先に紹介したところの、『蝸牛俳句文庫一一川端茅舎(嶋田麻紀・松浦敬親編著)』が挙げられる。ここで、そこから、順不同で、要約して掲げると次のとおりである。

[最終章の「抱風子鶯団子」の七句。「三月廿九日午後三時抱風子鶯団子持参先週以来連続して夢枕に現はれたるそのもの目前へ持参」と前書にある。上野公園の「鶯亭」の鶯団子は、戦争で物質が欠乏し、一人一人前(三つぶ)しか売らなかった。→ 茅舎はここで何を言いたかったのか? それは前書を読めば分かる。茅舎は「三」と云う数に神の啓示を見たのだ。「午後三時」それは、イエスが十字架の上で神を呼び、そして、死んだ時刻だ。しかも、鶯団子は三つぶで、この「抱風子団子」は、二十七章目に当たる。→ 二十七は三を三度掛けた数である。そしてこの二十七章の句の数は七。『白痴』では、七句の章は茅舎の補陀落浄土で、「菜殻の炎」「塵土」「初夏の径」もそうである。→ 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう」(マタイ十八・三)を実践したのだ。→ イエスは続けて、「この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。」(マタイ十八・四)と言っている。茅舎は、若い時から持ち続けて来た精神的な分裂を、「白痴」になることで解消し、救われたのである。
→ 茅舎は、こうして若い時から分裂を解消した。そして、「茅舎の浄土」へと分け入った。勿論その浄土には、父の寿山堂や母ゆき、妹のハルも一緒に住んでいる。『白痴』には、「家族復活」へのそう云う熱い願いが込められていたのである。従って、「新婚の清を祝福して贈る」とは、お前も仕合わせ家庭を築くんだよ、と云う意味だったのだ。]

 この『蝸牛俳句文庫一一川端茅舎(嶋田麻紀・松浦敬親編著)』の「イエスキリストの幼な子・茅舎の、その『茅舎復活』の、その証しとしての句集が、この『白痴』なのだ」という見方は、これまでの、「中村草田男・香西照雄・石原八束」らの「川端茅舎の世界」に、新しい視点を導入したものとして、画期的ではあるけれども、それが十全の正鵠を得たものなのかどうかということになると、どうも、茅舎自身、「これは、遊びの世界であって、そんなに、聖書や華厳教のような、そんな深いものも持ち出さなくても・・・」と苦笑するのではなかろうか?
 しかし、この茅舎の『白痴』という句集が、その「序」に出て来る「清」(茅舎の甥、龍子の子)や「あとがき」などに出てくる「鈴木抱風子」(茅舎の身辺に在った愛弟子)、そして、句の前書きに出て来る「小野房子(茅舎の晩年に親交の厚かった筑紫の女流俳人)・二水夫人(晩年の茅舎が主宰した「あをきり句会」会長の藤原二水夫人)など、「もう一度後記」に出て来る「知音同志」を念頭に於いての、極めて、「褻(ケ)」的な句集であることは、これだけは、茅舎自身、この『白痴』に託したところの、紛れもない事実なのだという思いを実感する。

(追記)

 大田区立龍子記念館では、いろいろな企画展を実施している。この平成二十二年(二〇一〇)五月二十二日から九月五日までは、「龍子の色・いろ・イロ」ということで、龍子の「色」という側面から「龍子独自の表現方法」ということに的を絞っての企画であった。  
 その展示作品は、絹本金彩色の「一天護持」や紙本着色の「渦潮」・「立秋」、そして、紙本墨画金彩の「伊豆の国」など、龍子の「赤・青・黒」の世界のもので、こういう企画の展示もあるのかと大変に見応えがあった。
 その壁面の作品ではなく、陳列ケースの一つに、茅舎の油絵の小品(「一果二菜」)と短冊などに混ざって、句集『白痴』が展示されていた。この句集『白痴』を見て、想像したものと違って、かなり豪華な装幀であることにびっくりした。何と、その装幀が武者小路実篤のものなのである。そして、箱付きで、これは、確かに、その「序」の茅舎の甥で龍子の次男(長男死亡・継嗣)の「新婚の清を祝福して贈る」に相応しい、後々まで記念になるような句集としての装いを施している。
 この豪華な句集『白痴』は、その「後記」によると全て茅舎の愛弟子の鈴木抱風子が「何も彼も整理して呉れて全く自分(注・茅舎)は手を下さずして句集は出来て了つたのである」と記して、茅舎は「終始傍観し得た」というのであるが、その「もう一度後記」で、「もう一度誰哉行燈(たそやアンドウ)を許して欲しい」ということで、「実は何も彼も自分(注・茅舎)がやった」ということを匂わせているのである。
 この豪華な不可思議な句集『白痴』は、全編、これ、茅舎ならではという選句と編集とスタイルで、おそらく、この武者小路実篤の装幀も、無二の幼なじみの親友・西島麦南共々、実篤とは「新しき村」を介しての知己であり、茅舎・麦南の青春時代の大きな「新しい村」(理想的な調和社会・階級闘争の無い世界(ユートピア))への共鳴の、その証しのようにも思えるのである。
 この『白痴』が刊行されたのは、昭和十六年(一九四一)六月三十日で、茅舎が亡くなったのは、七月十七日、その亡くなる三日前に、茅舎の枕頭に届けられたという(『近代俳句大観』「俳書解題」)。しかし、その「序」の「新婚の清を祝福して贈る」の、その甥の「清」は、応召されて、戦地に赴いていたのであろう。
 茅舎の異母兄の龍子は、長男が夭逝し、次男(清)と三男(嵩)とが応召され、三男は、昭和十九年(一九四四)に南方戦線ニューギニアに戦死する。この年、龍子は夏子夫人も失っている。この清が帰還して、敬愛する伯父の茅舎亡き後、この遺書のような『白痴』を手にして、いかなる感慨を抱いたことなのか・・・、そのことに思を巡らす時に、これまた、さまざまな感慨が湧いてくるのを覚える。
 



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