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巴人春秋(七・八・九・十)

2005-05-05 09:36:48 | 巴人関係
(七) 巴人と潭北 
                                             
一二〇 山姥(やまうば)の二人出合や清水影--前書き「潭北来りて両吟」                                                        
潭北(たんぽく)は、渡辺氏、後に常磐氏を名乗る。延宝五年(一七六六)、下野国(栃木県)那須郡烏山の生まれ、延享七年(一七四四)七月三日没、享年六十八歳。其角門。巴人よりも一歳年下で、同郷・同門ということになる。この潭北は終生巴人との交友があり、その関係で、その晩年には関東遊歴中の若き日の蕪村の保護者の一人でもあった。潭北編の『汐越(しおこし)』の沾徳の序によれば医者であったというが未詳。その『汐越(しおこし)』には、これまた、巴人が兄事した祇空と奥羽行脚に出た記事もあり、祇空・巴人・潭北もまた一本の線で結びつくのである。俳論書の『綾錦』によれば、享保期(一七一六~一七三六)の江戸総匠の一人とされている。
 巴人は延宝四年(一七六五)に下野の烏山の生まれであるが、生母との死別により貞享元年(一六八四)の九歳の頃江戸に出たと思わる。それ以来、生まれ故郷の烏山には時折帰ることはあれ、その主たる本拠地は、父方の実家である江戸(日本橋本町四丁目の唐木屋)であったのであろう。それ故に、巴人の、例えば、「古郷(ふるさと)をふたつ担(にな)ふて袷(あはせ)哉」の句のように、巴人の思いは、江戸と京都との二つが本当の故郷であるという意識があったのかも知れない。元禄十五年(一七〇二)の巴人の二十七歳の時の、烏山滝田天満宮への烏山八景の句の奉納や、その翌年の「晋其角先生出点百韻」(早野家蔵)など以外に、巴人の烏山とに関係するものは残されていない。しかし、巴人と烏山を結びつける何よりのものはその生涯の友であった潭北との交友記録であろう。そして、この潭北の墓は烏山町の善念寺の渡辺家の墓地内に見ることができる。
 巴人と潭北との俳諧(連句)などは、「江戸川三吟」(巴人・潭北・我尚)や「結城三吟」(巴人・潭北・雁宕)など今に残されているが、この掲出句を発句とする両吟がどのようなものであったかについては定かではない。しかし、この句は、謡曲の「山姥」をもとにしていることは明瞭で、この謡曲のシテは鬼女の山姥、そして、ツレは百萬山姥という遊女で、剛直な潭北というイメージといくとシテは鬼女の山姥の方が潭北で、ツレの都の遊女の百萬山姥の方が巴人というイメージでもある。いずれにしろ、この句の山姥は見立ての句で、夏の清水影で俳諧に興じる巴人・潭北との、当時の姿そのものであり、巴人・潭北の両者にあっては、それぞれがなくてはならない同郷・同門・良き理解者であったということであろう。
                                             
(八) 巴人と破立 
                                             
一〇四 菖蒲ふく宿の仮寝や夢幾つ---前書き「笠翁(りつおう)はやく訪ひける」
                                              
小川破立(はりつ)(一六六三~一七四七)、別号は笠翁(りつおう)など。俳諧は始め露言(ろげん)門、後に蕉門。破立は俳諧以外に蒔絵・象嵌の作家でその作品は破立細工として喧伝されていた。この破立は貞享二年(一六八五)の二十三歳の頃、四十二歳前後の芭蕉翁との出合いがあり、この頃、其角・嵐雪と一つの布団に寝たとのことが『老(おい)の楽(たのしみ)」(才牛著)などに記されている。巴人との出合いは其角・嵐雪の他界した後の宝永五年(一七〇八)の頃の、百里編の『とおのく』などに一緒に歌仙を巻いたものが見られる。時に、破立、四十三歳、巴人は三十三歳の頃であった。後に、破立は津軽藩に抱えられ一時破立細工に身を入れ俳諧活動と疎遠になることもあり、巴人との関係は、巴人の江戸再帰の元文二年(一七三七)まで、これといった記録は残されていない。そして、この掲出句は、この元文二年の久々の巴人と破立の再会の時の句なのである。
 この前書きの「笠翁(りつおう)はやく訪ひける」は、文字どおりに訳すならば、「笠翁が(江戸に帰ってきた巴人を)早々に尋ねてきた」となるのであろうが、時に、破立は七十五歳、巴人は六十二歳であり、しかも、破立は巴人の俳諧の大先輩という関係でもあり、ここは、「笠翁(りつおう)<を>はやく訪ひける」で、<を>が脱漏しているとも推測される。その上で、この句意は、菖蒲が活けてある端午の節句の頃、その笠翁の家で一晩仮寝のような時間を過ごして、そして、笠翁が若い頃、其角の家で、其角・嵐雪・笠翁の三人で一つ布団の炬燵の中で仮寝をしたことなどの話しを思い出しながら、私ども(笠翁・巴人)もこのような仮寝の夢を幾度も見たことかと二人して述懐している光景と理解をしたいのである。
 ちなみに、巴人はこの年の四月十九日に京都ょ出発して、三十日に江戸に着いて、露月(ろげつ)の尽力によって草庵が結ばれ、六月十日頃日本橋本石町で夜半亭を営んだという。当時、破立はその本石町に近い、職人が多く住む中橋桶町に住んでいたという(『画師姓名冠字類抄』)。そして、再び、巴人と破立との交友関係は再開し、元文四年(一七三九)の宋阿(巴人)編の『誹諧桃櫻』に次の句を破立は寄せている。この句の前書きは若い頃の破立・其角・嵐雪の三人の相宿を意味するとされているが(『誹諧手提灯』に「今はむかし、嵐雪は彦兵衛、予は平助と云し時、其角がもとにして蒲団ひとつに寒夜を凌(しのぎ)しに、酬和(しゆうわ)のふたりはなし)」の前書きのある「跡さして火燵(こたつ)に寝たね夢なれや」の句が収録されている)、こと、この『誹諧桃櫻』収録の破立の句は、破立と巴人の、この元文二年の二人の再会の時の相宿と解したいのである。
    相宿のむかしなつかしく                                跡さしてねたるぞ寝ぬぞ春の夢  (破立)                                                                    
(九) 巴人と露月                                                                               
一二四 我(わが)宿とおもへば涼し夕月夜---前書き「水無月十日頃、鐘楼の辺りに彼(かの)      荒(あれ)たる家の侍るを露月、いとをかしくしつらひ、調度やうのものとり揃て旅の      労をいたはりはかられける。まことに友がきの隔なき交りなるべし。されば此(この)      舎(や)を夜半亭と号(なづけ)て、しばらく膝を入るあるじとなりぬ」                                                    
露月(ろげつ)という俳人は二人居り、一人はこの掲出句の前書きに出てくる江戸時代の俳人であり、もう一人は正岡子規(しき)の重鎮と目されている明治時代の石井露月の二人である。今の俳句の時代にあって、露月といえばこの後者の俳人を指す場合が多い。この前者の露月(一六六七~一七五一)は、豊嶋氏で観世流の謡の師匠であった。江戸日本橋本石町の住まいで、巴人が居を構えることとなった夜半亭は、この前書きにあるとおりに、文字どおり露月の斡旋によるものであったのであろう。誹諧は磐城の藩主の内藤露沾(ろせん)門で、この露沾門から沾徳・沾涼(せんりよう)・露言(ろげん)などの其角系と別派の江戸座の重鎮が輩出した。この江戸座との関連で露月と巴人とは若い頃から俳諧仲間であり、年格好は露月が九歳上ということになる。
 二十一歳前後の蕪村が巴人門に入門したのは、巴人が江戸に再帰してこの夜半亭に入った頃なのであろう。そして、この蕪村画として現在確認されているものの最初のものとされている「鎌倉誂物」自画賛が収録されているものは、実に、この露月が編んだ『卯月庭訓(うづきていくん)』なのであった。このことは、当然に、巴人との関係で若き日の蕪村がその版本の挿絵図を描いたということになろう。そして、その時の蕪村(当時の号は宰町)の句は「尼寺や十夜に届く鬢葛(びんかづら)」というものであった。ここで特筆しておきたいことは、露月は絵入り俳書刊行に熱心に取り組んでおり、そして、破立細工としてその名を馳せている俳人・蒔絵・象嵌の作家の破立が、露言編の『二子山(ふたごやま)』などの俳書にその挿絵図を描いているのである。即ち、露言の絵入り俳書の刊行を通して、破立・露言・巴人・蕪村(宰町)は一本の線でつながるのである。ということは、少なくとも、俳諧を含め多芸多才の蕪村は、これまた俳諧を含め多芸多才の破立の挿絵図などの影響を受け手いるということも必ずしも的を得ていないということでもなかろう。とにもかくにも、若き日の蕪村は、そのようなデイレッタント(好事家)的な世界で、その俳諧や絵画の修業をしたということであろう。
 この巴人の句は前書きと共によく知られた句で、句そのものは平明だが、其角の「わが雪と思へば軽し笠の上」などの良く喧伝されている句の本歌取りのような句作りなのではあろう。時に、巴人、六十二歳という晩年に差しかかり、そして、しみじみと、ここを最後の住処とするかという実感のこもった雰囲気が伝わってくる。
                                             
(十) 蕪村の描く巴人像                                                                            
一三四 鳴(なき)ながら川飛(とぶ)蝉の日影かな
                                              
巴人・蕪村の後を継いで夜半亭三世となる高井几董が、明和九年(一七七二)に刊行した『其雪影(そのゆきかげ)』の下巻に蕪村の描くところの芭蕉・其角・嵐雪の三尊像と宋阿(巴人)と几董の父の巴人の高弟の高井几圭(きけい)対座像が収録されている。そこには、几董の書による次のような記載がある。                                                                                    
古いけや蛙とび込む水の音        芭蕉翁(芭蕉)                  
稲妻やきのふは東けふは西        晋其角(其角)                  
黄ぎく白菊そのほかの名はなくも哉  雪中庵嵐雪(嵐雪)                  
  郢月泉巴人(エイゲツセンハジン)                           
後以巴人為菴号(ノチハジンヲモッテアンゴウトナス)                    
更名宋阿(ナハソウアニアラタメ)
 別号夜半亭(ベツニヤハンテイトナズク)
  啼(なき)ながら川こす蝉の日影哉     (巴人)                   高几圭後更名宋是(コウキケイノチナハソウゼニアラタメ)                  号几圭菴(キケイアントナズク)                               凩のそこつ(麁忽)はあらでむめの花    (几圭)                      夜半亭蕪村画・門人高(高井)几董書                                                                      この芭蕉・其角・嵐雪、そして、巴人(夜半亭一世)・蕪村(夜半亭二世)・几董(夜半亭三世)と続くこの系譜こそ、まさしく、夜半亭俳諧の系譜そのものを示すものであった。そして、几董の父の几圭その人は、同年代の巴人門の高弟の宋屋がいなければ、その夜半亭二世を継ぐ人物として衆目の一致するところの、巴人門の一・二を争う高弟でもあった。蕪村は、几圭・宋屋亡き後、几圭の子・几董がその夜半亭三世を継ぐことを条件として、その夜半亭を継承するのであった。これら夜半亭俳諧に関連する芭蕉・其角・嵐雪そして巴人(夜半亭一世)・几圭の肖像を、蕪村(夜半亭二世)が描き、そして、几董(夜半亭三世)が書をしたためたという、これはまさしく圧巻という表現が一番相応しいようにも思えてくる。
 さて、この掲出句は、几董の、この『其雪影』や更には『日発句集(ひぼつくしゆう)』では、中七の「川飛ぶ蝉の」が「川越す蝉の」の句形となっているが、具象的な臨場感を伴ってくるという観点からは後者の「川越す」という句形を佳としたい。この句は巴人の傑作句である。  

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