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巴人春秋(その一)

2005-01-03 21:06:21 | 巴人関係
巴人春秋(その一)        
                                       
                                            
〔 春 〕                                     
                                            
(一) 蕪村の夜半亭入門                               
                                            
○ あたらしき友の中にも花の春  
                                            
 この巴人(はじん)の句には、「異郷に客たる事十余年、ことし漸(ようや)く古郷(ふるさと)に春を迎(むかえ)て」という前書きがある。この前書きから、この句は巴人が江戸に再帰した元文二年(一七三七)の春に詠んだものというのが分かる。時に巴人の六十二歳の時であった。巴人が他界するのは、この年の五年後の享保二年(一七四二)のことであり、この句も亡くなる五年前と、実にその晩年の句ということになろう。                             そして、この頃から巴人の句は実に平明な句と転回をするのである。そもそも巴人の師匠は、芭蕉の両腕とも称される其角(きかく)と嵐雪(らんせつ)の二人であり、まさに、巴人は当時の主流であった、其角の江戸座(えどざ)と嵐雪の雪門(せつもん)の両方に足を置いていて、江戸座の人事句重視のともすると難解な知的な比喩(ひゆ)俳諧と雪門の景物句を得意とする平明な情に基づく比喩俳諧との両面に置いて傑出した俳人であった。そして、ともすると、その前半生は江戸座的な他人に抜きん出たいという雰囲気の中の創作活動であったのに対して、その後半生に至る頃から雪門的な自己を凝視し自己に忠実たらんとする平明な創作活動に移行していたとも取れなくはないのである。 そして、この巴人の創作活動の転回の背後には、その直接の師である其角と嵐雪との、その師に当たる芭蕉その人の想いというのが見え隠れしているように思えるのである。すなわち、掲出のこの句の背後には芭蕉の元禄三年(一六九〇)の正月に詠んだ句の、「薦(こも)を着て誰人います花のはる」が、巴人の脳裏にあったように思えるのである。     
 この芭蕉の句は「華やかな世間一般の正月の中にあって、世捨て人のような、そして、それは西行(さいぎょう)に通ずる、反俗・反権威の万物を放下した乞食が、その華やかな春に背いている」という、そして、「できることなら、その万物を放下した乞食になりたい」という、芭蕉の終生の目標であったような生き方に通ずる一句ということになろう。
 とすれば、蕪村(ぶそん)の師として喧伝されているに比して、その実作活動については殆ど省みられていない、芭蕉・其角・嵐雪の次の時代を背負った早野巴人という俳人は、其角・嵐雪の跡を継ぐというよりも、まさしく、其角・嵐雪の直接の師であり、新しい俳諧という文学を創造した、その人・松尾芭蕉を、その終生の目標にしてその偉業に挑戦し、その偉業を継承せんとした人ということがいえるであろう。                        
 そして、この巴人の門から、名実共に、芭蕉俳諧を新しい次元へと稔りあるものとした、与謝蕪村が誕生したことは、それは歴史の必然であったということもできるであろう。そして、この巴人の掲出句の、この「あたらしき友」とは、これこそ、巴人の夜半亭(やはんてい)門に入門してきた、蕪村その人を指すといっても、決して誤りではなかろう。

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