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正岡子規の俳句革新(一)

2006-05-13 03:21:34 | 正岡子規
 正岡子規の「俳句革新」       

  目次                

⑴ 「俳句革新」の原点 (アマチュアリズムの視点)     
⑵ 芭蕉の実像と虚像  (『芭蕉雑談』の意味するもの)  
⑶ 子規の俳句観(『俳諧大要』その一)
⑷ 子規の写生論 (『俳諧大要』その二)
⑸ 子規の俳句修学論(『俳諧大要』その三)
⑹ 子規の連句非文学論 (『俳諧大要』その四)
⑺ 蕪村再発見 (『俳人蕪村』の意味するもの)
⑻ 子規の実像と虚像 (「子規俳論」の総括的考察)    

(参考文献)
①『子規全集第四巻(俳論俳話)』(浅原勝解題)・講談社(昭和 五〇) 
② 『子規全集第五巻(俳論俳話)』(尾形仂解題)・講談社(昭和五〇)   ③ 『正岡子規集(日本近代文学体系)(松井利彦校注)・角川書店(昭和四七)④ 『正岡子規』(松井利彦著)・桜楓社(昭和五四)  
⑤ 『俳句・短歌(近代文学鑑賞講座)』(山本健吉編)・角川書店(昭和三五)⑥ 『俳句講座七(現代俳句史)』(加藤楸邨他著)・明治書院(昭和三四)  ⑦ 『俳句講座八(現代作家論)』(山口誓子他著)・明治書院(昭和三三)  ⑧ 『子規と漱石と私』(高浜虚子著)・永田書房(昭和五八)        ⑨ 『俳句で読む正岡子規』(山下一海著)・永田書房(平成四)       
⑩ 『正岡子規』(粟津則雄著)・講談社(平成七)   
☆ その他「本文」中に記載  

⑴ 「俳句革新」の原点 (アマチュアリズムの視点)     

 慶応四年(一八六八)七月、江戸は東京に改称され、その年の九月、年号が明治に改元された。明治維新は、日本のあらゆる面において一大変革をもたらした。
 その一大変革とは、日本文学史上、古典文学から近代文学への衣替えでもあった。それは、いわば、それまでの和服という衣を脱ぎ棄てて、新しい洋服という衣で身を包むという革新的なことを意味した。           
 即ち、これを芭蕉の樹立した俳諧(連句・発句)という世界でいえば、それは、芭蕉以来、営々と続いていたその俳諧(連句・発句)という和服は、明治二十年代に入り、正岡子規(一八六七~一九〇二)によって、近代の「俳句」という新しい洋服に生まれ変わってしまうのである。
 これが、子規の「俳句革新」であり、これが「月並俳句(つきなみはいく)から近代俳句」への移行でもあった。
 この子規の「俳句革新」とは何だったのであろうか。
 子規の「俳句革新」というのは、「書生(アマ)の、書生(アマ)のための、書生(アマチュア)による」俳句革新運動であった。 子規が批判の対象とした、月並(月次)俳句とは、当時の俳諧の宗匠達が開く毎月の例会を意味したが、子規は、それらの月並俳句を「平凡・陳腐・卑俗」として攻撃したのである。     そして、子規の月並俳句(旧派)の批判と子規らが目指す近代俳句(新派)との違いは、子規は、その『俳句問答』(明治二十九年五月から九月まで「日本」新聞に連載され、後に刊行本となる)において、要約すれば以下のとおりに主張するのである。

○問 新俳句と月並俳句とは句作に差異あるものと考へられる。果して差異あらば新俳句は如何なる点を主眼とし月並句は如何なる点を主眼として句作するものなりや    

○答 第一は、我(注・新俳句)は直接に感情に訴へんと欲し、彼(注・月並俳句)は往々智識(注・知識)に訴へんと欲す。

○第二は、我(注・新俳句)は意匠の陳腐なるを嫌へども、彼(注・月並俳句)は意匠の陳腐を嫌ふこと我より少なし、寧ろ彼は陳腐を好み新奇を嫌ふ傾向あり。

○第三は、我(注・新俳句)は言語の懈弛(注・たるみ)を嫌ひ彼(注・月並俳句)は言語の懈弛(注・たるみ)を嫌ふこと我より少なし、寧ろ彼は懈弛(注・たるみ)を好み緊密を嫌ふ傾向あり。

○第四は、我(注・新俳句)は音調の調和する限りに於て雅語俗語漢語洋語を問はず、彼(注・月並俳句)は洋語を排斥し漢語は自己が用ゐなれたる狭き範囲を出づべからずとし雅語も多くは用ゐず。          

○第五は、我(注・」新俳句)に俳諧の系統無く又流派無し、彼(注・月並俳句)は俳諧の系統と流派とを有し且つ之があるが為に特殊の光栄ありと自信せるが如し、従って其派の開祖及び其伝統を受けたる人には特別の尊敬を表し且つ其人等の著作を無比の価値あるものとす。我(注・新俳句)はある俳人を尊敬することあれどもそは其著作の佳なるが為なり。されども尊敬を表する俳人の著作といへども佳なる者と佳ならざる者とあり。正当に言へば我(注・新俳句)は其人を尊敬せずして其著作を尊敬するなり。故に我(注・新俳句)は多くの反対せる流派に於て俳句を認め又悪句を認む。   

 この第一から第五までの子規の主張の中で、子規が最も強調したのは、この第五であった。即ち、子規が排斥して止まなかったものは、それは、日本という土地に平然と土俗化し風化した垢まみれの宗匠達が牛耳っいる、その古色蒼然とした宗匠俳諧への痛罵であった。

 それは、作品そのものというよりは、宗匠という人種への挑戦であった。即ち、言葉を変えていえば、それは、当時の権威の象徴でもある宗匠(プロ・職業俳人)を排斥し、「「書生(アマ・素人)の、書生(アマ・素人)のための、書生(アマ・素人)による」俳句を標榜したのであった。       
 正岡子規の生涯というのは、実に三十五年という短いものであった。そして、喀血して子規(「卯の花をめがけてきたか時鳥」・「卯の花の散るまで鳴くか子規」より子規の由来があるとか)と号したのが、明治二十二年、子規十七歳の時、そして、病床の人となり、文字とおり『病牀六尺』の境遇に置かれたのが、明治二十八年、その二十八歳の時であった。
 その永く病床にあったその短い生涯にあって、子規は、「俳句革新」と「短歌革新」において、超人的な足跡を残したのである。  その「俳句革新」は、明治二十五年(二十五歳の時)の『獺祭書屋俳話(だつさいしょおくはいわ)』において口火が切られ、その「短歌革新」は、明治三十一年(三十一歳の時)の『歌よみに与ふる書』においてであった。

 この「俳句革新」の第一声の『獺祭書屋俳話(だつさいしょおくはいわ)』は、明治二十五年六月から十月にかけて「日本」新聞に連載されたものであった。

 そして、この『獺祭書屋俳話(だつさいしょおくはいわ)』は、その「俳句分類」の子規の作業を通しながら会得された古俳諧の膨大な情報集積を縦横に駆使しながら、随筆的に表したもので、当初から系統だった俳論という体裁ではなかった。

 後に、単行本として出版されるに及び、それは、「俳諧史」・「俳諧論」・「俳人俳句」・「俳書批評」という分野で再編集されるのであった。

 子規は、この俳話において、「俳諧」・「発句」という言葉のほかに、さりげなく「俳句」という言葉も用い、現在の「俳句」という分野を、「俳諧」・「発句」という分野から、全く、単独のものとして独立させるに至るのである。

 即ち、その俳話は、「俳諧という名称」・「連歌と俳諧」・「延宝天和貞享の俳風」・「足利時代より元禄に至る発句」・「俳書」として、次に、「字余りの俳句」という項目が来て、この後に、この俳話において、最も注目すべき「俳句の前途」という俳論が続くのである。

 そして、その前提には、「連歌と俳諧」という項目で、次のような、「俳諧」・「発句」という分野から「俳句」という分野に切り替えようとする、子規の主張の兆しが見られるのである。                                  
○芭蕉は発句のみならず俳諧連歌(注・連句)にも一様に力を尽し其門弟の如きも猶其遺訓を守りしが後世に至りては単に十七字の発句を重んじ俳諧連歌(注・連句)は僅に其付属物として存ず(注・す)るの傾向あるが如し。      

そして、この『獺祭書屋俳話(だつさいしょおくはいわ)』において、最も注目すべき「俳句滅亡論」が、その「俳句の前途」において展開されるのである。それを要約すると以下のとおりとなる。                      

○日本の和歌俳句の如きは一首の字音僅に二三十に過ぎざれば之を錯列法(バーミュテーシヨン)に由て算するも其数に限りあるを知るべきなり。語を換へて之をいはゞ和歌(重に短歌をいふ)俳句は早晩其限りに達して最早此上に一首の新しきものだに作り得べからさ(注・ざ)るに至るべしと。

○試みに見よ古往今来吟詠せし所の幾万の和歌俳句は一見其面目を異にするが如しといへども細かに之を観(注・み)広く之を比ぶれば其類似せる者真に幾何(注・いくばく)ぞや。弟子は師より脱化し来り後輩は先哲より剽窃(注・窃は旧字体)し去りて作為せる者比々皆是れなり。

○終に一箇の新観念を提起するものなし。而して世の下るに従い平凡宗匠平凡歌人のみ多く現はるゝは罪其人に在りとはいへ一は和歌又俳句其物の狭隘なるによらずんばあらざるなり。                 

○さらば和歌俳句の運命は何れの時に窮まると。対へて云ふ。其窮り盡すの時は固より之を知るべからずといへども概言すれば俳句は已に盡きたりと思ふなり。よし未だ盡きずとするも明治年間に盡きんこと期して待つべきなり。





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